第58話 「結束の夜」
昨夜、地面が揺れた。南東の空が紫に光り、ゼノが「来る」と言った。
一晩経って、揺れは収まっていた。紫の光も夜明けと共に薄れた。だが消えたわけではない。朝日の下でも南東の地平線に、薄い紫の帯が残っている。先週まではなかったものだ。
今朝の緊急会議で方針が決まった。明日から大規模な瘴獣対策に出る。各地のギルド支部と連携した広域討伐。恩義契約ギルドとしての初の本格作戦だ。
ツルが台所に立ったのは、昼過ぎだった。
普段の夕食の仕込みは三の鐘からだ。今日は二の鐘前に竈に火を入れた。三時間も前。ツルの料理にしては異例の早さだ。
理由は聞かなかった。今夜が、当分の間の最後の全員揃った食卓になるかもしれない。ツルはそれを分かっている。だから三時間前から仕込んでいる。
台所を覗くと、鍋が三つ、焼き台に魚が二尾、竈の横に粥の鍋、さらに奥で何かを蒸していた。
「ツル、量が多くないか」
「多くありません。皆さまのお好みに合わせると、品数が増えるだけですわ」
嘘ではないが、全部でもない。今夜の食卓に懸けている。ツルの背中——左は羽根を失った翼の骨格だけが薄く浮き、右だけ翼の膨らみがある非対称の背中——が、いつもより少しだけ力が入っていた。
「手伝うか」
「ハルさまは座っていてください。ギルド長のお仕事があるでしょう」
「仕事は終わった」
「ならばお茶でも。邪魔はしないでくださいませ」
追い出された。ツルの台所は聖域だ。最初から、多分、これからも。
*
夕食の食卓に、全員が揃った。
八脚の椅子と、ヒノ用の低い台。
ギンが俺の右隣。クロが左隣。アカが正面。キサが端。ツルが配膳を終えてから最後に座る。リノが事務局長の椅子に。シロが八脚目に。
シロは今日、特別にキサが昼から迎えに行っていた。平日だが、明日から俺たちが遠征に出る。留守の間、シロはギルドの保護室に戻る。今夜が、しばらくの間の最後の食卓だ。
テーブルの上が埋まっていた。
鶏肉の香草焼き——ギンの分は肉が三切れ多い。酸味を抑えた白身魚の蒸し焼き——クロの皿だけレモンが添えられていない。辛味のきいた根菜の煮込み——アカの器には赤い香辛料が追加されている。薄味の豆腐と青菜の汁物——キサの好みに合わせた一品。白粥——俺の定番。そしてシロの分は、ツルが毎日回復状況に合わせて調整している特別食。柔らかく煮た鶏肉と、すりおろした根菜の粥。
ヒノの台の上には、柔らかく煮込んだ肉の小さな器。
全員の好みが、一つの食卓に並んでいる。
「いただきます」
八つの声が重なった。ヒノが器に顔を突っ込んだ。
ギンが鶏肉を頬張った。尻尾がぶんぶん揺れる。
「おいしい! ツルさんのお肉、今日はいつもよりおいしい!」
「いつもと同じ味付けですよ」
「ううん、違う。ギンの鼻は誤魔化せないんだから。今日のは気持ちが多い」
ツルが一瞬だけ目を伏せて、微笑んだ。気持ちが多い。ギンの表現は時々、核心を衝く。
クロが魚を箸で丁寧にほぐしていた。骨を一本ずつ外して、身だけを口に運ぶ。猫の食べ方だ。
「……おいしい」
小さな声だった。クロが料理を褒めるのは珍しい。箸が止まらないことで代弁するのが普段のクロだ。今日は声に出した。
ツルの右翼が、服の下で微かに震えた。嬉しいのだ。
アカが煮込みを掬いながら、辛味に顔を赤くしていた。角の根元まで赤い。辛いのか嬉しいのか、もう区別がつかない。
「妾の舌は繊細じゃが、この辛さは丁度よいのう!」
「アカさま、お水をどうぞ」
「水はいらぬ! 竜の舌に水など——」
三杯目の水を飲んだ。繊細ではなかった。
キサは薄味の汁物を啜りながら、珍しく帳簿を持っていなかった。手元に紙がない。数字がない。ただ箸を持って、食べている。
隣のシロが、白い粥をゆっくり口に運んでいた。金色の目が食卓を見渡している。焦点は安定している。今日は調子がいい。八人の顔を、一人ずつ見ている。
「……にぎやか」
シロの声だった。小さいが、はっきりしていた。
「はい。にぎやかですわ」
キサが隣で答えた。泣いてはいなかった。もう泣かなくていい顔で、笑っていた。
俺は粥を啜った。ツルの粥はいつも通りうまかった。味付けが微かに違う気がしたが、聞かなかった。聞いたらたぶん「いつもと同じです」と言うだろう。嘘だ。今日のは、少しだけ丁寧だ。
*
食後、庭に出た。
秋の夜だった。空気が冷たくなり始めている。星が見える。月は細い。南東の地平線にだけ、薄い紫がまだ残っている。
庭の中央で、アカが口を開けた。
小さな火が灯った。唇の端から橙色の光が漏れ、手のひら大の火球が地面に落ちた。枯れ枝の山に着火する。焚き火だ。
火球の大きさは拳一つ分。的を外さない。枯れ枝以外の芝にも石にも当たっていない。制御が完璧だった。三十歩先の手のひら大の的に十発十中を出す精度が、焚き火の着火にも活きている。
「妾の火で暖まるがよい」
アカが胸を張った。角の根元が赤い。褒めてほしいのだ。
「上手いな」
「当然じゃ」
尻尾が揺れた。褒められると揺れる。もう隠す気もない。
焚き火の周りに全員が集まった。
ギンが厩舎跡から歩いてきたヒノの横に座った。銀髪の少女と橙色の炎狼。ヒノの歩幅はまだ遅いが、以前より確実に力強くなっている。ギンがヒノのペースで歩く。毎晩ヒノの横で眠り、朝は一緒に庭を歩き、今は焚き火の前に並んで座っている。
クロが庭に出てきた。ソファから立ち上がって、玄関を通って、庭の芝の上に。クロが屋根裏でもソファでもなく庭にいるのは珍しい。焚き火の光がオッドアイに映って、金と碧が揺れている。右耳の裂けた縁が髪の隙間から見えている。隠していない。あの日、ナハトに手を伸ばした猫は、もう傷を隠さない。
ツルが縁側から茶を持ってきた。八人分。一つずつ手渡していく。左手が震えなくなった手で。最後にヒノの前に水の器を置いた。
キサが帳簿を持たずに、石の上に座っていた。九尾のうち一尾だけが揺れている。隣にシロが座っている。白い髪が焚き火の光に透けて、金色の瞳がぼんやりと炎を見つめている。自分で選んだ名前を持つ人の、穏やかな顔だった。
リノが門の近くに立っていた。家の中の人間ではない。だがもう外の人間でもない。恩義契約ギルドの事務局長として、この輪の一部になっている。
ゼノは書庫にいるだろう。焚き火に出てくるタイプではない。だが書庫の窓が開いていた。音は聞こえているはずだ。
八人と一頭。
焚き火がぱちぱちと爆ぜた。アカの火は安定している。風が吹いても揺れない。竜の炎は、制御された時に最も美しい。
俺は全員を見渡した。
追放された夜のことを思い出す。
深夜の森を一人で歩いた。月明かりの下で自分の足音だけが響いていた。干し肉を齧って岩陰で眠った。翌朝、腕の中に銀色の仔狼がいた。あの朝から全てが始まった。
あの夜の静寂が嘘のように、今は騒がしい。
ギンが焚き火に手をかざしながらヒノの毛並みを撫でている。クロが膝を抱えて炎を見ている。ツルが茶を飲んでいる。アカが焚き火の火加減を微調整している。キサがシロの手を握っている。リノが門の柱にもたれている。
騒がしくて、温かい。
「……明日からしばらく、この食卓は休みになる」
俺が言うと、全員がこちらを見た。
「各地の瘴獣対策に出る。恩義契約ギルドのギルド長として、現場を回る。全員で動く。拠点を空けることになる」
誰も反論しなかった。分かっているのだ。先日ゼノが居間で全員に話した。恩讐の王のこと。瘴獣の知性化。包囲されつつあるエルデ。そして昨夜の揺れ。
「だから今夜は、全員で飯を食った。ツルが腕を振るってくれた。明日からどうなるか分からない。だが今夜のこの食卓は本物だ。忘れるなよ」
大仰な台詞は似合わない。段取りの鬼は感情を数字で語る。だが今夜くらいは許してほしい。
一人ずつに声をかけた。長い台詞ではない。短い一言ずつ。
「ギン、明日も隣にいろ」
「わかった! ぜったい隣にいる!」
「クロもだ」
「……いちいち言わなくていいわよ」
「ツル、飯頼む」
「もちろんです。どこにいても、お食事は用意いたします」
「アカ、ブレスは三発まで」
「四発じゃ!」
「三発」
「……三発」
「キサ、情報を」
「お任せくださいませ。わたくしの情報網は、どこでも機能いたしますわ」
短い言葉だった。だが全員が頷いた。いつもと同じやり取りだ。いつもと同じであることが、今夜は一番大事だった。
焚き火の火が少しだけ大きくなった。アカが無意識に息を吹いたのかもしれない。橙色の光が全員の顔を照らした。
リノが控えめに手を挙げた。
「ハルさん。留守の間、拠点と書類はわたしが守ります。安心してください」
「頼んだ」
ゼノの声が、書庫の窓から聞こえた。
「お前たち。茶が冷めるぞ」
聞いていた。見てはいないが、聞いていた。偏屈な学者の、不器用な参加の仕方だった。
焚き火が静かに燃えている。星が出ている。秋の夜風が庭を抜けていく。南東の紫は、夜の闇に溶けて見えなくなっている。だが消えたわけではない。
明日から嵐が来る。だが今夜は凪だ。凪の夜を無駄にしない。全員の顔を見て、声を聞いて、火の温かさを覚えておく。
いつか振り返った時、この夜のことを思い出すだろう。全員がここにいた夜。誰も欠けていなかった夜。
*
夜が更けた。全員が部屋に戻り、拠点が静まった。
俺は眠れずに窓を開けていた。二階の自室。庭の向こうにエルデの街並みが見える。街灯の光が石畳を照らしている。
夜明けの二の鐘が遠くで鳴った。
その瞬間だった。
南東の地平線が、紫に燃えた。
昨夜見た薄い帯ではない。地平線から空に向かって、紫の光が柱のように噴き上がっている。夜明けの色を塗り潰す濃さだった。
地面が揺れた。
昨夜の微震とは桁が違う。食器棚が鳴り、壁の木板が軋み、階段の手摺が震えた。規則的な間隔。脈動のような揺れ。大地の底から湧き上がるような、低い、重い唸り声が響いている。
ギンが目を覚ました。隣の部屋から銀の耳が飛び出してきた。
「ぬしさま、地面が——」
「分かってる」
クロが屋根裏から降りてきた。目が見開かれている。
「南東。昨夜と全然違う。壁みたいな——」
アカが階段を駆け下りてきた。
「妾の角が疼くのじゃ。これは——あの洞窟の時と同じ——」
キサが二階の窓から南東を見ていた。金色の目が光っている。
「ハルさま。南東の地平線に瘴気の柱が立っています。高さは——見当がつきませんわ。街の塔より高い」
ツルが台所から出てきた。右手を翳している。風が微かに吹いている。瘴気の成分を読む風。
「……脈動があります。あの瘴獣の瘴核と同じ脈動です。ですが規模が——桁違いです」
書庫の扉が開いた。
ゼノが立っていた。眼鏡の奥の目が暗い。だが覚悟が決まった目だった。
「来た」
一言だった。昨夜の「来る」ではない。「来た」だ。
南東の地平線で、紫の光が一度だけ強く脈動した。地面の振動が大きくなった。食器棚の皿が一枚、棚から滑り落ちた。ツルが手を伸ばして受け止めた。左手で。震えずに。
恩讐の王が目を覚ました。
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