表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放されたスキルなしの荷物持ち、助けた魔獣が美少女になったんだが愛が激重で誰も離してくれない  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
55/69

第55話 「猫は二度、手を伸ばす」

その日の申請者は、顔に傷のある中年の女だった。


 リノが受付で対応し、申請書を確認してから居間に通す。俺が椅子に座り、向かいに女が座る。クロはいつも通りソファの端で丸くなっていた。起きているのか眠っているのか、外からは判別できない。


 女の名はマグダ。エルデの東区画で仕立て屋を営んでいる。連れてきたのは黒い猫の魔獣だった。体長は普通の猫より一回り大きく、左の前脚が不自然に曲がっている。古い骨折が治りきらなかったのだろう。毛並みは手入れされているが、目つきが鋭い。人間を警戒する目だ。


「この子はもともとテイマーに管理されていた個体です」


 マグダはそう言って、猫の背中にそっと手を置いた。猫は身を強張らせたが、逃げなかった。


「三年前にテイマーが廃業して、路地に放されたそうです。私の店の裏に住みついて。最初は近づくと威嚇されました。半年かけて、やっと触らせてくれるようになって」


「テイム紋は」


「消えています。テイマーギルドで確認してもらいました。紋が消えた元テイム獣は、制度上どこにも属さない。野良と同じ扱いです。でもこの子は野良じゃない。私の家族です」


 頷いた。恩義契約はこういう関係のためにある。


「猫の名前は」


「ナハト。夜の色だから」


 ナハトに視線を向けた。ナハトが俺を見返す。警戒はしている。だが敵意はない。三年間、マグダの店の裏で少しずつ人間を信じ直した目だった。


 恩義契約の手順に入る。ナハトの前に手を差し出す。純粋な善意で、助けるという意思を向ける。ナハトの目がわずかに揺れた。


 その時、ソファの端で気配が動いた。


 クロが起き上がっていた。ソファに座ったまま、真っ直ぐにナハトを見ている。いつものぶっきらぼうな無表情ではなかった。目が開いている。はっきりと。


「……あんた」


 クロがマグダに声をかけた。マグダが振り向く。


「左脚。いつ折れた」


「え……テイマーに管理されていた頃だと聞いています。詳しいことは」


「殴られたんだろ」


 居間の空気が止まった。クロの声は低く、平坦だった。断定だった。


「骨の曲がり方。上から叩かれた時にああなる。知ってる」


 クロの右耳——傷跡が走る方の耳が、微かに伏せられた。俺は何も言わなかった。クロが自分から話すことは滅多にない。ましてこういう話を。


「……治ってないな。芯が残ってる。冬に痛むだろ」


 マグダが小さく頷いた。


「寒い日は歩きたがらなくて」


「そりゃそうだ」


 クロはソファから降りた。床に膝をつき、ナハトの正面にしゃがんだ。ナハトが身構える。毛が逆立ち、低い唸りが漏れた。警戒。当然だ。見知らぬ相手に急に近づかれれば。


 クロは動かなかった。しゃがんだまま、手を膝の上に置いて、ナハトの目を見ていた。


「……怖いよな」


 声が、さっきまでと違った。柔らかいのではない。ただ、力が抜けていた。


「殴られたら怖い。捨てられたら怖い。次に触ってくる手が優しいかどうか、わかんないから怖い。それは普通だ」


 ナハトの唸りが小さくなった。


「あたしも同じだったから」


 クロが右手を差し出した。掌を上に向けて、ナハトの鼻先の少し手前で止めた。届く距離ではない。ナハトが自分から近づかなければ届かない距離。


 俺はその距離を知っていた。


 あの日。市場裏の路地で、骨折した黒猫が木箱の隙間に蹲っていた。俺が手を伸ばしたら爪で引っ掻かれた。だから無理に触らず、干し肉だけ置いて離れた。翌朝には肉がなくなっていた。三日目の夜、宿のベッドで目を覚ましたら、黒猫が俺の手を枕にして眠っていた。


 あの時、俺は手を伸ばさなかった。手を置いて、離れて、待った。クロが自分で来るのを待った。三日間。


 今、クロが同じことをしている。手を差し出して、届かない距離で止めて、待っている。


 ナハトが動かない。


 十秒。二十秒。三十秒。


 居間に音がない。マグダが息を詰めている。リノが受付の窓口から身を乗り出して見ている。


 四十二秒。


 ナハトが、一歩だけ前に出た。曲がった左脚を庇いながら。鼻先がクロの指に触れた。冷たく湿った鼻。


 クロの指が微かに震えた。


「……よし」


 それだけ言って、クロは手を引いた。立ち上がり、ソファに戻り、また丸くなった。まるで何事もなかったように。


 だが耳の角度が違った。さっきまで伏せていた右耳が、ほんの少しだけ立っていた。


 俺はナハトに改めて手を向けた。恩刻の光が淡く灯る。ナハトの目が揺れ、やがて落ち着いた。テイム紋ではない。上書きでも支配でもない。ただ「ここにいていい」という事実が刻まれる光。


 契約が成立した。


 リノが契約書に日付と名前を記入する。恩義契約ギルド第二号。申請者マグダ、契約対象ナハト、種別猫型魔獣。備考欄にクロが仲介と書こうとして、やめた。クロは嫌がる。


「ありがとうございます」


 マグダが頭を下げた。ナハトを抱き上げると、ナハトは初めて身を強張らせなかった。マグダの腕の中で、曲がった左脚をそっと折りたたんだ。


 二人が帰った後、ソファに目を向けた。


「クロ」


「……なに」


「よくやった」


「別に。あたしは何もしてない」


「手を伸ばした」


「……うるさい」


 クロが毛布を頭まで引き上げた。会話は終わった。


 だが俺は気づいていた。市場裏であの黒猫を保護した時、俺は手を置いて離れた。クロが自分で来るのを待った。三日かかった。


 今日、クロは同じことをやった。ナハトの前に手を差し出して、届かない距離で止めて、待った。四十二秒。ナハトが自分で一歩を踏み出すまで、動かなかった。


 それは、俺が教えたことではない。恩刻が教えたことでもない。クロが、自分で覚えたことだ。


 誰かに手を差し伸べられて救われた者が、次は自分が手を差し出す側になる。しかも相手の意思を待てる側になる。


 猫は二度、手を伸ばす。一度目は、差し出された手に触れるために。二度目は、自分の手を差し出すために。



   *



 夕刻。


 リノが日報をまとめている最中に、伝書鳥が三羽続けて到着した。南方の街からの瘴獣被害報告が二件。西の村からの異常目撃が一件。先週は合計三件だった。今週はまだ三日目で、すでに五件。


 リノが地図に赤い印をつけた。ゼノの赤印と合わせると、エルデを中心に、南と西の点が明らかに増えている。


「ギルド長」


 リノが居間に顔を出した。


「報告件数が先週の倍のペースです」


 頷いた。


「ゼノに共有しておいてくれ」


「はい。……それと」


 リノが一瞬、言い淀んだ。


「南方からの報告に、妙な記述があります。瘴獣が街道を避けて、森を迂回しているそうです。まるで——」


「目的地がある、みたいにか」


「はい」


 窓の外を見た。西の空が夕焼けで赤い。その赤の下の方に、ほんの僅かだが紫がかった色が混じっている。気のせいかもしれない。だが先週は、なかった色だ。



────────────────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ