第63話 「恩刻のない朝」
青い空が見えた。
仰向けだった。背中に草の感触がある。大平原の地面だ。朝日が顔に当たっている。眩しくて目を細めた。
空が青い。
昨日までの紫がない。地平線の端にも、空の高いところにも。どこにも紫がなかった。雲が白い。風が吹いている。草の匂いがする。瘴気の臭いがしない。硫黄も腐敗も、怒りの匂いも。何もない。ただの、秋の朝の空気だった。
体を起こした。
全身が重い。筋肉痛とも違う。もっと深い場所の疲労だ。骨の中が空っぽになったような感覚。前世で三日間徹夜した後に似ているが、あの時より深い。
大平原を見渡した。
紫の柱がなかった。
地面の亀裂はまだ残っていた。だが瘴気は噴き出していない。亀裂の縁が黒ずんでいるだけで、中は空だった。枯れた井戸のように、もう何も湧いてこない。
瘴獣がいなかった。
昨日まで群れを成していた黒い霧の異形が、一体も見えない。地面に瘴核の欠片すら落ちていない。霧散したのではなく、消滅したのだ。恩讐の王が鎮まったことで、王から流れ出ていた瘴気が止まり、瘴気で形を保っていた瘴獣が維持できなくなった。
静かだった。
風の音と、草が擦れる音だけ。
胸に手を当てた。
冷たかった。
昨夜まであった熱がない。ギンを助けた夜に灯った熱。クロの脚を治した時の熱。ツルの翼に包帯を巻いた時の。アカの瘴気を剥がした時の。キサの血を止めた時の。ヒノに名前を呼んだ時の。シロのテイム紋を消した時の。
全部、消えていた。
恩讐の王を癒すために、恩刻の全てが使い切られた。掌から流れ出した白い光は、数千年の怨念を溶かすために全ての熱を注ぎ込んだ。残ったのは空の胸だ。
恩刻がない。
立ち上がった。膝が笑っている。体が重い。だが歩ける。
大平原の北西に、エルデの街がある。歩けば半日。馬車なら数時間。だが馬車はない。一人で歩いてきたのだから、一人で歩いて帰る。
*
テイマー部隊の陣があった場所を通り過ぎた。
陣は解かれていた。瘴獣が消滅したのだから、封じ込めの必要がなくなったのだ。地面にテイム獣の足跡と、人間の靴跡が残っている。撤収は秩序立っていたようだ。混乱の跡はない。
足跡の中に、大きな狼の足跡があった。グレイヴの灰色の大狼のものだろう。足跡はエルデの方角に向かっている。全員が帰ったのだ。
俺だけが平原に残されていた。
紫の光に呑まれた後、どれくらいの時間が経ったのか分からない。空の位置から見て、一晩は経っている。恩讐の王の内部にいた時間は、体感では数分だったが、外ではもっと長かったのかもしれない。
歩いた。
草原の中を、一人で。
追放された夜を思い出した。
あの夜も一人で歩いた。深夜の森を。月明かりの下で、自分の足音だけが響いていた。誰の声もしない静寂。干し肉を齧って、岩陰で眠った。
今も一人で歩いている。だが、あの夜とは決定的に違うことがある。
帰る場所がある。
石造りの二階建て。苔を落とした壁。修繕した屋根。ギンとアカが走り回った庭。クロが昼寝する屋根裏。ツルの台所。キサの帳簿が並ぶ木板。ヒノが丸くなる厩舎跡。
あの家が待っている。
だが——恩刻はもうない。
恩を「忘れられなくする」力がなくなった。恩の記憶は残っているだろう。あの夜、森で俺が仔狼を助けたことを、ギンは覚えている。だが忘れられないという拘束がなくなった。忘れようと思えば忘れられる。離れようと思えば離れられる。
自由だ。完全な自由。
恩刻という法則に縛られない、純粋な自由意志だけが残った。
その自由意志で、あいつらが何を選ぶのか。
俺は分からない。段取りでは読めない。計算できない。恩刻があった時は、少なくとも「忘れられない」という一点だけは確定していた。それが消えた。全てが不確定になった。
怖いか、と自分に問うた。
怖い。
正直に認めた。前世で恋人に「もう無理」と言われた夜と同じ恐怖だ。必要とされなくなる恐怖。隣からいなくなる恐怖。
だが足は止まらなかった。
怖くても帰る。帰って、全員の顔を見て、伝える。「お前たちは自由だ」と。
それが恩義契約ギルドのギルド長としての、最後の段取りだ。
*
エルデの街が見えてきた。
城壁の上に旗が出ている。普段は出ていない旗だ。赤と白。ギルドの緊急旗ではない。これは——祝い旗だ。瘴気の消滅を祝っている。
門をくぐった。街の空気が違っていた。通りに人が出ている。昨日までの緊張が消えて、解放された顔をしている。子供が走り回っている。酒場が昼から開いている。
俺の顔を見る者がいた。冒険者。商人。通行人。指をさす者もいた。だが声はかけてこなかった。俺の顔が、声をかけられる顔をしていなかったのだろう。
拠点の門が見えた。
看板が立っている。「恩義契約ギルド エルデ本部」。ギンが打ち込んで、俺が手で角度を直した看板。まだ真っ直ぐだった。
門を開けた。
庭にヒノがいた。
厩舎跡の前ではない。庭の真ん中に座っていた。赤い目がこちらを見ている。尾が揺れた。
恩刻はない。ヒノには元々恩刻がなかった。レクスのテイムから逃げ出して、自分の意志でうちの門前に来た獣だ。恩刻とは関係なく、ここにいる。
尾が揺れている。弱くない。昨日より強い。俺が帰ってきたから揺れているのか、ただの気まぐれか。犬の——狼の尾の揺れ方に、恩刻は関係ない。
居間の扉を開けた。
全員がいた。
ギンが暖炉の前に座っていた。クロが窓枠にいた。ツルが台所の入口に立っていた。アカが椅子の上で正座していた。キサが木板の前にいた。リノが奥の机にいた。
全員がこちらを向いた。
ギンが立ち上がりかけた。だが止まった。走ってこなかった。飛びつかなかった。立ったまま、こちらを見ている。金色の目。恩刻の光はもうない。ただの金色。あの森の夜、仔狼が俺を見上げた時と同じ色。
全員が黙っていた。
俺の顔を見ている。何かを待っている。俺が何を言うかを。
息を吸った。
「恩刻がなくなった」
声に出した。居間に響いた。
「恩讐の王を鎮めるために、全ての恩刻を使い切った。俺の中の恩刻も、お前たちの中の恩刻も。もう残っていない」
誰も口を開かなかった。
「恩を忘れられなくする力がなくなった。俺を助けてくれた記憶は残っているだろう。だが忘れようと思えば忘れられる。離れようと思えば離れられる」
一人ずつ見た。ギン。クロ。ツル。アカ。キサ。
「お前たちは自由だ。ここにいる義務はない。出ていきたければ出ていける。忘れたければ忘れられる」
長い沈黙が落ちた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、居間に響いていた。
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