第67話(最終話) 「いつもの朝」
追放された夜に歩いた森を、もう一度訪れたいと思った。
理由は分からない。珍しく、目的のない外出だった。統合準備の書類はキサとリノが片付けている。事務棟の増築はギンの草刈りとクロの屋根工事が進んでいる。ゼノは書庫で大平原の地下調査計画を練っている。木板に未処理の項目はない。
だから歩いた。一人で。
エルデの街を出て、東の森に入った。あの夜と同じ道。深夜ではなく昼間だったが、木々の配置は覚えている。三年分の異世界生活の最初の三年は、この森の手前で過ごした。レクスのパーティーにいた頃。荷物持ちとして。
森の中腹。あの夜、瘴獣が仔狼を囲んでいた場所。
木の根元に膝をついた。
何も残っていなかった。仔狼の血の跡も、瘴獣の黒い霧の痕跡も、俺が振り回した松明の焦げ跡も。全部が草に埋もれて、苔に覆われていた。瘴気が消えた森は回復が速い。傷跡を隠すように、緑が全てを覆い直していた。
少し歩いた。崖沿いの細道。瘴獣を誘い込んだ場所。ここで腕を噛まれた。前世で終電帰りに階段から落ちた時の方がよっぽど痛かった、とあの時は思った。
さらに歩いた。
岩陰。あの夜、仔狼を抱いて眠った場所。焚き火の跡はもう消えていた。灰すら残っていない。苔が生えて、岩の表面が緑に覆われている。
ここだ。
ここで仔狼を腕に抱いた。銀色の毛並み。小さな体が温かかった。心臓の音がとくとくと伝わってきた。
くぅん、と鳴いた。まるで、ありがとうと言うように。
翌朝、腕の中にいたのは狼ではなく、銀髪の美少女だった。
全部、ここから始まった。
岩にもたれて座った。あの夜と同じ姿勢。目を閉じた。
森の音が聞こえる。鳥の声。風の音。木の葉が擦れる音。瘴気がない森は、こんなにも穏やかだ。あの夜は瘴獣の気配に怯えながら眠った。今は鳥が鳴いている。
一人だった。あの夜も。今も。
一人で来たはずだった。
だが——後ろに気配があった。
一つではない。五つ。
目を開けた。
振り返った。
全員いた。
ギンが木の幹の後ろに隠れていた。銀の尻尾がはみ出している。隠れる気があるのかないのか分からない。
クロが枝の上に座っていた。猫のように音もなく登ったのだろう。オッドアイがこちらを見下ろしている。
ツルが少し離れた場所に立っていた。手に水筒と包みを持っている。弁当だ。
アカが岩の上に仁王立ちしていた。隠れる気が一切ない。腕を組んで、堂々とこちらを見ている。
キサが木にもたれていた。帳簿は持っていない。金色の目がこちらを向いている。
「……いつからいた」
「街を出た時から」
五つの声が同時に答えた。
「ぬしさまが一人で歩くのは、だめ」
ギンが木の後ろから出てきた。銀の髪が木漏れ日に透けている。金色の目がまっすぐ俺を見ている。
あの夜と同じ台詞だった。
最初の朝。銀髪の少女が俺の腕にしがみついて言った。「ぬしさまが独りで歩くのは、だめ。あぶない。ギンがいないと、だめ」。
あの朝から何も変わっていない。恩刻が灯る前から、恩刻が消えた後も。ギンの台詞は同じだ。
「お前は変わらないな」
「変わらないよ」
ギンが笑った。
「ギンはぬしさまの最初で、最後までいるの」
最初の夜と同じ約束。恩刻がなくても、変わらない約束。
「全員、勝手についてきたのか」
「あたしは猫だから勝手に歩いてるだけよ。たまたま同じ方角だっただけ」
クロが枝の上から言った。尻尾が揺れている。たまたまが何度目かは、もう数えない。
「ハルさま、お弁当をお持ちしました。森の中でお食事もよいかと思いまして」
ツルが包みを広げた。握り飯と焼き魚と漬物。六人分。最初から六人分を作ってきている。一人で来るとは思っていなかったのだ。
「妾は見張りじゃ。瘴獣はもうおらぬが、おぬしが独りで歩くのを看過できぬからの」
アカが腕を組んだまま胸を張った。危険はもうない。だがアカにとってはそういう問題ではないのだろう。
「わたくしは散歩ですわ。帳簿に根を詰めすぎましたので、気分転換に」
キサが微笑んだ。帳簿を持っていない時点で、散歩が本来の目的ではないことは明白だった。
六人で森の中にいた。仔狼を助けた木の根元の近くで。
「ここがぬしさまとギンの始まりの場所」
ギンが木の根元に手を当てた。
「ギンが怪我してた。瘴獣に囲まれてた。ぬしさまが来てくれた。松明で瘴獣を追い払って、薬を塗って、干し肉をくれて。あの夜のこと、ギンは全部覚えてる。恩刻が忘れさせなかったんじゃない。ギンが忘れたくないの。自分で」
ギンの金色の目が澄んでいた。恩刻の光はない。ただの金色。あの夜、仔狼が俺を見上げた時と同じ色。
弁当を食べた。森の中で、六人で。木漏れ日の下で握り飯を頬張った。ギンが二個目に手を伸ばし、アカが魚の骨を噛み砕き、クロが漬物を選り分け、キサが茶を配り、ツルが全員の食べ具合を見回していた。
いつもの食卓が、森の中に移動しただけだった。
「帰ろうか」
「うん」
「全員で」
「当たり前じゃ」
森の中を六人で歩いた。来た道を戻る。木漏れ日が道に斑を作っている。鳥が鳴いている。風が枝を揺らしている。
夕日が傾き始めていた。森の出口に近づくにつれて、木々の間から橙色の光が差し込んでくる。
銀の髪が夕日に透けている。黒い髪が風に揺れている。白い髪が光を受けて輝いている。赤い髪が炎のように燃えている。黒い髪が夕日に金を帯びている。
五色の髪が、夕暮れの森を歩いている。
*
翌朝。
ツルの粥と焼き魚と漬物。
竈の火が入る音で目が覚めた。階段を降りると、台所にツルが立っている。白い髪を一つに束ねて、袖を捲って、粥をかき混ぜている。左手。震えていない。
食卓に椅子が並んでいる。八脚と低い台一つ。
ギンが一番に降りてきた。寝癖がついた銀髪で、目を擦りながら。
「ぬしさまおはよう!」
「ああ。おはよう」
クロが屋根裏から降りてきた。欠伸をしながら。いつもの席——俺の左隣——に座った。上着の裾を指先で掴んだ。いつもの仕草。
「……おはよ」
「おはよう」
アカが二階から駆け下りてきた。
「おはようなのじゃ! 今日の仕事は何じゃ!」
「まだ確認してない」
「早くせい! 妾の力が錆びる!」
「錆びない」
キサが帳簿を抱えて降りてきた。
「おはようございます、ハルさま。統合準備の書類がまだですわ」
「朝飯の後でやる」
「朝食前に終わらせた方が効率的ですわ」
「飯が先だ」
「……承知しましたわ」
シロが門をくぐってきた。今日も一人で歩いてきた。白い髪が朝日に透けている。
「おはよう。今日もお邪魔するわね」
キサが立ち上がって迎えた。尾が二本出ている。姉の前でだけ増える尾。
リノが出勤してきた。門を叩く音。控えめで礼儀正しいノック。
「おはようございます。今日の書類をお持ちしました」
庭で、ヒノが歩いていた。ギンが横を歩いている。ヒノのペースで。一歩に二秒。少しずつ速くなっている。ギンの銀の髪とヒノの橙の毛が朝日を受けて光っている。
全員が席に着いた。
ツルが粥をよそって配る。六人分と、ヒノの器と、シロの分。最後に自分の分。いつもの順番。
「ぬしさま、今日の仕事は?」
ギンが粥を頬張りながら聞いた。あの日——最初の朝、街に向かう道で聞かれた問いと同じだ。あの時は「東の街に向かう。二人で」と答えた。
木板を見た。壁三面を埋め尽くした木板と紙の山。依頼管理、収支表、各地の支部連絡、転職支援の進捗、ゼノの研究、ヒノの測定記録、統合準備会議の議事録。全部がここに並んでいる。
恩刻はもうない。瘴獣もいない。だが人間と魔獣がどう共に生きるかという問いは消えていない。制度を作り、書類を整え、記録を残し、関係を守る。法則の代わりに、段取りで。
「はいはい、まずは段取りからだ」
ギンが尻尾を振った。クロが鼻で息を吐いた。ツルが微笑んだ。アカが「早くせい!」と叫んだ。キサが帳簿を開いた。
追放された夜、一人で森を歩いた。月明かりの下で自分の足音だけが響いていた。誰の声もしない静寂の中で、干し肉を齧って岩陰で眠った。
あの静寂が嘘のように、今は騒がしい。
騒がしくて、温かい。
悪くない。
悪くない人生だと思った。
食卓の向こうで、ギンが粥のおかわりを求めている。三杯目だ。クロが魚の骨を丁寧に外している。アカが辛味の追加をツルにねだっている。キサがシロと小声で何かを話している。リノが書類を整理している。庭でヒノの尾が揺れている。書庫の窓が開いていて、ゼノが茶を啜る音が聞こえている。
全員がここにいる。
恩刻はもうない。法則はない。忘れられなくする力はない。
それでも全員がここにいる。毎朝、この食卓に。自分の意志で。自分の足で。
段取りの鬼は、今日も段取りを組む。木板に予定を書き、書類にサインし、数字を確認し、全員の配置を考える。エルドスから受け継いだ万年筆で、前例のない書類に名前を刻む。
だが一番大事な段取りは、とっくに終わっている。
この食卓に、全員分の椅子を並べること。それだけだ。
*
食事が終わって、全員が立ち上がった。
門を出る。今日の仕事に向かう。
ギンが俺の右側を歩いた。半歩も離れない距離で。
「ぬしさま、手繋いでいい?」
「……歩きにくいだろ」
「いい。繋ぐ」
有無を言わさず指を絡められた。その手は細いのに、鋼のように離れない。
あの朝と同じやり取りだった。最初の朝。森を出て東の街に向かう道で。
だが一つだけ違うことがある。
あの朝、ギンの手は震えていた。捨てないでくれと、その手が言っていた。
今朝の手は震えていない。
一緒にいたい。
それだけだ。
俺は繋がれた手をそのままにして、歩き出した。
後ろから四つの足音が続いている。猫の足音はしない。だがいる。気配で分かる。
朝の光が道を照らしている。瘴気のない、澄んだ空。
いつもの朝である。
―――――――――――――――――――――――――




