第55話 「猫は二度、手を伸ばす」
その日の申請者は、顔に傷のある中年の女だった。
リノが受付で対応し、申請書を確認してから居間に通す。俺が椅子に座り、向かいに女が座る。クロはいつも通りソファの端で丸くなっていた。起きているのか眠っているのか、外からは判別できない。
女の名はマグダ。エルデの東区画で仕立て屋を営んでいる。連れてきたのは黒い猫の魔獣だった。体長は普通の猫より一回り大きく、左の前脚が不自然に曲がっている。古い骨折が治りきらなかったのだろう。毛並みは手入れされているが、目つきが鋭い。人間を警戒する目だ。
「この子はもともとテイマーに管理されていた個体です」
マグダはそう言って、猫の背中にそっと手を置いた。猫は身を強張らせたが、逃げなかった。
「三年前にテイマーが廃業して、路地に放されたそうです。私の店の裏に住みついて。最初は近づくと威嚇されました。半年かけて、やっと触らせてくれるようになって」
「テイム紋は」
「消えています。テイマーギルドで確認してもらいました。紋が消えた元テイム獣は、制度上どこにも属さない。野良と同じ扱いです。でもこの子は野良じゃない。私の家族です」
頷いた。恩義契約はこういう関係のためにある。
「猫の名前は」
「ナハト。夜の色だから」
ナハトに視線を向けた。ナハトが俺を見返す。警戒はしている。だが敵意はない。三年間、マグダの店の裏で少しずつ人間を信じ直した目だった。
恩義契約の手順に入る。ナハトの前に手を差し出す。純粋な善意で、助けるという意思を向ける。ナハトの目がわずかに揺れた。
その時、ソファの端で気配が動いた。
クロが起き上がっていた。ソファに座ったまま、真っ直ぐにナハトを見ている。いつものぶっきらぼうな無表情ではなかった。目が開いている。はっきりと。
「……あんた」
クロがマグダに声をかけた。マグダが振り向く。
「左脚。いつ折れた」
「え……テイマーに管理されていた頃だと聞いています。詳しいことは」
「殴られたんだろ」
居間の空気が止まった。クロの声は低く、平坦だった。断定だった。
「骨の曲がり方。上から叩かれた時にああなる。知ってる」
クロの右耳——傷跡が走る方の耳が、微かに伏せられた。俺は何も言わなかった。クロが自分から話すことは滅多にない。ましてこういう話を。
「……治ってないな。芯が残ってる。冬に痛むだろ」
マグダが小さく頷いた。
「寒い日は歩きたがらなくて」
「そりゃそうだ」
クロはソファから降りた。床に膝をつき、ナハトの正面にしゃがんだ。ナハトが身構える。毛が逆立ち、低い唸りが漏れた。警戒。当然だ。見知らぬ相手に急に近づかれれば。
クロは動かなかった。しゃがんだまま、手を膝の上に置いて、ナハトの目を見ていた。
「……怖いよな」
声が、さっきまでと違った。柔らかいのではない。ただ、力が抜けていた。
「殴られたら怖い。捨てられたら怖い。次に触ってくる手が優しいかどうか、わかんないから怖い。それは普通だ」
ナハトの唸りが小さくなった。
「あたしも同じだったから」
クロが右手を差し出した。掌を上に向けて、ナハトの鼻先の少し手前で止めた。届く距離ではない。ナハトが自分から近づかなければ届かない距離。
俺はその距離を知っていた。
あの日。市場裏の路地で、骨折した黒猫が木箱の隙間に蹲っていた。俺が手を伸ばしたら爪で引っ掻かれた。だから無理に触らず、干し肉だけ置いて離れた。翌朝には肉がなくなっていた。三日目の夜、宿のベッドで目を覚ましたら、黒猫が俺の手を枕にして眠っていた。
あの時、俺は手を伸ばさなかった。手を置いて、離れて、待った。クロが自分で来るのを待った。三日間。
今、クロが同じことをしている。手を差し出して、届かない距離で止めて、待っている。
ナハトが動かない。
十秒。二十秒。三十秒。
居間に音がない。マグダが息を詰めている。リノが受付の窓口から身を乗り出して見ている。
四十二秒。
ナハトが、一歩だけ前に出た。曲がった左脚を庇いながら。鼻先がクロの指に触れた。冷たく湿った鼻。
クロの指が微かに震えた。
「……よし」
それだけ言って、クロは手を引いた。立ち上がり、ソファに戻り、また丸くなった。まるで何事もなかったように。
だが耳の角度が違った。さっきまで伏せていた右耳が、ほんの少しだけ立っていた。
俺はナハトに改めて手を向けた。恩刻の光が淡く灯る。ナハトの目が揺れ、やがて落ち着いた。テイム紋ではない。上書きでも支配でもない。ただ「ここにいていい」という事実が刻まれる光。
契約が成立した。
リノが契約書に日付と名前を記入する。恩義契約ギルド第二号。申請者マグダ、契約対象ナハト、種別猫型魔獣。備考欄にクロが仲介と書こうとして、やめた。クロは嫌がる。
「ありがとうございます」
マグダが頭を下げた。ナハトを抱き上げると、ナハトは初めて身を強張らせなかった。マグダの腕の中で、曲がった左脚をそっと折りたたんだ。
二人が帰った後、ソファに目を向けた。
「クロ」
「……なに」
「よくやった」
「別に。あたしは何もしてない」
「手を伸ばした」
「……うるさい」
クロが毛布を頭まで引き上げた。会話は終わった。
だが俺は気づいていた。市場裏であの黒猫を保護した時、俺は手を置いて離れた。クロが自分で来るのを待った。三日かかった。
今日、クロは同じことをやった。ナハトの前に手を差し出して、届かない距離で止めて、待った。四十二秒。ナハトが自分で一歩を踏み出すまで、動かなかった。
それは、俺が教えたことではない。恩刻が教えたことでもない。クロが、自分で覚えたことだ。
誰かに手を差し伸べられて救われた者が、次は自分が手を差し出す側になる。しかも相手の意思を待てる側になる。
猫は二度、手を伸ばす。一度目は、差し出された手に触れるために。二度目は、自分の手を差し出すために。
*
夕刻。
リノが日報をまとめている最中に、伝書鳥が三羽続けて到着した。南方の街からの瘴獣被害報告が二件。西の村からの異常目撃が一件。先週は合計三件だった。今週はまだ三日目で、すでに五件。
リノが地図に赤い印をつけた。ゼノの赤印と合わせると、エルデを中心に、南と西の点が明らかに増えている。
「ギルド長」
リノが居間に顔を出した。
「報告件数が先週の倍のペースです」
頷いた。
「ゼノに共有しておいてくれ」
「はい。……それと」
リノが一瞬、言い淀んだ。
「南方からの報告に、妙な記述があります。瘴獣が街道を避けて、森を迂回しているそうです。まるで——」
「目的地がある、みたいにか」
「はい」
窓の外を見た。西の空が夕焼けで赤い。その赤の下の方に、ほんの僅かだが紫がかった色が混じっている。気のせいかもしれない。だが先週は、なかった色だ。
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