表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放されたスキルなしの荷物持ち、助けた魔獣が美少女になったんだが愛が激重で誰も離してくれない  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/69

第60話 ①「揺らぐ刻印」前編

撤退から一夜が明けた。


 拠点は静かだった。いつもの朝とは違う静けさ。ギンの声がしない。アカの足音がしない。クロの「うるさい」がない。ツルの台所の音がしない。


 一階に降りた。


 竈の火が消えていた。


 ツルが朝食を作っていない。この家に来てから一度もなかったことだ。あの日——広場で左翼の羽根を散らした翌朝でさえ、ツルは三日目に台所に立った。それが今朝はいない。


 竈の前に、白い手が置かれていた。


 ツルだ。台所の床に座り込んでいた。壁にもたれて、両手を膝の上に載せている。白い髪が乱れて頬にかかっている。目は開いているが、どこも見ていない。


「ツル」


「……おはようございます、ハルさま」


 声は出た。だが体が動かない。立ち上がろうとして、膝が折れる。


「朝食を……作らなければ」


「いい。今日は俺が作る」


「でも——」


「いいから座ってろ」


 ツルの手が震えていた。昨日までの、震えが止まったはずの左手が。竈に火を入れようとして、火打ち石を握れない。指先の力が入らない。


「ハルさま。わたくしは……考えてしまうのです」


 声が小さかった。


「わたくしがこの台所に立つのは、恩刻のおかげなのではないかと。ハルさまに助けていただいた恩が刻まれて、それが感謝になり、感謝が献身になり、献身が日常になった。でも、その最初の一歩が恩刻によるものだとしたら——わたくしの献身は、恩刻が作った幻なのではないかと」


「ツル」


「羽根を散らした時も思いました。あれは本当にわたくしの意志だったのか。恩刻に突き動かされていただけではないのかと。昨日、ダグさまを見て『残ったもので何ができるか数える方が楽しい』と思えたのに。あの気持ちすら、恩刻が作ったものだったのではないかと。怨念波がそう囁くのです」


 白い手が膝の上で握られた。震えが止まらない。昨日の夕方、俺の手を包んで震えなかった左手が、一晩でここまで戻された。


 俺はツルの隣に座った。竈の前の冷たい床。


「粥を炊く。手順を教えてくれ」


「……え?」


「俺は粥しか作れない。それもお前の半分の味だ。手順を教えてくれたら、今日だけは俺が作る」


 ツルが目を見開いた。涙が一筋落ちた。


「……お米は、左の棚の三段目です」



   *



 二階に上がった。


 ギンの部屋の扉が閉まっていた。ギンが自室の扉を閉めることは、普段はない。最近はヒノの横で眠ることが多く、自室を使うこと自体が減っていた。扉を閉めたということは、閉じこもっている。


「ギン。入るぞ」


 返事がなかった。


 扉を開けた。


 ギンはベッドの上にいなかった。部屋の隅、窓の下に蹲っていた。膝を抱えて、銀の尾を体に巻きつけている。耳が伏せている。


 金色の目が、赤みを帯びていた。昨日の戦場ほどではない。だが完全な金色ではない。揺れている。


「ぬしさま。来ないで」


「もう来てる」


「だめ。ギンの近くにいたら、ぬしさまが危ない」


「何が危ない」


「ギンが」


 声が震えた。


「ギンが、ぬしさまの隣にいるの、恩刻のせいかもしれない。恩を忘れられないから隣にいる。それは——それは呪いと同じかもしれない。呪いだったら、ぬしさまに迷惑。ぬしさまが自由じゃなくなる」


 ギンの論理は破綻している。恩刻は行動を強制しない。ゼノが何度も説明した。だが怨念波が恩刻を揺さぶっている今、理屈は届かない。感情が増幅されて、不安が理性を上回っている。


「ギン。お前が隣にいるのは恩刻のせいか」


「わかんない……わかんないから怖いの」


「じゃあ一つ聞く。恩刻が刻まれる前——あの森で俺が瘴獣を追い払った時、お前はどう思った」


「……あったかかった。ぬしさまの手が、あったかかった」


「あの時、恩刻はまだ刻まれてなかった。刻まれたのはお前が俺の膝で眠った後だ。お前が『あったかい』と思ったのは、恩刻の前だ」


 ギンの目が揺れた。赤が薄くなった。僅かに。


「恩刻は恩を忘れられなくする。だがあったかいと感じたのはお前自身だ。俺の手が温かかったのは、恩刻とは関係ない」


「でも……でも、今もぬしさまの隣にいたいのは——」


「もう一つ聞く。ヒノが夜に暴れた時、お前は毎晩隣で寝てやった。あれは恩刻のせいか」


 ギンが顔を上げた。赤みを帯びた金色の目が、俺を見ている。


「ヒノに恩刻はない。お前はヒノを助けた恩なんかない。なのにお前は三日も前から、毎晩厩舎跡で寝てた。誰にも言わずに。あれは恩刻か」


「……ちがう。ギンが、ヒノが一人で怖いのがいやだったから」


「それだ。お前が自分で決めたんだ。恩刻じゃない」


 ギンの目から涙がこぼれた。金色の瞳に赤みが残っているが、薄れつつある。


「お前が決めろ。俺は何も強制しない。隣にいたいなら隣にいろ。離れたいなら離れろ。どっちでも俺の答えは変わらない」


「ぬしさまの答えって」


「お前が好きだってことだ。恩刻があってもなくても」


 まだ完全には戻っていない。だが膝を抱える力が少しだけ緩んだ。



   *



 屋根裏の扉は閉まっていた。


 昨日の撤退後、クロは屋根裏に上がったきり降りてこない。食事も取っていない。ツルが置いた茶と菓子の盆が、扉の前で手つかずのまま冷えていた。


「クロ。話がある」


「……いらない」


 声が硬い。あの夜——背中の傷を見られて市場裏に逃げた夜と同じ硬さだ。


「入るぞ」


「入るなって——」


 扉を開けた。


 クロはハンモックの上にいなかった。梁の上に丸くなっていた。猫が本当に怖い時に取る姿勢だ。高い場所の、狭い空間。侵入者から身を守る本能。


 オッドアイの片方——碧の方が曇っていた。涙のせいではない。怨念波が恩刻に干渉して、瞳の色にまで影響が出ている。


「あたしがあんたの傍にいたいのは本当の気持ち?」


 梁の上から声が降ってきた。


「それとも恩刻に操られてるだけ? 市場裏であんたが脚を治してくれた。恩が刻まれた。そこからずっと——あたしの気持ちは、全部恩刻のせいだったんじゃないの」


「クロ。お前は恩刻が刻まれた後、三日で出て行かなかった」


「……何の話よ」


「お前は『三日だけ』と言って宿に残った。三日で出て行くと。だが出て行かなかった。恩刻が行動を操るなら、最初から離れようとすらしない。お前は離れようとして、迷って、自分で残ると決めた。あれはお前の意志だ」


 クロが黙った。


「おやすみを言ったのも。袖を掴んだのも。俺の隣に座るようになったのも。全部お前が自分で決めた。時間をかけて。猫は急がない。お前のペースで、少しずつ距離を詰めた。恩刻に操られた動きじゃない」


「……証拠はあるの」


「もう一つある。ナハトに手を伸ばした日のことだ。あの黒猫に、お前は自分から手を差し出した。四十二秒待った。あれは恩刻か。ナハトへの恩なんかない。お前が自分でやったことだ」


 梁の上で、黒い尻尾が揺れた。小さく。だがはっきりと。


「恩刻がどうであれ、あの日々は本物だ」


 降りてこなかった。だが声が返ってきた。


「……菓子、冷めてる」


「温め直す」


「……お願い」


 クロが「お願い」を言ったのは初めてだった。



   *

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ