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追放されたスキルなしの荷物持ち、助けた魔獣が美少女になったんだが愛が激重で誰も離してくれない  作者: 他力本願寺


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第64話 「自由意志の証明」

沈黙が長かった。


 暖炉の薪が爆ぜた。小さな火花が一つ飛んで、石の床に落ちて消えた。


 誰も動かなかった。


 俺は立ったまま、全員を見ていた。全員が俺を見ていた。言葉が落ちた後の、空白の時間。この空白を、誰が最初に埋めるのか。


 俺ではない。俺はもう言うべきことを言った。「自由だ」と。あとは、あいつらが決める。


 ギンが動いた。


 走らなかった。


 飛びつかなかった。


 いつものギンなら、俺の姿を見た瞬間に全力で突進してくる。銀の尻尾をちぎれそうなほど振って、腕にしがみついて、肋骨が軋むほど抱きついてくる。最初の朝からずっとそうだった。


 今日は違った。


 ゆっくり歩いてきた。


 一歩ずつ。暖炉の前から、居間の真ん中を横切って、俺の前まで。銀の髪が歩くたびに揺れている。尻尾は振っていない。耳は立っている。金色の目がまっすぐこちらを向いている。


 俺の前で立ち止まった。


 手を伸ばした。俺の右手を取った。両手で包んだ。小さくて温かい手。瘴獣を一撃で裂く爪は引っ込んでいて、柔らかい指先だけが俺の掌に触れていた。


「ギンは恩刻で隣にいたんじゃない」


 声が震えていなかった。昨日までの揺れが消えている。怨念波もない。恩刻もない。残っているのは、ギンの声だけだ。


「あの夜、森で、ぬしさまが来てくれた。瘴獣を追い払って、傷に薬を塗って、干し肉をくれて、腕の中で眠らせてくれた。あったかかった。恩刻が刻まれる前から、あったかかった」


 ギンの手が俺の手を握った。力がある。震えていない。


「恩刻が消えても、あの夜は消えない。あったかかったことは消えない。ぬしさまが好きなのは、恩刻のせいじゃない」


 金色の目が潤んだ。だが涙は落ちなかった。


「ギンはここにいる。ぬしさまの隣にいる。恩刻がなくても、法則がなくても。ギンが決めた。ギンの意志で」


 手を握り返した。


 ギンの目から涙が落ちた。一滴だけ。堪えていたのに落ちた。だが笑っていた。泣きながら笑っていた。


「……ぬしさま。ギンを、撫でて」


「ああ」


 銀の髪に手を置いた。狼の耳がぴくりと跳ねて、尻尾が——ようやく揺れた。大きく。いつもの振幅で。


 恩刻がなくても、尻尾は揺れる。



   *



 クロが動いた。


 窓枠から降りた。床に足をつけて、歩いてきた。ゆっくりではない。いつもの速度。猫は急がないが、遅れもしない。自分のペースで、自分の距離を詰める。


 俺の左側に来た。いつもの位置。


 何も言わずに、座った。


 俺の上着の裾を掴んだ。指先だけの、小さな力で。あの夜——暖炉の前で初めて袖を掴んだ夜と同じ仕草。


「……別に。いつも通りよ」


 それだけだった。


 それで十分だった。


 クロは言葉で語らない。行動で語る。三日で出て行くと言って出て行かなかったこと。おやすみを言うようになったこと。俺の隣に座るようになったこと。ナハトに手を伸ばして四十二秒待ったこと。全部、言葉ではなく行動だった。


 今日も同じだ。恩刻が消えた朝に、いつもの席に座って、いつものように裾を掴む。それがクロの答えだ。


 裾を掴む力が、ほんの少しだけ強くなった。


「……あんたの上着、また襟が曲がってる」


「戦場帰りだからな」


「ツルさんに直してもらいなさいよ」


「お前が直してくれてもいいんだぞ」


「……猫は襟を直さないの」


 尻尾が揺れた。一度だけ。大きく。



   *



 台所から音がした。


 水の音。竈に火が入る音。鍋が置かれる音。


 ツルが台所に立っていた。


 いつの間に動いたのか分からなかった。俺がギンと話している間に、クロが隣に座った時には、もう竈の前にいた。


 白い髪を一つに束ねて、袖を捲って、米を研いでいる。左手で。震えていない。


 粥を炊いている。


 俺が昨日炊いた粥は塩が多すぎた。今日はツルが炊く。いつもの分量で。いつもの火加減で。いつもの味で。


 竈の前から、声が聞こえた。


「ハルさま。朝食ができます。少しお待ちくださいませ」


 振り返らなかった。手元を見ている。粥をかき混ぜている。いつもの動作。いつもの速度。


「恩刻があってもなくても、わたくしはこの台所に立ちます。ここがわたくしの居場所ですから」


 声は穏やかだった。いつもの丁寧語。いつもの柔らかさ。


 だが一言だけ、いつもと違った。


「好きだから、ここにいます」


 小さな声だった。竈の火の音に紛れそうなほど小さな声。あの夜——自室で一人で呟いた「好きだから、そばにいたい」と同じ言葉を、今度は俺に聞こえる声で言った。


 振り返った。


 ツルが竈の前で立っている。白い髪。青い瞳。左の背中は平らなまま。右翼の膨らみだけが服の下に見える。


 笑っていた。あの笑み。不格好な方の笑み。完璧ではない、唇が少し歪んだ、柔らかい笑み。翼を失ってから見つけた、ツルだけの笑い方。


 目が潤んでいた。でも涙は落ちなかった。



   *



 椅子が音を立てた。


 アカが椅子の上で正座したまま、拳を膝に叩きつけた。


「妾のものは妾のものじゃ!」


 声が居間に響いた。壁の木板が震えた。


「法則がどうとか、刻印がどうとか、関係ないのじゃ! 妾が決めたことは妾の意志じゃ! 竜の(ことわり)じゃ!」


 椅子から飛び降りた。小さな体が駆けてきて、俺の胸に頭突きをした。角が肋骨に当たった。痛い。


「おぬしが妾の背中の痛いのを取ってくれた。名前をくれた。ブレスを褒めてくれた。三発でいいと言ってくれた。どれも恩刻なんかじゃない。妾がおぬしを好きなのは、妾が竜だからじゃ。竜は一度決めたら変えぬ。恩刻がなくなったくらいで揺らぐものか」


 角の根元が赤い。泣いている。竜は泣かないと言っていたのに、泣いている。怒りながら泣いている。


「おぬしが自由だと言うなら、妾は自由に選ぶ。おぬしの隣を選ぶ。文句あるか」


「ない」


「ならよい!」


 鼻を鳴らした。涙を拭わずに、胸に額を押しつけたまま動かない。角が刺さっている。痛い。だが離す気はないらしい。


「……おぬし。約束通り帰ってきたな」


「ああ。竜の理に誓ったからな」


「……ふん」


 尻尾が揺れた。角の根元の赤が、泣いた赤から照れの赤に変わった。



   *



 キサが木板の前から離れた。


 歩いてきた。いつもの足取り。優雅で、隙がなく、だが今日は少しだけ足が速い。


 俺の前に立った。金色の目。帳簿は持っていない。九尾は一本だけ出ている。揺れていない。止まっている。完全に制御されている。


「ハルさま。一つだけ確認させてくださいませ」


「何だ」


「恩義契約ギルドの初年度決算が、まだ終わっていません。財務担当のわたくしが辞めるわけにはまいりません。これは計算上の事実です」


 策士の声だった。だが仮面ではなかった。計算を使って、計算の外にあるものを伝えようとしている声だった。


「計算だけではありませんわ」


 キサの声が変わった。策士の声が溶けて、別のものが残った。


「三十年間、わたくしは計算だけで生きてきました。感情を見せたら利用される。信頼したら裏切られる。だから全てを数字に変えて、情報に変えて、損得に変えて」


 金色の目が真っ直ぐ俺を見ていた。仮面はない。計算もない。ただの金色。シロ姉さまと同じ色。


「ハルさまに出会って、困りました。計算できない方でした。門前で血を止めてくださった夜、わたくしの中で何かが壊れました。三十年かけて積み上げた壁が」


 一尾が揺れた。制御が緩んだのではない。揺らすことを自分に許したのだ。


「恩刻があったのかもしれません。なかったのかもしれません。もうどちらでもよいのです。わたくしがここにいるのは、計算の結果ではありません。ハルさまの隣が、計算を超えて心地よいからです」


 キサが微笑んだ。仮面のない笑み。三十年間使わなかった表情筋が、やっと自然に動いている。


「帳簿は続けますわ。それはわたくしの仕事ですから。でも帳簿だけではない理由で、ここにいます。それだけお伝えしたかった」



   *



 五人が俺の前にいた。


 ギンが右手を握っている。クロが左側で裾を掴んでいる。ツルが台所で粥を炊いている。アカが胸に額を押しつけている。キサが正面に立っている。


 恩刻はない。法則の力はない。忘れられなくする拘束はない。


 それでも全員がここにいる。


 自分の意志で。自分の言葉で。自分の足で。


 全員が泣いていた。泣き方が全員違った。


 ギンは笑いながら泣いていた。涙がこぼれているのに尻尾がぶんぶん揺れている。嬉しいのか悲しいのか本人にも分かっていないだろう。両方だ。


 クロは黙って泣いていた。顔を見せない。裾を掴んだまま俯いている。黒い髪が顔を隠している。だが裾を握る指が震えていた。涙の雫が一つ、床に落ちた。


 ツルは笑いながら泣いていた。台所で粥をかき混ぜながら、涙が頬を伝っている。拭わない。手が塞がっているから。粥が焦げないように火加減を調整しながら泣いている。器用なのか不器用なのか分からない。


 アカは怒りながら泣いていた。「泣いておらぬ!」と言いながら泣いていた。角の根元が真っ赤だ。俺の胸を拳で叩いている。力が入っていない。竜のくせに子猫ほどの力しか出ていない。


 キサは仮面なしで泣いていた。九尾が全て出ていた。制御を手放したのではなく、隠す理由がなくなったのだ。九本の白い尾が居間に広がり、金色の光が壁に影を作っていた。涙が顎を伝って落ちている。拭わない。拭う必要がない。


 俺は——


 泣いていなかった。


 嘘だ。


 目が熱かった。視界が滲んでいた。段取りの鬼は感情で手を震わせない。震わせないはずだが、震えていた。


 一人ずつに、答えを返した。


「ギン」


「……ん」


「俺はお前のそばにいる。最初に助けた夜から、ずっと」


 ギンの尻尾が過去最大の振幅で揺れた。


「クロ」


「……なに」


「借りなんかとっくに関係ない。お前が好きだ。傷も、裂けた耳も、おやすみの声も、全部」


 裾を握る力が一瞬だけ強くなった。クロの声が聞こえた。小さすぎて聞き取れなかった。聞き取れなかったが、音の形だけは分かった。俺の名前だった。


「ツル」


「はい」


「恩返しはもういい。一緒にいてくれ。飯がうまいからじゃない。……いや、飯がうまいのも理由の一つだ」


 台所でツルが笑った。声を出して笑った。泣きながら。粥の鍋を持ったまま。不格好で、唇が歪んで、鼻の頭が赤い。一番いい顔だった。


「アカ」


「なんじゃ」


「お前は俺のものだ。竜の理がどうとか知らない。俺が決めた」


 アカが顔を上げた。涙だらけの顔。角の根元が真っ赤。


「……妾の台詞を取るな」


「先に言ったもん勝ちだ」


「竜の理では——」


「俺の理だ」


 アカが口を開けて、閉じて、また開けた。何か言おうとして、言えなくて、代わりに俺の胸にもう一度頭突きをした。角が同じ場所に当たった。明日痣になる。


「キサ」


「はい」


「契約も計算もいらない。俺がお前を選ぶ。情報屋に頼まれなくても」


 キサの九尾が全て同時に揺れた。計算では制御できない振動。感情が九本の尾を通じて溢れ出している。


「……ずるいですわ、ハルさま」


「何がだ」


「全員に一人ずつ答えを返すところが。段取りの鬼ですのに、こういう時だけ一番丁寧で」


「段取りだからだ。一人ずつ確認するのが、俺の基本だ」


 キサが笑った。泣きながら。仮面のない、素の顔で。


「……かないませんわ」



   *



 粥が炊けた。


 ツルが六人分をよそって、食卓に並べた。いつもの粥。いつもの焼き魚。いつもの漬物。塩加減は完璧だった。昨日の俺の粥とは雲泥の差だ。


 椅子に座った。ギンが右隣。クロが左隣。アカが正面。キサが端。ツルが最後に座る。いつもの配置。


 いつもの朝が戻ってきた。恩刻のない、いつもの朝。


「いただきます」


 六つの声が重なった。泣いた跡が全員の顔に残っていた。目が赤くて、鼻が赤くて、頬に涙の筋が光っていた。それでも箸を持って、粥を口に運んでいる。


 うまかった。


 ツルの粥はいつも通りうまかった。恩刻があった時と同じ味だった。法則が消えても、米と水と塩と火加減は変わらない。ツルの手が覚えている味は、何にも左右されない。


 ギンが三杯目に手を伸ばした。


「ぬしさま、おかわり」


「自分でよそえ」


「ぬしさまの手からがいいの」


「恩刻がなくなっても変わらないのか、それ」


「変わらないよ。だってギンの好みだもん。法則じゃないもん」


 法則じゃない。好みだ。


 それが答えだった。


 恩刻は消えた。法則は消えた。だが好みは消えない。粥の味も消えない。隣に座る温もりも消えない。全部、法則の外にあるものだ。法則がなくなって初めて分かった。最初から法則の力ではなかった。


 庭の窓から、ヒノが見えた。厩舎跡の前で座っている。赤い目が窓越しにこちらを見ている。尾が揺れている。ヒノには最初から恩刻がなかった。テイムから逃げ出して、自分の足でここに来た。恩刻とは無関係に、ここを選んだ。


 全員が、最初からそうだったのかもしれない。


 恩刻は恩を忘れられなくしただけだ。忘れられないことと、好きでいることは違う。忘れられなくても嫌いになることはできた。離れることもできた。恩刻は鎖ではなかった。ただの記憶の保存だった。


 その上に積み重ねた日々の全て——ギンの尻尾、クロのおやすみ、ツルの粥、アカの三発、キサの帳簿——は、恩刻とは別の場所にあった。


 法則の外に、本物があった。


 最初からずっと。




        ◇




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