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追放されたスキルなしの荷物持ち、助けた魔獣が美少女になったんだが愛が激重で誰も離してくれない  作者: 他力本願寺


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第56話 「竜の検診と狐の姉」

月に一度の測定日は、アカが最も不機嫌になる日だった。


 書庫の奥、ゼノが占拠している机の周囲には古文書と計測器具が山積みになっている。その中央に丸椅子が一脚置かれ、アカが腕を組んで座っていた。白い寝間着のまま、髪は下ろしたまま、角の付け根あたりを不機嫌そうに掻いている。


「ゼノ。早くせい」


「はいはい。動かないでね、アカ君」


 ゼノが水晶板をアカの胸の前にかざした。フィンが遺した測定器具を改良したもので、魔核の形状と密度を光の屈折で読み取る。水晶板の表面に淡い赤の紋様が浮かび上がった。ゼノが前回の測定結果の紙を横に並べて、目を細めた。


「ハル君」


 ゼノが呼んだ。俺は書庫の入口に立っていた。アカが測定中に暴れた場合の抑え役だが、今のところ出番はない。


「竜核の成長率、前回比で〇・三パーセント進行している」


「多いのか」


「少ない。極めて少ない。本来の竜の成長周期から見れば誤差に近い。ただし——」


 ゼノが水晶板を傾けた。赤い紋様の外縁に、薄い紫の滲みがある。


「この紫は先月にはなかった。瘴気の影響を受けている可能性がある」


 アカの耳が動いた。角の付け根の鱗が微かに浮き上がる。不機嫌なのか、不安なのか。アカの場合、どちらも同じ顔をする。


「妾の体じゃ。妾が一番わかっておる」


「うん。だから聞くけど、最近どう?」


 ゼノの問いかけは軽い。だがアカは答えなかった。腕を組んだまま、壁の一点を睨んでいる。


「……風呂で、湯が温い」


「温度が足りない?」


「逆じゃ。熱い湯に浸かっておるのに、温く感じる。以前はそんなことなかった」


 ゼノがノートに書き留めた。竜の体温調節機能の変化。成長に伴う基礎体温の上昇を示す兆候。〇・三パーセントの数字が持つ意味が、少しだけ重くなった。


「恩刻の抑制は安定しているから、急激な変化は起きない。ただ、測定は続けよう。それと——」


 ゼノが俺に目を向けた。


「ブレスの使用後に体温を測る習慣をつけてほしい。三発制限は維持。それから、恩刻の反応も記録したい。ハル君、次にアカ君がブレスを使った後、額に手を当てて恩刻の光を確認してくれるかな」


「わかった」


「ぬしが妾の額に触れるのか」


 アカの声の調子が変わった。不機嫌が消えている。


「測定のためだ」


「そうか。測定か。ならば仕方あるまい」


 アカが髪をかき上げ、額を見せた。必要以上に顎を上げている。ゼノが小さく咳払いをした。


「はい、今日の測定はおしまい。次は来月の同じ日ね」


 アカが椅子から降りた。書庫の出口で一度だけ振り返った。


「〇・三パーセントは、止められるのか」


 ゼノは嘘をつかなかった。


「止められない。竜の成長は不可逆だと、フィン君のノートにも書いてある。ただ、遅くすることはできる。恩刻が安定している限り、進行速度は本来の十分の一以下に抑えられている。だから——」


「だから、ぬしの傍におれと。そう言いたいのじゃろう」


 アカはゼノではなく、俺を見ていた。


「言わなくても傍にいる」


 そう答えると、アカは鼻を鳴らして出ていった。角の付け根の鱗は、もう伏せていた。



   *



 午後。


 キサの姉が保護室にいる冒険者ギルドに向かった。キサと二人で。


 週末ごとにキサが面会に通い、ツルが毎日風の浄化を当てている。テイム紋は消えたが、三十年間の残滓が魔核の周囲に薄く滞留していた。ツルの風が少しずつ洗い流し、回復は着実に進んでいる。


 保護室は二階の奥。小さな窓からは通りが見える。ベッドと机。ツルが毎朝替えている花が一輪、机の上の水差しに挿してあった。


 白い髪の女が窓際の椅子に座っていた。金色の瞳がこちらを向いた。焦点が合っている。以前は時折ぼやけていた視線が、今日ははっきりしていた。


「キサ。それと——」


 俺を見た。


「ハルさま」


 呼ばれた。先月の面会では俺の名前が出てこなかった。今日は出た。


「よろしくお願いします」


 キサが姉の隣に座った。帳簿は持っていない。今日は鞄も置いてきた。


 姉の顔色は以前より良かった。頬に薄く赤みが差している。首元の鎖の痕は消えないが、その上から白い衣の襟が丁寧に当てられていた。ツルが縫った襟当てだ。


「最近は夜、眠れますの?」


「うん。風のおかげかな。あの白い髪の方——ツルさん。毎日来てくださる」


「ツルさんの風は特別ですわ。瘴気だけでなく、心も洗ってくださる」


 姉が微かに笑った。口元だけではない。目も笑っていた。三十年間テイムの光に覆われていた金色の瞳が、自分の感情で動いている。


「キサ」


「はい」


「あの頃の森を、思い出すの」


 キサの手が止まった。


「秋になると木の実がたくさん落ちて。キサはいつも一番に拾って、全部食べて——お腹を壊して」


「覚えていらっしゃるのですね」


 キサの声が少しだけ高くなっていた。


「少しずつ。霧が晴れるように。昨日は泉の場所を思い出した。冷たい水が湧いていて、夏はそこで尾を洗った」


「九本全部を洗うのに半日かかりましたわ。姉さまはいつも途中で飽きて——」


「飽きてない。乾かすのが面倒だっただけ」


 姉妹の会話だった。三十年の空白が、こういう断片で少しずつ埋まっていく。計算では測れない速度で。


 姉が窓の外を見た。


 通りの向こうに、エルデの屋根が並んでいる。保護室の窓からは空と屋根しか見えない。だが姉の目は、もっと遠くを見ていた。


「外を歩きたい」


「……姉さま」


「あの庭を。ハルさまの家の。前に食事に行った時、庭で銀色の子と橙色の狼が並んで歩いていた。あの庭を、歩きたい」


 ギンとヒノだ。ギンがヒノのペースに合わせてゆっくり歩く、あの日課の散歩を見ていたのか。


「もう少し回復されたら、毎日あの庭を歩けるようになりますわ。ゼノさまが許可を出してくださるはずです」


「うん」


 姉が頷いた。それから、俺の方を見た。


「ハルさま。一つ、お伝えしたいことが」


「何だ」


「名前を、決めました」


 キサの九尾のうち一本が、ぴくりと揺れた。


「……姉さまが、ご自分で?」


「ずっと考えていたの。番号ではない、自分の名前を」


 白い髪の女が、両手で膝の上の白い衣の裾を握った。三十年間、誰にも名前を呼ばれなかった指が、自分の名前を口にする準備をしている。


「シロ」


 キサが息を呑んだ。


「……白、ですか」


「ええ。わたしの髪の色。テイムされる前も、白かったでしょう。あなたが覚えているかはわからないけれど」


「覚えていますわ」


 キサの声が、ほんの少しだけ震えた。計算では出ない振動だった。


「幼い頃、姉さまの尻尾に顔を埋めるのが好きでした。白くて、温かくて。あの色は、覚えています」


「なら、それでいいわ。難しい名前はいらない。覚えやすくて、あなたが呼びやすい名前がいい」


 シロ。


 キサが声に出した。一度。それから、もう一度。


「シロ姉さま」


 シロが笑った。三十年間、誰にも呼ばれなかった名前を、妹が二度呼んだ。


「大きくなったわね、キサ」


 前にも同じ言葉を聞いた。テイムが解けた直後、意識が戻った時の最初の言葉。だが今度は声に力があった。自分の名前を持った者の声だった。


 キサは泣かなかった。


 再会の日に使い切ったのだと思った。代わりにキサの九尾が全て静かに伏せられた。安堵の姿勢。妖狐が最も無防備になる時の形。



   *



 拠点に戻ると、アカが居間にいた。寝間着から着替え、いつもの古風な衣を纏っている。シロの話を切り出す前に、アカが先に口を開いた。


「おぬし、名前が決まったか」


 保護室に行ったことを知っていたらしい。キサが出かける時に聞いたのだろう。


「はい。シロです」


 キサが答えた。


「白か。安直じゃのう」


「アカに言われたくないわ」


 居間が止まった。


 シロの声に聞こえた——でも間違いなくキサだ。口調が姉に寄っていた。姉の軽口を、無意識に真似ている。


 一拍遅れて、キサ自身が目を見開いた。


「……失礼。姉の口癖が移りましたわ」


 アカが三秒ほど固まった後、鼻から小さな煙を吐いた。


「……言うようになったのう」


「三十年も黙っていましたから、言いたいことが溜まっているのでしょう」


 キサの声は穏やかだったが、口元が緩んでいた。帳簿を取り出し、何かを書き込んだ。聞こえるか聞こえないかの声で「姉さまの勝ちですわ」と呟いた。




   *



 夜。


 全員が寝静まった後、書庫に灯りが漏れていた。


 ゼノだった。壁に貼った地図の前に立って、赤いインクの瓶を手にしている。今日届いた報告書の束が机に積まれていた。


 俺が入ると、ゼノは振り返らずに言った。


「今週の瘴獣異常報告、七件だ」


「先週は」


「二件だった」


 三倍以上。先週の時点で「先週比の倍」だったものが、さらに跳ね上がっている。


 ゼノが地図に新しい赤い点を打った。南に二つ。西に三つ。北東に二つ。エルデを中心に、全方位に散らばっている。先月までは北東に偏っていた分布が、明らかに広がっていた。


「加速しているな」


「ああ。瘴獣の発生頻度だけじゃない。知性化の兆候も増えている。南の街から届いた報告では、瘴獣が三体で連携して農地の柵を迂回したとある。先日のハイルンの陣形ほどではないが、単独で行動する従来の瘴獣とは明らかに違う」


 ゼノが赤い点を指でなぞった。点と点を結ぶと、エルデを囲む弧が浮かび上がる。


「今日のアカ君の測定結果にも出ていた。紫の滲み。あれは外部の瘴気が魔核に微弱な干渉を始めた証拠だ。アカ君だけじゃない。恩刻を持つ全ての魔獣に、程度の差こそあれ影響が出ている可能性がある」


「ヒノの悪夢も」


「それもだ。テイム残滓だけが原因なら、回復に伴って悪夢は減るはずだ。減っていないなら、外部からの瘴気干渉が上乗せされている」


 ゼノがインクの瓶を机に置いた。指先が赤く染まっている。地図の上の赤い点が、書庫の蝋燭の光でぼんやり光っていた。


「フィン君が書き残した通りだ。恩刻が広がれば、あちらも反応する。恩義契約ギルドが軌道に乗り、契約が増え、恩刻の総量が上がるほど——」


 ゼノが言葉を切った。窓の外を見た。夜のエルデ。街灯の光。静かな夜だ。


「——眠りが浅くなる」


 俺も窓の外を見た。南東の空。星が出ている。だがその星の下の方、地平線に近い場所に、先週はなかった紫の薄い帯が横たわっていた。


 気のせいだと思いたかった。だがもう、気のせいではない。



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