第61話 ② 「約束の反復」後編
アカが庭の真ん中に仁王立ちしていた。
腕を組んで、角を天に向けて、赤い髪が朝風に揺れている。小柄な体に不釣り合いな威圧感。竜の矜持だ。
「妾が三発で倒してやる! おぬしが行く必要はないのじゃ!」
「アカ。恩讐の王は武力では倒せない。ブレスでも爪でも、物理的に破壊できない相手だ」
「妾のブレスが効かぬ相手などおらぬ!」
「残念ながらいるんだ」
アカの勢いが止まった。腕を組んだまま、唇を尖らせている。角の根元が赤い。怒りではなく、悔しさの赤。自分の最強の武器が役に立たない状況。アカにとってそれは、存在意義を否定されるに等しい。
「俺が行く。お前は待ってろ」
「……待つのは嫌じゃ」
声が小さくなった。尊大な口調が崩れかけている。
「妾はいつもおぬしの隣にいた。背中を任せてもらっておった。なのに今度は待てと言うのか。妾は何もせず待つだけか」
「待つことは何もしないことじゃない。ギンと一緒に全員を守ってくれ。お前のブレスは瘴獣には効く。群れが封じ込めを破ったら、お前が止めろ。三発で」
「……三発か」
「三発だ」
「四発目は?」
「三発」
「…………」
長い沈黙。アカの肩が震えていた。泣いているのか。泣いてはいけないと堪えているのか。竜は泣かない。アカはそう自分に言い聞かせている。
「……待つ」
小さな声だった。竜の矜持が全部剥がれた、ただの子供の声。
「待つから——必ず帰れ。約束じゃ」
「約束する」
「竜の理に誓え」
「竜の理に誓う」
「……ふん」
鼻を鳴らした。いつもの仕草だ。だが目が赤い。泣いていた。竜は泣かないと言ったのに、泣いていた。
俺はアカの頭に手を置いた。角の間を指先で撫でた。レーゲンの森で初めてやった時と同じ動作。アカの肩の震えが止まった。
*
キサが居間の木板の前にいた。
帳簿は持っていない。代わりに地図を見ている。恩讐の王がいる南東の大平原。赤い点が密集している場所。
「計算上、単独行動の成功率は——」
「計算するな」
キサが口を閉じた。金色の目が俺を見た。
「以前も同じことをおっしゃいましたわね」
「ああ。何度でも言う」
「三十年間、計算だけで生きてきたわたくしに」
「計算を捨てろとは言ってない。計算の外にあるものを信じろと言ってる」
キサの一尾が揺れた。震えではなかった。もっと穏やかな揺れ方だった。昨夜、居間で「信じますわ」と言った時と同じ揺れ方。あの時、仮面はもう要らなくなっていた。
「……信じますわ」
回を重ねるごとに、声が澄んでいく。
「キサ。留守の間、拠点と全員を頼む。情報の統括はお前にしかできない」
「承知しましたわ。テイマー部隊との連絡、各地の瘴獣報告の集約、リノさんとの書類管理。全てわたくしが」
「帳簿もな」
「……帳簿は当然ですわ」
少しだけ笑った。計算の内側と外側が、同時に笑っている顔だった。
*
門の前。
全員が並んでいた。
ギンが右側。金色の目が俺を見つめている。赤みは消えた。揺れも小さくなった。でも涙の跡が頬に残っている。
クロが左側。窓枠ではなく地面に立っている。オッドアイがまっすぐこちらを向いている。碧の曇りが少しだけ晴れている。右耳の裂けた縁が朝日に照らされている。隠していない。
ツルが正面。白い髪が風に揺れている。左の背中は平らなまま。右翼の膨らみだけが服の下に見える。笑っている。不格好な方の笑み。手はまだ少し震えているが、立っている。
アカが少し離れた場所に立っている。腕を組んでそっぽを向いている。角の根元が赤い。目が赤い。泣いた跡を隠しきれていない。
キサが門柱にもたれている。一尾が穏やかに揺れている。帳簿は持っていない。両手が空いている。
リノが少し後ろに立っていた。事務局長として、見送る側。手に書類を持っている。たぶん何かの報告書だが、目は書類ではなく俺を見ている。
庭の奥で、ヒノが座っていた。赤い目がこちらを見ている。尾が揺れている。弱いが、止まらない。
書庫の窓が開いていた。ゼノが中にいるのだろう。見えないが、気配がある。
全員がここにいた。
「行ってくる」
短い一言だった。長い言葉は要らない。全部昨夜言った。今朝も言った。もう十分だ。
門を出た。
エルデの街を抜けた。南東に向かう道を歩く。
魔力ゼロ。スキルなし。ステータスは全項目D。段取り力だけが武器の元社畜。剣も魔法も持っていない。前世で過労死した三十二歳の男が、異世界で数千年の怨念に手を伸ばしに行く。
馬鹿げている。段取りの鬼が、段取りの外に出る。計算できない領域に足を踏み入れる。
だが恩刻はいつもそうだった。ギンを助けた時も計算ではなかった。クロの脚を治した時も。ツルの翼に包帯を巻いた時も。アカの瘴気を剥がした時も。キサの血を止めた時も。ヒノに名前をつけた時も。シロのテイム紋を上書きした時も。
全部、目の前で苦しんでいる奴がいたから手を伸ばしただけだ。
恩讐の王も同じだ。数千年間、一人で苦しんでいる。裏切られて、怒って、悲しんで、怨念になっても消えない痛みを抱えて。フィンが書いた。「王もまた、救われなかった魔獣だから」。
大平原が見えてきた。
紫の柱が空を突いている。昨日より太くなっている。根元から湧く瘴獣の数も増えている。テイマー部隊の封じ込めの陣が張られているが、圧力が増している。
グレイヴが前線にいた。灰色の大狼を従えて。テイム紋が明滅している。制御が不安定だ。だがグレイヴは立っている。手を上げ続けている。
グレイヴの横を通り過ぎた。
「ハル君」
グレイヴの声が後ろから追いかけてきた。足を止めた。
「一人で行くのか」
「はい」
「……武器は」
「ありません」
長い沈黙。
「段取りは」
「組みました。四項目だけですが」
「四項目か。いつものお前なら三十は並べるだろうに」
「相手が規約で戦えない奴なもので」
グレイヴが微かに笑った。見間違いかもしれない。だが口元が動いたのは確かだった。
「私のルクスも……名前を呼んだ時、一瞬だけ目が戻った。制御紋が崩壊した後なのに。あの一瞬は、紋の力ではなかった」
「名前の力ですか」
「分からない。だが、お前は名前を呼ぶのが得意だろう」
それだけ言って、グレイヴは前線に戻った。
封じ込めの陣を突破した。ギンとクロとアカとツルとキサがいない状態で、瘴獣の群れの中を一人で走る。だが瘴獣がこちらに反応しない。魔力ゼロ。瘴獣の感知に引っかからない。黒い霧の間をすり抜けるように走って、群れの中央に出た。
紫の亀裂。地面が裂けて、瘴気が噴き上がっている。
上空に、恩讐の王。
巨大な竜の影。翼を広げている。紫の光の中に浮かぶ金色の目。濁った深い金色。怒りと悲しみが底に沈んだ色。
怨念波が来た。
頭の中に映像が流れ込む。前世のオフィス。「お前、いらない」。追放の夜。一人の森。
耐えた。前世の記憶は辛いが、恩刻がないから増幅の度合いが小さい。立っていられる。
手を伸ばした。紫の光に向かって。
何も持っていない。魔力もスキルも武器もない。ただの掌。
だが、この掌でギンの頭を撫でた。クロの傷に包帯を巻いた。ツルの翼を治療した。アカの瘴気を剥がした。キサの血を止めた。ヒノの名前を呼んだ。シロのテイム紋を消した。
全部、この手でやった。
紫の光が掌を包んだ。
冷たかった。数千年分の孤独の冷たさだ。
目を閉じなかった。恩讐の王の金色の目を見続けた。
足を踏み出した。紫の光の中に。
背後で、ギンの声が風に乗って聞こえた気がした。
——ぬしさま。
聞こえたのか、記憶が再生されたのかは分からない。だが温かかった。
紫の光に呑まれた。
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