第65話 「瘴気のない空」
瘴獣がいなくなった世界は、思ったより静かだった。
静かというのは語弊がある。街は騒がしい。酒場が朝から開いて、通りで子供が走り回って、商人が声を張り上げている。瘴気の消滅を祝う宴が三日間続いた。だが森が静かなのだ。
依頼で東の森に入った。Eランクの蟲型がいた場所。ギンと初めて依頼をこなした場所。あの頃は木々の間に瘴気が薄く漂っていて、奥に入るほど空気が重くなった。
今は、ただの森だった。
木漏れ日が地面に斑を作っている。鳥が鳴いている。本物の鳥だ。瘴獣ではない。羽根があって、嘴があって、枝に止まって鳴いている普通の鳥。瘴気が濃かった頃は、この森に鳥はいなかった。
「ぬしさま、鳥がいるよ」
ギンが耳を立てて空を見上げた。銀の髪が木漏れ日に透けている。
「ああ。戻ってきたんだな」
「ギン、鳥の声好き。前はここ、臭かったから鳥いなかったもんね」
臭かった。瘴気の臭い。硫黄と腐敗。ギンの鼻にはきつかったはずだ。今は草と土と木の匂いだけだ。
依頼の内容も変わっていた。掲示板に並ぶ依頼書から、赤い縁取りが消えた。瘴獣討伐の依頼がゼロだ。代わりに並んでいるのは、街道の修復、橋の再建、農地の復旧、森林の調査。戦いの仕事から、暮らしの仕事に変わっている。
「冒険者の失業問題が出ますわね」
キサが帳簿を見ながら言った。拠点の居間。木板の前。いつもの位置。
「瘴獣討伐で生計を立てていた冒険者が、仕事の転換を迫られます。復興需要はありますが、戦闘スキルと土木作業では求められる能力が違いますから」
「ギルドで転職支援の枠組みを作る必要があるな。リノ、エルドス支部長に提案書を出してくれ」
「もう書いてあります」
リノが机の上の書類を指した。日付は三日前。俺が恩讐の王の内部にいた日だ。あの日のうちに、リノは瘴気消滅後の社会変化を予測して提案書を書き始めていた。
「段取りの鬼が二人いると話が早い」
「三人です。キサさんが予算の概算を出してくださっています」
「四人ですわ。ツルさんが転職者向けの食堂の運営プランを考えてくださいましたの」
台所からツルの声が聞こえた。
「冒険者の方は食事が不規則ですから。まずは温かいご飯を食べていただくのが、次の一歩への力になると思いまして」
*
グレイヴが拠点を訪れたのは、瘴気消滅から五日目の昼だった。
門を叩く音。重い。一定のリズムで三回。見覚えのある叩き方だった。
開けると、グレイヴが立っていた。黒い外套にテイマーギルドの紋章。灰色の髪。鋭い眼光。だが前回来た時とは、纏う空気が違っていた。重さが減っている。二十年分の重さの全部ではないが、一部が降りている。
「入っていいかね」
「どうぞ」
居間に通した。ツルが茶を出した。グレイヴは茶碗を手に取って、一口飲んだ。前回は口をつけるまでに長い間があった。今日は自然に飲んだ。
「提案がある」
「聞きます」
「テイマーギルドの改革を行う。テイム術と恩義契約の共存を正式に推進する。テイマーギルドの名称を変更し、魔獣管理の総合機関として再編する。恩義契約ギルドとの統合を前提にした組織設計だ」
予想していなかった。グレイヴの口からこの提案が出ることは。
「テイム術を廃止するわけではない。テイムを選ぶ者はテイムを続ける。恩義契約を選ぶ者は恩義契約を結ぶ。どちらも公的に認められた制度として並立させる。そして——」
グレイヴが茶碗を置いた。
「恩刻が消えたことは把握している。ゼノから報告を受けた。法則の力がなくなった以上、恩義契約の法的基盤が揺らいでいることも理解している」
痛いところを突かれた。だが事実だ。
恩義契約は恩刻を前提に設計された制度だ。魔獣の自由意志を尊重し、互いの合意で結ぶ契約。その「合意の証」が恩刻だった。恩刻が魔核に刻まれることで、魔獣側の意思が確認できた。恩刻がなければ、魔獣の意思をどう証明するのか。
恩義契約ギルドの存在意義が問われている。俺自身、ここ数日ずっと考えていた。
「だからこそ統合だ」
グレイヴの声が変わった。幹部としての声。だがあの審議の時とは質が違う。あの時は俺を止めようとしていた。今は一緒に道を探そうとしている。
「恩刻があった時代は、法則が関係を保証してくれた。忘れられないという力が、契約の裏付けになっていた。だが法則が消えた今、関係を守るのは法則ではなく制度だ。書類と手続きと、日々の記録だ」
俺は黙って聞いていた。グレイヴが言っていることは、俺がずっと考えていたことと同じだった。
「テイムも同じだ。テイム紋は魔核への強制干渉で関係を維持していた。だが紋の崩壊で暴走が起きることは、私自身が証明してしまった。紋に頼る制度にも限界がある」
あの公開実演の日。グレイヴのテイム獣が暴走した日。あの日から、グレイヴはこの答えに向かって歩いていたのかもしれない。
「テイムの紋でも、恩刻の法則でもなく。人間と魔獣が共に暮らすことを、制度として保証する組織が要る。魔獣の意思を日々確認し、記録し、問題があれば仲裁し、関係が壊れそうになったら支援する。紋や法則の代わりに、人の手で」
「それが統合後の新組織の役割ですか」
「ああ。テイマーギルドの管理技術と、恩義契約ギルドの理念を合わせれば、どちらか片方では作れなかった組織になる」
段取りの鬼として、この提案の構造は理解できた。恩義契約ギルドは恩刻を失った。テイマーギルドはテイム紋の限界を露呈した。どちらも単独では立てなくなった基盤を、統合することで補い合う。
だがそれ以上に、グレイヴがこの提案を持ってきたこと自体が大きかった。二十年間「支配こそが安全だ」と信じてきた男が、支配に代わるものを自分の手で提案している。
「賛成です。連携の詳細はリノと——」
「もう一つ」
グレイヴの声が変わった。幹部の声ではない。もっと個人的な声。前回、拠点を訪れた夕方に聞いた声と同じ質だった。
「ヒノを、見せてもらえるか」
庭に出た。
ヒノが厩舎跡の前にいた。最近は庭全体を歩き回れるようになっている。赤い目がグレイヴを見た。
前回と同じだった。ヒノがグレイヴの足元まで歩いてきて、手の匂いを嗅いだ。赤い目と灰色の目が交差した。
ヒノの尾が揺れた。前回より大きく。
グレイヴの手が動いた。
前回は止めた。ヒノの頭に伸びかけて、拳を握って、下ろした。触れなかった。
今日は、触れた。
灰色の髪が揺れるほどゆっくりと屈んで、掌をヒノの頭に置いた。橙色の毛並み。左耳の付け根にある古い火傷の痕を避けて、その周囲を指先で撫でた。ギンがヒノにやるのと同じ動作。傷を知っている者の触れ方。
グレイヴの手が震えていた。
二十年ぶりに、魔獣の頭を撫でている。ルクスを失ってから、一度も触れなかった場所に、手を戻している。
「ヒノ……いい名だ」
声が掠れていた。鋭い目の奥が濡れていた。涙は落ちなかった。だが二十年分の何かが、掌を通じて溶け出していた。
ヒノが目を細めた。頭を撫でられて気持ちいい顔だ。犬が——狼が信頼する相手にだけ見せる顔。恩刻の力ではない。テイムの紋でもない。ただ、この手が温かいから目を細めている。
グレイヴが立ち上がった。目元を一度だけ拭った。
「失礼した。提案の詳細は書面で送る」
「お待ちしています」
門を出ていくグレイヴの背中は、前回より少しだけ軽く見えた。拳を開いた手が、外套のポケットに入らず、開いたまま揺れていた。
*
夕食後。
書庫にゼノがいた。いつもの定位置。フィンのノートを膝に置いて、茶を飲んでいる。
「ハル君。今日グレイヴが来たと聞いた」
「ああ。統合の提案を持ってきた」
「それは良いことだ。で、恩義契約ギルドはどうなる」
ゼノの問いは鋭かった。統合すれば恩義契約ギルドという組織は名前を変えるか、吸収されるか、消えるかのどれかだ。
「名前が変わっても中身は残る。人間と魔獣が一緒に暮らすための制度を作って、守って、記録する。恩刻がなくなった分、その仕事は増える。法則が関係を保証してくれなくなったんだから、制度が代わりにやるしかない」
「段取りで守ると」
「段取りで守る。書類と記録と、日々の確認で。ギンが俺の隣にいるのは恩刻のおかげじゃなかった。だが恩刻がない世界で、ギンみたいに自分の意志で人間の隣にいる魔獣を、社会が正しく扱えるかどうかは保証されてない。制度がなければ、テイムされてない魔獣は野生扱いに戻る。市場で棒で叩かれかけたクロみたいなことが、また起きる」
あの日のことを思い出した。ギルドの規約第七章第三項を盾にして、テイム契約なしの同行を認めさせた日。規約の穴を突いて、クロを守った日。
あの日から変わったことと、変わっていないことがある。恩刻は消えた。瘴獣もいなくなった。だが人間が魔獣をどう扱うかという問題は、何も解決していない。テイムで支配するか、排除するか。この世界の二択は、恩讐の王が消えても残っている。
三つ目の選択肢——対等に共に生きる——を制度として守り続けること。それが恩義契約ギルドの、恩刻がなくなった後の仕事だ。
「フィンが夢見たのは恩刻の世界じゃない」
本棚を見た。フィンが残した研究ノートが並んでいる。
「人間と魔獣が共存する世界だ。恩刻はそのための手段の一つだった。手段が消えても、夢は消えない。夢を形にするのは制度だ。書類だ。段取りだ」
ゼノが眼鏡を押し上げた。
「フィンも同じことを言っていたよ。研究が完成しなくても、理念さえ残れば誰かが引き継ぐと」
「引き継いでる。フィンの家で。フィンの本棚の前で」
ゼノが茶碗を置いた。眼鏡を外して、目頭を押さえた。何度目だろう。フィンの名前が出るたびにこの人はこうなる。
「それと、ゼノ先生」
「何だ」
「学術顧問は続けてくれ。恩刻の法則は消えたかもしれないが、法則が存在したという事実は残ってる。記録と研究を続ける価値がある。フィンのノートにはまだ読み解けていない部分もある」
「もちろんだ。それに大平原の亀裂もある。あれは瘴気が消えても物理的に残っている。地下に何があるのか調査する価値がある」
「段取りを組む」
「また段取りか」
「段取りしか持ってないんだ、俺は」
ゼノが小さく笑った。
「フィンが聞いたら笑うだろうな。瘴気が消えた世界で、まだ段取りを組んでいる男がいると」
「笑ってくれていい。フィンの家で、フィンの夢を引き継いでるんだ。笑われるくらいがちょうどいい」
「……いい夜だ」
「ああ。いい夜だ」
書庫の窓から、星が見えた。紫のない、澄んだ夜空。瘴気が消えて、星の数が増えた気がする。気のせいかもしれない。だが確かに、空が広くなった。
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