第60話 ①「揺らぐ刻印」前編
撤退から一夜が明けた。
拠点は静かだった。いつもの朝とは違う静けさ。ギンの声がしない。アカの足音がしない。クロの「うるさい」がない。ツルの台所の音がしない。
一階に降りた。
竈の火が消えていた。
ツルが朝食を作っていない。この家に来てから一度もなかったことだ。あの日——広場で左翼の羽根を散らした翌朝でさえ、ツルは三日目に台所に立った。それが今朝はいない。
竈の前に、白い手が置かれていた。
ツルだ。台所の床に座り込んでいた。壁にもたれて、両手を膝の上に載せている。白い髪が乱れて頬にかかっている。目は開いているが、どこも見ていない。
「ツル」
「……おはようございます、ハルさま」
声は出た。だが体が動かない。立ち上がろうとして、膝が折れる。
「朝食を……作らなければ」
「いい。今日は俺が作る」
「でも——」
「いいから座ってろ」
ツルの手が震えていた。昨日までの、震えが止まったはずの左手が。竈に火を入れようとして、火打ち石を握れない。指先の力が入らない。
「ハルさま。わたくしは……考えてしまうのです」
声が小さかった。
「わたくしがこの台所に立つのは、恩刻のおかげなのではないかと。ハルさまに助けていただいた恩が刻まれて、それが感謝になり、感謝が献身になり、献身が日常になった。でも、その最初の一歩が恩刻によるものだとしたら——わたくしの献身は、恩刻が作った幻なのではないかと」
「ツル」
「羽根を散らした時も思いました。あれは本当にわたくしの意志だったのか。恩刻に突き動かされていただけではないのかと。昨日、ダグさまを見て『残ったもので何ができるか数える方が楽しい』と思えたのに。あの気持ちすら、恩刻が作ったものだったのではないかと。怨念波がそう囁くのです」
白い手が膝の上で握られた。震えが止まらない。昨日の夕方、俺の手を包んで震えなかった左手が、一晩でここまで戻された。
俺はツルの隣に座った。竈の前の冷たい床。
「粥を炊く。手順を教えてくれ」
「……え?」
「俺は粥しか作れない。それもお前の半分の味だ。手順を教えてくれたら、今日だけは俺が作る」
ツルが目を見開いた。涙が一筋落ちた。
「……お米は、左の棚の三段目です」
*
二階に上がった。
ギンの部屋の扉が閉まっていた。ギンが自室の扉を閉めることは、普段はない。最近はヒノの横で眠ることが多く、自室を使うこと自体が減っていた。扉を閉めたということは、閉じこもっている。
「ギン。入るぞ」
返事がなかった。
扉を開けた。
ギンはベッドの上にいなかった。部屋の隅、窓の下に蹲っていた。膝を抱えて、銀の尾を体に巻きつけている。耳が伏せている。
金色の目が、赤みを帯びていた。昨日の戦場ほどではない。だが完全な金色ではない。揺れている。
「ぬしさま。来ないで」
「もう来てる」
「だめ。ギンの近くにいたら、ぬしさまが危ない」
「何が危ない」
「ギンが」
声が震えた。
「ギンが、ぬしさまの隣にいるの、恩刻のせいかもしれない。恩を忘れられないから隣にいる。それは——それは呪いと同じかもしれない。呪いだったら、ぬしさまに迷惑。ぬしさまが自由じゃなくなる」
ギンの論理は破綻している。恩刻は行動を強制しない。ゼノが何度も説明した。だが怨念波が恩刻を揺さぶっている今、理屈は届かない。感情が増幅されて、不安が理性を上回っている。
「ギン。お前が隣にいるのは恩刻のせいか」
「わかんない……わかんないから怖いの」
「じゃあ一つ聞く。恩刻が刻まれる前——あの森で俺が瘴獣を追い払った時、お前はどう思った」
「……あったかかった。ぬしさまの手が、あったかかった」
「あの時、恩刻はまだ刻まれてなかった。刻まれたのはお前が俺の膝で眠った後だ。お前が『あったかい』と思ったのは、恩刻の前だ」
ギンの目が揺れた。赤が薄くなった。僅かに。
「恩刻は恩を忘れられなくする。だがあったかいと感じたのはお前自身だ。俺の手が温かかったのは、恩刻とは関係ない」
「でも……でも、今もぬしさまの隣にいたいのは——」
「もう一つ聞く。ヒノが夜に暴れた時、お前は毎晩隣で寝てやった。あれは恩刻のせいか」
ギンが顔を上げた。赤みを帯びた金色の目が、俺を見ている。
「ヒノに恩刻はない。お前はヒノを助けた恩なんかない。なのにお前は三日も前から、毎晩厩舎跡で寝てた。誰にも言わずに。あれは恩刻か」
「……ちがう。ギンが、ヒノが一人で怖いのがいやだったから」
「それだ。お前が自分で決めたんだ。恩刻じゃない」
ギンの目から涙がこぼれた。金色の瞳に赤みが残っているが、薄れつつある。
「お前が決めろ。俺は何も強制しない。隣にいたいなら隣にいろ。離れたいなら離れろ。どっちでも俺の答えは変わらない」
「ぬしさまの答えって」
「お前が好きだってことだ。恩刻があってもなくても」
まだ完全には戻っていない。だが膝を抱える力が少しだけ緩んだ。
*
屋根裏の扉は閉まっていた。
昨日の撤退後、クロは屋根裏に上がったきり降りてこない。食事も取っていない。ツルが置いた茶と菓子の盆が、扉の前で手つかずのまま冷えていた。
「クロ。話がある」
「……いらない」
声が硬い。あの夜——背中の傷を見られて市場裏に逃げた夜と同じ硬さだ。
「入るぞ」
「入るなって——」
扉を開けた。
クロはハンモックの上にいなかった。梁の上に丸くなっていた。猫が本当に怖い時に取る姿勢だ。高い場所の、狭い空間。侵入者から身を守る本能。
オッドアイの片方——碧の方が曇っていた。涙のせいではない。怨念波が恩刻に干渉して、瞳の色にまで影響が出ている。
「あたしがあんたの傍にいたいのは本当の気持ち?」
梁の上から声が降ってきた。
「それとも恩刻に操られてるだけ? 市場裏であんたが脚を治してくれた。恩が刻まれた。そこからずっと——あたしの気持ちは、全部恩刻のせいだったんじゃないの」
「クロ。お前は恩刻が刻まれた後、三日で出て行かなかった」
「……何の話よ」
「お前は『三日だけ』と言って宿に残った。三日で出て行くと。だが出て行かなかった。恩刻が行動を操るなら、最初から離れようとすらしない。お前は離れようとして、迷って、自分で残ると決めた。あれはお前の意志だ」
クロが黙った。
「おやすみを言ったのも。袖を掴んだのも。俺の隣に座るようになったのも。全部お前が自分で決めた。時間をかけて。猫は急がない。お前のペースで、少しずつ距離を詰めた。恩刻に操られた動きじゃない」
「……証拠はあるの」
「もう一つある。ナハトに手を伸ばした日のことだ。あの黒猫に、お前は自分から手を差し出した。四十二秒待った。あれは恩刻か。ナハトへの恩なんかない。お前が自分でやったことだ」
梁の上で、黒い尻尾が揺れた。小さく。だがはっきりと。
「恩刻がどうであれ、あの日々は本物だ」
降りてこなかった。だが声が返ってきた。
「……菓子、冷めてる」
「温め直す」
「……お願い」
クロが「お願い」を言ったのは初めてだった。
*




