第62話 怨念の底
紫の光に呑まれた瞬間、音が消えた。
風の音も、瘴獣の唸りも、遠くで戦うテイマー部隊の声も。
全部が遮断されて、世界から俺だけが切り離された。
足元に地面がない。
踏んでいるのは紫色の霧だ。霧の上に立っている。沈まない。だが固くもない。雲の上を歩いている感覚に近い。
周囲は紫一色だった。
上も下も左右も紫。境界がない。どこまでが空間でどこからが壁なのか分からない。距離の感覚が狂う。三歩先に何かがあるように見えて、歩いても辿り着かない。
そして、声が聞こえ始めた。
一つではない。無数の声だ。
「信じたのに」
右から。女の声。若い。だが生きている声ではない。残響のような、記録のような声。
「助けてくれたのに」
左から。子供の声。泣いている。
「なぜ鎖をかけた」
上から。老いた獣の声。人語ではなく、意味だけが頭に流れ込んでくる。
「なぜ道具にした」
下から。何十もの声が重なっている。怒りと悲しみが混ざった、底の見えない合唱。
太古の大断絶戦争。人間の王が恩義を悪用し、魔獣を兵器にした時代。救ったふりをして恩刻を刻み、「お前を救った。だから戦え」と。断れない善意の鎖。
その鎖に繋がれた魔獣たちの声が、数千年分、ここに溜まっている。
怨念の底。恩讐の王の内側。
「仕方がないと言った」
「必要だと言った」
「お前のためだと言った」
「全部嘘だった」
声が増えていく。一つ一つは小さいが、数が多い。数十、数百、数千。壁のように押し寄せてくる。耳を塞いでも聞こえる。鼓膜ではなく、頭の中に直接届く声だから。
膝が折れかけた。
声に混じって、映像が流れ込んでくる。
鎖に繋がれた狼が、命令に従って兵士の前に立たされている。戦え。戦わなければ魔核を締めつける。痛みで従わせる。
翼を折られた鳥が、偵察に飛ばされている。飛べなくなったら捨てられる。翼がなくなったら、次の鳥を捕まえればいい。
檻の中の狐が、幻術を強制されている。人間の敵を惑わせろ。従わなければ子供を殺す。
焼き印を押された猫が、見世物にされている。珍しい魔物だ。金になる。逃げようとすれば耳を——
——耳を引き千切る。
クロの記憶と重なった。
違う。これはクロの記憶ではない。数千年前の、名前も知らない猫型の魔獣の記憶だ。だがやっていることは同じだった。数千年前も今も、人間がやることは変わっていない。
視界が歪んだ。
紫の霧の向こうに、影が見えた。
巨大だった。
竜の形をしている。翼を広げれば、この紫の空間の端から端まで届くだろう。だが輪郭が揺れている。実体ではない。瘴気が凝縮して形を成しているだけだ。風が吹けば端が千切れ、すぐにまた集まる。
だが目があった。
金色の目。外から見た時と同じ色。濁った、深い金色。怒りと悲しみが底に沈んだ色。
恩讐の王。
数千年分の怨念が一つの意思になった存在。瘴気の根源。瘴獣を生み出し続けている大元。
目が合った。
怨念波が来た。至近距離。外で受けたものとは桁が違う。
頭の中を映像が駆け抜ける。前世のオフィス。上司の声。「お前、使えないな」。終電の帰り道。一人暮らしのアパート。コンビニの弁当。誰にも必要とされていない夜。「お前、いらない」。レクスの声が重なる。追放の夜。一人の森。月明かりの下で自分の足音だけが——
耐えた。
前世で十年、耐えた。終電の満員電車で吊り革を握る手より頑なに、耐えた。あの十年で培った耐性が、異世界で役に立つ日が来るとは思わなかった。皮肉だ。だが感謝もしている。あの十年がなかったら、ここで膝をついていた。
立っている。
恩讐の王の金色の目がこちらを見ている。
怒っている。だがそれだけではなかった。
怒りの底に、別のものがある。
前世で通っていた保護猫カフェを思い出す。
虐待されて保護された猫たちの目。人間が近づくと威嚇する。シャーと歯を剥く。爪を立てる。触れようとすれば引っ掻く。
だがあの目の底にあったのは、攻撃の意思ではなかった。
恐怖だ。
また傷つけられるのではないか。また裏切られるのではないか。次に伸びてくる手は、優しい手なのか、殴る手なのか。分からないから、全部拒絶する。近づくな。触るな。信じない。
クロがそうだった。市場裏の路地で、折れた脚で踏ん張って、俺を睨んでいた。助けてくれとは言わなかった。来るなと言っていた。
恩讐の王も同じだ。
数千年間、裏切られ続けた。信じて、救われて、恩が刻まれて、そしてその恩を利用された。何度も。何度も。
だから怒っている。だから悲しんでいる。だから全てを拒絶している。
近づくな。信じるな。裏切られるから。
俺は手を伸ばした。
何も持っていない。魔力もスキルも武器もない。ただの掌。
「聞こえるか」
声を出した。紫の霧の中で、声は吸い込まれるように消える。届いていない。
もう一度。
「聞こえるか。俺はハルだ。スキルなし、魔力ゼロ。ステータスは全部D。段取りだけが取り柄の、ただの荷物持ちだ」
怨念の声が押し寄せる。「嘘だ」「また騙すのか」「優しい言葉で近づいて、また鎖をかけるのだろう」。
声が痛い。数千年分の不信が、直接頭を叩く。
だが立っている。
「お前の怒りは正しい。お前が裏切られたことも、鎖をかけられたことも、道具にされたことも。全部本当のことだ。俺にはそれをなかったことにする力はない」
怨念の声が一瞬だけ揺れた。否定されると思っていたのかもしれない。「お前の怒りは間違っている」と言われると。だが俺は否定しなかった。
「数千年分の裏切りを、一人の人間が償える訳がない。お前を傷つけた奴らはもういない。謝る奴もいない。許しを請う奴もいない。お前の怒りの行き場はどこにもない。それは知ってる」
王の金色の目が動いた。怒りの色が薄くなっている。代わりに、底にあった別の色が浮かび上がってきていた。
孤独だ。
数千年の孤独。裏切られて、怒って、悲しんで、怨念になって、それでも消えない孤独。誰にも理解されない。誰にも届かない。怨念の殻に閉じこもって、瘴獣を生み出し続けて、それでも一人だ。
フィンのノートの最後の一文が頭に浮かぶ。
「王もまた、救われなかった魔獣だから」
「俺にできるのは一つだけだ」
手を伸ばした。紫の光の中に。王の巨大な影に向かって。
「今、目の前にいるお前を助ける」
胸の奥で熱が灯った。
何度目かも分からない。ギンの時が一度目。クロの時。ツルの時。アカの時。キサの時。ヒノの時。キサの姉の時。
理由は毎回同じだ。目の前で苦しんでいる奴がいたから、手を伸ばした。それだけだ。
打算はない。義務感もない。段取りですらない。
ただの、善意だ。
掌から白い光が溢れた。恩刻が起動している。魔力ゼロの掌から生まれる光。魔力ではない。魔法でもない。純粋な意思が形になった光。
白い光が紫の霧に触れた。
霧が溶けた。
触れた場所から、紫が薄くなっていく。白い光が怨念の層に浸透し、内側から溶かしていく。怒りの底にあった悲しみに、光が届いている。
王が動いた。
巨大な竜の影が身じろぎした。紫の霧が渦を巻き、風が吹いた。怨念の風。冷たい。数千年分の孤独の冷たさだ。
だが——光は消えなかった。
怨念の声が変わり始めていた。
「信じたのに」が、「信じたかった」に。
「なぜ裏切った」が、「裏切らないでほしかった」に。
怒りの底にある感情が、露出し始めている。怒りは鎧だ。本当の感情を守るための。鎧の下にあったのは、怒りではなかった。
悲しみだった。寂しさだった。
信じたかった。裏切られたくなかった。傍にいてほしかった。
数千年前の魔獣たちが、人間に向けていた感情。恩義を受けて、信頼して、共に生きたいと願った。その願いが踏みにじられた。
ギンの声が頭の中で蘇った。
「捨てないで」
最初の朝、俺の腕の中で銀髪の少女が震えていた。金色の瞳で、まっすぐ俺を見て言った。「ぬしさまが独りで歩くのは、だめ。あぶない。ギンがいないと、だめ」
あの声と、怨念の声が重なった。
同じだ。
怨念の底にいる魔獣たちも、ギンと同じだった。信じて、頼って、傍にいたくて。それを利用された。
手を伸ばし続けた。白い光が広がり続けている。紫の霧が薄くなっていく。怨念の声が変わっていく。怒りが悲しみに。悲しみが——
願いに。
「もう一度、信じてもいいのか」
声が一つに収束していた。無数だった声が、一つの問いかけになっている。恩讐の王の声だ。数千年分の怨念を背負った、一つの魂の声。
「信じていい」
答えた。
「俺のパーティーにはギンがいる。助けた仔狼が、自分の意思で隣にいる。クロがいる。保護した黒猫が、自分で俺の隣に座った。ツルがいる。翼を折られた鶴が、飯を作ってくれている。アカがいる。瘴気に苦しんでいた竜が、ブレスを三発で止められるようになった。キサがいる。三十年逃げ続けた狐が、帳簿を開いている」
「それが何の証になる」
「証にはならない。また裏切られるかもしれない。俺が裏切る側になるかもしれない。保証はどこにもない」
正直に言った。嘘は言わない。数字で語れないことを、嘘で補填しない。
「だが俺は、あいつらを裏切らないと決めている。約束した。ギンにもクロにもツルにもアカにもキサにも。約束は守る。守れなかったら、また約束し直す。何度でも」
「約束は破られるものだ。数千年、見てきた」
「破られたら、また結ぶ。段取りと同じだ。計画が崩れたら修正する。修正が利かなかったら別の計画を立てる。何度でも。止まらない限り、約束は死なない」
大した台詞ではない。段取りの鬼が、段取りの言葉で語っているだけだ。英雄的な宣言でも、圧倒的な力の発動でもない。
だが。
王の金色の目が変わった。
濁りが薄れた。怒りの赤が消えた。悲しみの灰色が消えた。底に沈んでいた本来の色が浮かび上がってきた。
澄んだ金色。
ギンの目と同じ色。クロのオッドアイの片方と同じ色。アカの瞳と同じ色。キサの瞳と同じ色。
魔獣の目だ。生きている目。意思のある目。数千年前に信じることをやめた魂が、もう一度、何かを見ようとしている目。
紫の霧が消えていく。怨念の声が静まっていく。怒りが悲しみに変わり、悲しみが願いに変わり、願いが——
安堵に変わった。
「疲れた」
王の声が、初めて穏やかだった。
「もう、怒るのに疲れた」
巨大な竜の影が、薄れ始めた。紫の瘴気が端から霧散していく。
王が消えていく。滅びるのではない。数千年の怨念が解けていく。鎧が脱げていく。怒りの殻が剥がれて、中にいた魂が、やっと楽になっていく。
最後に残ったのは、小さな光だった。
紫ではない。金色の、淡い光。掌に乗るくらい小さな光が、俺の目の前に浮かんでいた。
数千年前、誰かに助けられて恩が刻まれた、一匹の魔獣の魂。それが全ての始まりだった。恩を利用されて、裏切られて、怒りに呑まれて、王になった。数千年かけて怨念を溜め込んで、世界を瘴気で覆った。
でも元は、ただの魔獣だった。信じたかっただけの、一匹の獣。
光が掌に触れた。
温かかった。
そして——胸の奥の恩刻が震えた。
強く。深く。今まで感じたことのない震え方で。
白い光が掌から溢れた。恩刻の光。だがそれは俺の掌を離れて、紫の空間の壁を伝い、外へ向かって走っていった。
何が起きているのか、分からなかった。
分かったのは、胸の奥が——冷たくなっていくことだけだった。
恩刻の熱が消えていく。
ギンの時に灯った熱。クロの時の熱。ツルの時の。アカの時の。キサの時の。ヒノの時の。全部が、流れ出していく。王の魂を癒すために使い切られていく。
目の前が暗くなった。
紫の光が消えた。代わりに、空が見えた。
青い空だった。雲が流れている。朝日が昇りかけている。
俺は大平原の上に仰向けに倒れていた。
胸の奥が冷たい。
熱がない。
恩刻が——消えていた。
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