第60話 ②「揺らぐ刻印」後編
アカの部屋。
扉の前で、焦げ臭い匂いがした。中で小さな火が漏れている。アカの体温が上がっている証拠だ。竜化の前兆ではなく、感情が乱れている時の体温上昇。先日の検診でゼノが言っていた。「強い感情全般でリスクが上がる」と。
「アカ、入るぞ」
「入るな!」
入った。
アカは椅子の上で膝を抱えて丸くなっていた。角の根元が赤い。だがいつもの照れではない。泣いた後の赤さだった。
「妾は……妾はおぬしのものだと思っておった。竜の理で、妾が決めたことじゃと」
「ああ。お前はそう言った」
「でも、それは紋のせいかもしれぬ。恩刻という紋が妾の魂に刻まれて、それで妾はおぬしに執着しておるだけかもしれぬ。テイムと同じじゃ。テイムの紋で縛るのと、恩刻で恩を忘れられなくするのと、何が違うのじゃ」
「違いは一つだ。テイムは命令に従わせる。恩刻は従わせない」
「でも忘れられなくする! 忘れられないのは自由じゃない!」
アカの声が裂けた。小さな体に似合わない、竜の声が混じっていた。
「アカ。お前に聞く。レーゲンの森で俺が瘴気を剥がした後、お前は何と言った」
「……妾のもの、じゃと」
「誰かに言えと命令されたか」
「されておらぬ」
「恩刻が『妾のものと言え』と指示したか」
「……そんな指示は聞いておらぬ」
「じゃあ誰が言ったんだ」
「……妾が。妾が自分で言ったのじゃ」
「それが答えだ。もう一つ。先日の検診で、ゼノに『くすぐったい』と文句を言っただろう。あれは恩刻の指示か」
「……あれはただくすぐったかっただけじゃ」
「だろう。お前の感情はお前のものだ。くすぐったいも、怖いも、妾のものも」
アカの角の赤みが変わった。泣いた赤から、照れの赤に。
「……おぬしは卑怯じゃ。いつもそうやって、言葉で妾を説き伏せる」
「段取りは得意だからな」
*
居間に戻った。
キサが木板の前に立っていた。帳簿はない。地図を見ている。各地の瘴獣の報告をプロットした、赤い点の地図。
「キサ。お前は大丈夫か」
「わたくしは大丈夫ですわ」
声は平坦だった。策士の声。だが一尾の先端が震えている。
「嘘だろ」
「……半分は本当ですわ」
キサが俺を見た。金色の目。怨念波の影響で僅かに光が揺れているが、焦点は合っている。
「わたくしは三十年間、恩刻なしで生きてきました。ハルさまに出会って恩刻を受けたのは、門前で倒れた日。でもそれ以前から、わたくしはハルさまの情報を集め、この拠点を探し当て、自分の意志でここに来ました。恩刻の前に、選択があった。その順序は揺るぎません」
「なら何が揺れてる」
「……シロ姉さまのことですわ」
キサの声が小さくなった。
「姉のテイム解除に恩刻を使いました。ハルさまの恩刻で、テイム紋を上書きした。あれは姉にとって恩刻の押しつけではなかったのか。テイムの鎖を解いて、別の鎖をかけただけではないのか。怨念波がそう囁くのですわ」
キサの九尾が一本だけ、激しく震えていた。三十年間の孤独。姉との再会。テイム解除の喜び。シロという名前。その全てが、怨念波に汚されている。
「キサ。姉のテイム解除は、姉自身が同意した上で行った。実験の前に俺が確認した。『怖かったらやめていい』と言ったら、シロは『こわくない。キサがいるから』と答えた」
「……覚えて、いますわ」
「シロはキサがいるから怖くないと言った。恩刻の話ではない。妹がいるから怖くないと言った。それは姉の自由意志だ。そしてシロは自分で名前を選んだ。誰に言われたのでもない。白いから、シロ。お前に呼ばれやすい名前を、自分で」
キサの一尾が、少しだけ揺れの幅を狭めた。完全には止まっていない。だが最悪の振幅からは戻った。
「ハルさま」
「何だ」
「全員に言葉をかけてくださいましたわね。ギンさまにも、クロさまにも、ツルさまにも、アカさまにも。お一人ずつ」
「ああ」
「でも、全員がまだ揺れています。ハルさまの言葉が届いても、怨念波が止まない限り揺れ続けますわ」
分かっている。一人ずつ回って言葉をかけた。届いた。だが怨念波という外力がある限り、恩刻の揺れは止まらない。言葉で押し戻しても、怨念波が押し返す。
根本を断たなければならない。
「恩讐の王を鎮めるしかない。怨念波の発信源を止める」
「方法は」
「武力では倒せない。ゼノが言った通りだ。裏切られた恩義を癒す以外に道はない」
「癒す方法は」
「……恩刻だ。恩讐の王もかつては魔獣だった。裏切られて怨念になったが、元は恩義を受けた魂だ。もう一度、恩を届ける。恩刻を、直接」
「誰が」
「俺だ」
キサの金色の目が見開かれた。
「恩讐の王の核まで行く。俺一人で。魔力ゼロだから怨念波の標的になりにくい。昨日の戦場でも、俺だけが立っていられた。レーゲンの森でアカの炎に焼かれなかったのと同じ理屈だ。魔力を持たない俺は、怨念にとって見えない」
「一人で行くと」
「全員を連れていけば、怨念波で全員がやられる。お前たちは恩刻を持っている。恩讐の王の怨念波は恩刻を揺さぶる。恩刻を持たない俺だけが、王の核に近づける」
キサが黙った。計算をしている。策士の頭が回っている。だが答えが出ない顔だった。計算で出せる答えではないからだ。
「……単独行動の成功率を計算する意味は、もうありませんわね」
「ない」
「計算するなと、以前おっしゃいましたものね」
「言った」
「では——」
キサの一尾の震えが止まった。完全に。
「信じますわ」
あの夜、書庫で単独行動を止められた時と同じ言葉。だが今回は俺が単独で行くことを止めるのではなく、送り出す言葉だった。
居間に全員を集めた。ギンがおそるおそる部屋から出てきた。クロが屋根裏から降りてきた。ツルが台所から立ち上がった。アカが自室から出てきた。
全員が揺れていた。全員の目にまだ怨念波の影が残っていた。
だが全員がここにいた。
「怨念の核に行く。俺一人で」
声に出した。
五対の目がこちらを向いた。
「恩刻が本物かどうかは、俺には分からない。だがお前たちが隣にいてくれた日々は本物だ」
一人ずつ見た。
「ギンがヒノの横で眠って子守唄を歌ったことも。クロがナハトに手を伸ばして四十二秒待ったことも。ツルの左手が震えなくなったことも。アカが検診でくすぐったいと文句を言ったことも。キサが帳簿を食卓に持ち込まなくなったことも」
全部覚えている。恩刻とは関係のない、一つ一つの出来事。
「全部本物だ。恩刻が消えても消えなくても、俺の答えは変わらない」
居間が静まった。五人の揺れが止まったわけではない。怨念波は続いている。だが俺の言葉が一つの重石になって、揺れの振幅を抑えている。
明日、恩讐の王の核に向かう。
一人で。
段取りの鬼が、段取りの外に出る。
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