第59話 「恩讐の王」
エルデの南東に大平原がある。
穀倉地帯の先に広がる草原で、普段は風に揺れる緑の海だ。商隊が通り、羊飼いが群れを連れ、秋になれば黄金色に染まる。
今朝、その大平原の中央に紫の柱が立った。
柱と呼ぶには巨大すぎた。地面が裂けて、亀裂から紫の光が溢れ、光が空に向かって噴き上がっている。高さは街の鐘塔の十倍を超えている。遠目にも見えた。エルデの城壁の上から、南東の空に立ち昇る紫の柱が、朝日を遮っていた。
柱の根元から瘴獣が湧き出していた。
地面の亀裂から、黒い霧をまとった異形が次々と這い出してくる。蟲型、獣型、泥型。種類はバラバラだが、どれもハイルンで見た知性化した瘴獣と同じ——目に光がある。意思のある動きをしている。湧き出した瘴獣は散らばらず、柱の周囲に集まり、陣形を組んでいた。
エルデの街が騒然となった。
冒険者ギルドの緊急招集の鐘が鳴り響いた。街中に響く三連鐘。災害級の合図だ。最後に鳴ったのはレーゲン森林の大火災の時だと、リノが言っていた。
*
ギルド本部の大広間に、三つの組織が集まった。
冒険者ギルド。エルドス支部長が正面の壇上に立っていた。白髪の老人。七十を超えているが背筋は真っ直ぐで、鷲の目は衰えていない。その横に冒険者ギルドの幹部と、Aランク以上の冒険者が並んでいる。
テイマーギルド。グレイヴが右翼に立っていた。黒い外套にテイマーギルドの紋章。灰色の髪。鋭い眼光。その後ろにモーゼルとレイン、そしてテイマー部隊の面々。テイム獣を連れたテイマーが十二名。獣型、鳥型、蟲型のテイム獣が大広間の端に控えている。
恩義契約ギルド。俺が左翼に立っていた。後ろにギン、クロ、ツル、アカ、キサ。五人。テイマー部隊の十二名に比べれば圧倒的に少ない。だが一人一人の戦力が桁違いだ。
リノは本部に残る。事務局長として、各地のギルド支部との連絡を統括する役割だ。ヒノも拠点で留守番。戦闘に出せる状態ではない。シロはギルドの保護室に戻っている。
三組織が一つの広間に並んでいる。冒険者ギルドとテイマーギルドが並ぶことは過去にもあった。だが恩義契約ギルドが対等な三つ目の組織として参加するのは、史上初めてだ。
エルドスが口を開いた。
「状況を報告する。本日早朝、エルデ南東の大平原に瘴気の噴出が確認された。規模は観測史上最大。噴出源から瘴獣が継続的に出現しており、現時点で確認された数は百体を超えている。さらに増加中」
大広間がざわめいた。百体。一つの場所から百体。通常の大規模発生でも二十から三十だ。桁が違う。
「噴出源の上空に、巨大な瘴気の塊が確認されている。竜の形をしているとの報告があるが、実体かどうかは不明」
実体ではない。俺は知っている。ゼノの研究で分かっている。あれは瘴気が凝縮した意思体だ。物理的な存在ではない。
「冒険者ギルド、テイマーギルド、恩義契約ギルドの三組織合同で対処にあたる。総指揮は私が執る。テイマー部隊はグレイヴ殿に指揮を委ねる。恩義契約部隊はハル君に」
エルドスが俺を見た。鷲の目に、信頼がある。
「人間と魔獣が、初めて対等に並んで戦う日だ。この戦いの結果が、恩義契約の未来を決める。分かっているな」
「分かっています」
グレイヴがこちらを見た。鋭い目。だがあの日——拠点を訪れた夕方——以来、目の奥にあるものが変わっている。敵意ではない。警戒ですらない。二十年間握りしめてきた拳を少しだけ開いた男の、複雑な目。
「ハル君。テイマー部隊と恩義契約部隊の連携は可能か」
「可能です。フォーメーションを提案します」
木板を出した。大広間の壁に立てかけて、炭筆で配置図を描く。
「テイマー部隊は瘴獣の群れの封じ込めを担当。テイム獣の数を活かして、群れが平原から市街地に広がるのを防ぐ。恩義契約部隊は噴出源への突入を担当。瘴獣の群れを突破して、噴出源の核に到達する」
「核に到達して、どうするのだ」
グレイヴの問い。合理的だ。核に到達した後の段取りがなければ、突入は自殺行為だ。
「核を鎮める」
「鎮める方法は」
「段取りを組んでいる最中です」
嘘ではない。まだ完成していない。恩讐の王を鎮める方法は、ゼノの研究でも確定していない。だが方向性は見えている。武力では倒せない。裏切られた恩義を癒す以外に道はない。
グレイヴが数秒間、俺を見つめた。
「……分かった。封じ込めはこちらが引き受ける」
それだけだった。追及しなかった。方法が未定であることを受け入れた。あの日、拠点で俺の言葉を聞いた男だ。保証がないことを承知で、それでも前に進む人間がいることを、グレイヴは知っている。
*
大平原。
到着したのは昼過ぎだった。
近づくほどに空気が変わる。瘴気の臭いが濃い。硫黄と腐敗に加えて、怒りの匂いがある。クロが鼻を押さえた。ギンが唸った。
「ぬしさま、これ……すごく怒ってる」
「ああ。怒ってる」
平原の中央に立つ紫の柱。近くで見ると、柱というより噴水に近い。地面の亀裂から瘴気が間欠的に噴き上がっている。噴き上がるたびに地面が震え、新たな瘴獣が亀裂から這い出してくる。
柱の頂点に、影があった。
巨大な竜の形。翼を広げた姿が紫の光の中に浮かんでいる。だが輪郭が揺れている。実体ではない。瘴気が凝縮して形を成しているだけだ。風が吹けば端が千切れ、すぐにまた集まる。
だが目があった。
紫の光の中に、二つの目が光っている。赤ではない。紫でもない。金色だった。濁った、深い金色。怒りと悲しみが底に沈んだ色。
恩讐の王。
魔獣の目だ。瘴獣の目ではない。意思がある。感情がある。数千年分の怨念を抱えた、一つの魂の目だ。
テイマー部隊が平原の外周に展開した。テイム獣を前面に配置し、瘴獣の群れが外に広がらないよう封じ込めの陣を敷く。グレイヴが前線に立っていた。灰色の大狼を従えている。
「封じ込め開始。テイム獣は持ち場を維持。瘴獣の突破を許すな」
グレイヴの命令でテイマー部隊が動いた。テイム獣が吠え、瘴獣の群れの外縁に壁を作る。
恩義契約部隊は五人。俺を含めて六人。群れの中央を突破して、噴出源に到達する。
「フォーメーションは基本形。ギン前衛、クロ遊撃、アカ遠距離、ツル後衛、キサ妨害。群れを突破することだけに集中しろ。一体ずつ倒す必要はない。道を開けて駆け抜ける」
「ギン、行ける!」
「はいはい」
「承知いたしました」
「任せよ!」
「お任せくださいませ」
「突入」
ギンが飛び出した。銀の爪が瘴獣を薙ぎ払い、道が開く。クロが横を走り、ギンが開けた道の両側に来る瘴獣を蹴り飛ばす。アカのブレスが前方の密集した群れを焼き払い、通路を広げる。ツルの風が瘴気を押し返し、呼吸と視界を確保する。キサの幻術が周囲の瘴獣の感覚を狂わせ、こちらに向かってくる数を減らす。
俺は走った。全員の中心で。指示を飛ばしながら。
「ギン、右に三体!」
「見えてる!」
「クロ、左後方!」
「処理済み」
「アカ、前方十歩に密集! ブレス一発!」
「喰らえ!」
赤い帯が空気を裂いた。密集した瘴獣が霧散する。
突破に一分かからなかった。群れの中央を駆け抜け、噴出源の前に出た。
紫の亀裂。地面が裂けて、瘴気が噴き上がっている。その上に、恩讐の王が浮かんでいる。巨大な竜の影。翼を広げて、金色の目がこちらを見下ろしている。
その瞬間だった。
波が来た。
音ではない。光でもない。空気の振動でもない。もっと深い場所——魂に直接響く波。
怨念波。
波を浴びた瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。
前世のオフィス。終電の帰り道。「お前、いらない」と言ったレクスの声。追放された夜の森。一人で歩いた暗闇。裏切りの記憶。見捨てられた記憶。信頼して裏切られた記憶が、何倍にも増幅されて脳を叩く。
膝をついた。視界が歪む。
だが俺は人間だ。恩刻を持たない。怨念波の影響は大きいが、恩刻を持つ者ほどではない。
周囲を見た。
テイマー部隊が混乱していた。怨念波がテイム獣に直撃している。テイム紋は魔核への強制干渉だ。怨念波が魔核を揺さぶれば、テイム紋が不安定になる。
テイム獣が次々と制御を離れ始めた。吠える獣、走り出す獣、その場で蹲る獣。テイマーたちが必死に制御術を送っているが、効かない。
「また……また制御が……!」
グレイヴの声が聞こえた。遠い。だが届いた。
灰色の大狼がグレイヴの足元で震えていた。テイム紋が明滅している。制御が揺らいでいる。二十年前の夜——ルクスが暴走した夜と、同じ構図だ。
グレイヴの顔が白い。恐怖。二十年前の恐怖が蘇っている。
だがグレイヴは立っていた。逃げなかった。手を上げ続けている。制御術を送り続けている。効かなくても。
恩義契約部隊は違う状況だった。テイム紋がないから、紋の崩壊は起きない。だが怨念波は別の形で来る。
ギンの動きが止まっていた。
銀の爪が出たまま、立ち尽くしている。金色の目が虚ろだ。怨念波が恩刻を揺さぶっている。恩を刻まれた記憶と、裏切りの記憶が混ざり合っている。
「ぬし……さま……」
声が震えていた。
クロが膝をついていた。両手で頭を抱えている。オッドアイが閉じている。過去の虐待の記憶が増幅されているのだ。人間に棒で叩かれた背中。焼き印。引き千切られた耳。
「やめ……て……見ないで……」
ツルが体を折っていた。左の翼の付け根に手を当てている。羽根を散らした場所。自己犠牲の記憶。テイマーに翼を折られた記憶。広場で全てを散らした記憶。
「わたくしは……わたくしは幻では……」
アカが角を抱えてうずくまっていた。レーゲンの森での暴走。瘴気に侵されて、一人で燃え続けた三日間。竜化の恐怖。自分の体が自分のものでなくなる恐怖。
「妾は……止められるのか……」
キサだけが立っていた。金色の目は開いている。だが一尾が激しく震えている。三十年間の孤独。姉と引き離された記憶。計算だけで生きてきた日々。全てが怨念波に増幅されて押し寄せている。
「全員聞こえるか!」
叫んだ。声が出た。俺は恩刻を持たない。怨念波の影響は前世の記憶の増幅だけだ。辛いが、耐えられる。前世のブラック企業の十年を生き延びた——いや、最後は生き延びなかったが、その記憶に耐性がある。皮肉な話だ。
「怨念波だ! 過去の記憶が増幅されてる! 今見えてるものは本物じゃない! 増幅された幻だ!」
声が届いているか分からない。だが言い続ける。
「ギン! お前は俺を置いていかないって約束した! 今もそうだ!」
ギンの耳が動いた。
「クロ! 傷も含めてお前だって言った! 変わってない!」
クロの手が少しだけ緩んだ。
「ツル! 飛べなくてもツルだって言った! 覚えてるか!」
ツルの背が伸びかけた。
「アカ! 三発で十分だ! お前は止められる!」
アカの手が角から離れかけた。
「キサ! 計算しなくていい! 信じろ!」
キサの尾の震えが弱まった。
全員が——まだ完全には戻っていない。怨念波が続いている。恩讐の王が上空から見下ろしている。金色の目に、怒りと悲しみが渦巻いている。
だがあの目の奥に、別のものがある。
孤独だ。
数千年の孤独。裏切られて、怒って、悲しんで、怨念になって、それでも消えない孤独。
フィンのノートの最後の一文が頭に浮かぶ。
「王もまた、救われなかった魔獣だから」。
まだ方法は見つかっていない。だが方向は見えている。
今日は凌ぐ。全員を連れて帰る。方法は帰ってから段取りを組む。
「全員撤退! 噴出源からは離れる! テイマー部隊と合流!」
声を絞り出した。ギンが俺の腕を掴んだ。金色の目に、まだ揺れがある。だが俺を見ている。焦点が合っている。
「ぬしさま、」
「走れ。隣にいろ」
「……うん」
六人で駆けた。来た道を戻る。瘴獣が群がってくるが、アカのブレスとギンの爪で道を開ける。クロが後方を守り、ツルの風が瘴気を押し返す。キサの幻術が追撃を逸らす。
群れを突破して、テイマー部隊の陣に合流した。
テイマー部隊も混乱していた。テイム獣の半数が制御を離れて座り込んでいる。グレイヴが前線で踏ん張っていた。灰色の大狼がグレイヴの足元で震えている。
「グレイヴ殿。全軍撤退を提案します」
「……撤退か」
「怨念波の影響下では戦力が維持できない。一旦下がって態勢を立て直す」
グレイヴが俺を見た。鋭い目。だが否定しなかった。
「……賛成する。全テイマー部隊、撤退」
三組織の部隊がエルデに向かって退いた。
退きながら、俺は振り返った。
紫の柱。その頂点に浮かぶ巨大な竜の影。金色の目が、こちらを見ている。
追ってこなかった。
恩讐の王は追わない。怨念波を放つだけだ。直接攻撃はしない。
怒りの底にあるのは、攻撃の意思ではない。
拒絶だ。
近づくな。信じるな。裏切られるから。
数千年分の拒絶が、怨念波になって世界を覆っている。
*
エルデに撤退した。
全員の安否を確認した。死者はゼロ。重傷者もゼロ。怨念波の精神的ダメージは全員に残っているが、身体的な傷はない。
ギルド本部の大広間で、俺は壁にもたれていた。
ギンが隣に座っていた。右側。いつもの位置。だが距離がいつもより少し遠い。半歩分。
「ぬしさま」
「ん」
「ギンの目、さっき変だった?」
「……少しだけ」
「赤くなった?」
「一瞬だけ、赤みが差した。あの渓谷の時と同じ色だ」
ギンの耳が伏せた。尻尾が体に巻きついた。
「ギン、怖い。自分が怖い。怨念波が来た時、ぬしさまを置いていきたくなった。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、逃げたいって思った。ぬしさまから逃げたいって」
声が震えていた。
「それは恩刻のせいかもしれない。ギンがぬしさまの隣にいるの、恩刻が揺れたら——」
「ギン」
「ん」
「お前が怖がってるのは分かった。だが今、お前は隣にいる。逃げたいと思ったのに、逃げなかった。それが答えだろ」
ギンの金色の目が、俺を見た。
揺れていた。恩刻が揺れているのか、ギン自身の感情が揺れているのか、もう区別がつかない。
だが、隣にいる。
今はそれだけでいい。
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