第54話 「ギンの子守唄」
夜中に目が覚めた。
物音ではなかった。庭の方から、低い唸り声が届いている。獣の声だ。だが瘴獣ではない。瘴獣の声には硫黄の臭いが混じる。これは——ヒノだ。
窓を開けた。月明かりの庭。厩舎跡の軒下で、橙色の影がのたうっていた。
ヒノが暴れている。
眠ったまま脚をばたつかせ、喉の奥から苦しそうな唸り声を上げている。悪夢だ。ゼノが言っていた。テイム残滓が魔核に残っている間、眠りの中で過去の記憶がフラッシュバックすることがあると。
レクスの下でテイムされていた頃の記憶。命令に従わなければ制御紋が魔核を締めつけ、痛みが走った記憶。
部屋を出ようとした。廊下に出て、階段を三段降りたところで気づいた。
庭に、銀色の影がいた。
ギンだった。
いつの間に降りたのか。俺の部屋の前で丸くなって寝ていたはずのギンが、もう庭にいた。銀の耳と尻尾が月光に白く光っている。
厩舎跡の軒下。ヒノの横に座っていた。
ヒノの頭を、自分の膝の上に乗せている。
そして喉の奥で低く唸っていた。
威嚇の唸りではない。もっと細く、もっと柔らかい振動。喉と胸を使って出す、狼特有の音。母狼が仔を落ち着かせる時に出す音に似ている。前世の動物番組で聞いたことがある。
子守唄だ。
言葉ではない。旋律でもない。ただの振動。だがヒノの脚のばたつきが、少しずつ弱まっていく。喉の苦しそうな唸りが、徐々に小さくなる。
俺は階段の途中で足を止めた。降りなかった。
ギンの横顔が見えた。金色の目が開いている。ヒノを見下ろしている。いつもの甘えた目ではなかった。もっと静かな目。守っている目だ。
ギンの手がヒノの首筋を撫でていた。銀の爪は引っ込んでいる。柔らかい指先だけで、橙色の毛並みをゆっくりと梳いている。ヒノの耳の横、左耳の付け根にある古い火傷の痕を避けて、その周囲を丁寧に撫でる。傷の場所を知っている。毎日隣を歩いているから、体のどこに傷があるか覚えているのだ。
ギンの銀の尻尾がヒノの体に巻きついていた。温めるように。包むように。
ヒノの震えが止まった。
脚のばたつきが収まり、唸り声が消え、呼吸が穏やかになった。眠りに戻ったのだ。今度は悪夢ではなく、ただの眠り。
ギンの唸りも止まった。膝の上のヒノを見下ろして、一度だけ尻尾を揺らした。
それから、ギンがこちらを見た。
月明かりの中で、金色の目と目が合った。
「……ぬしさま、起きてたの」
小声だった。ヒノを起こさないように。
「もう大丈夫そうだから戻る」
「うん」
「ギン。いつから横で寝てたんだ」
「三日前から」
三日前。最近ギンが俺の部屋の前ではなく、もっと早い時間に姿を消すことがあった。てっきり自室で寝ていると思っていた。厩舎跡にいたのだ。
「ヒノ、夜に暴れるの。毎日じゃないけど、二日に一回くらい。ギンの耳には聞こえるの。部屋にいても」
「なぜ言わなかった」
「だってぬしさま、言ったら心配するでしょ。心配したら段取り増やすでしょ。段取り増やしたら寝る時間減るでしょ。ぬしさまの寝る時間が減ったら、ギンが怒る」
完璧な論理展開だった。ギンの論理は時々、俺より精度が高い。
「だからギンが行くことにしたの。ギンはぬしさまの隣で寝たいけど、ヒノが一人で怖い思いしてるのはもっと嫌。ぬしさまに助けてもらった時、ギンも一人で怖かったから。あの夜、ぬしさまが隣で寝てくれたから大丈夫だったの。だからギンが、ヒノの隣にいる」
ギンの声は静かだった。いつもの勢いがない。代わりに、芯がある。甘えたがりの銀狼が、守る側の言葉を使っていた。
「ギンにもできること、あるよね?」
金色の目がまっすぐこちらを向いている。月光で瞳の中が透けて見えた。不安はある。でもそれより大きなものが座っていた。
「お前にしかできないことだ」
ギンの目が大きくなった。
泣きそうな顔。唇が震えかけた。だがこらえた。ぎゅっと唇を引き結んで、一度だけ大きく頷いた。
「……うん。ギンが守る。ヒノのこと、ギンが」
泣かなかった。守る側は泣かない。ギンは自分でそう決めたのだ。いつ決めたかは分からない。だが確かに決めていた。その決意が、月光の下で金色に光っていた。
俺は階段を上がった。部屋に戻った。窓から庭を見下ろすと、厩舎跡の軒下で銀色の影が橙色の影に寄り添って丸くなっていた。二匹の獣が並んで眠っている。片方は最強クラスのフェンリルの血統。もう片方はテイム残滓で力が三割しか出ない炎狼。
速さも力も桁違い。だがギンはヒノのペースに合わせる。庭を歩く時も、眠る時も。
追い越さない。急かさない。ただ隣にいる。
そういう優しさが、ギンにはある。
*
翌朝。
台所に降りると、ツルが朝食の支度を始めていた。いつもの粥と焼き魚。竈の前で白い髪が揺れている。
だが竈の横に、もう一つの影があった。
ギンだ。
まな板の前に立っている。手に包丁。その前に鶏肉の塊。ヒノの分の食事を自分で用意しようとしている。
「ギン、何してる」
「ヒノのごはん。ギンが作る」
包丁が鶏肉に入った。ぐにゃりと刃が滑って、肉が潰れた。切れていない。
「……あれ」
もう一度。力を入れすぎて、まな板に刃が食い込んだ。肉は千切れたが、断面がボロボロだ。
「ギン、包丁向いてないわよ」
クロがリビングから顔を出した。いつの間にかソファから起き上がっていた。
「うるさい! ギンだってできる! 練習する!」
「練習はいいけど、まな板が死んでる」
確かにまな板に深い切り込みが三本入っていた。
ツルが横に立った。ギンの手に自分の手を添えて、包丁の角度を直す。
「ギンさん。包丁は押すのではなく引くのですよ。こう——すっと手前に引きながら切ると、きれいに切れます」
「引く? ギンはいつも押してた」
「爪で斬る時は押しますものね。包丁は逆です」
ツルの手がギンの手を導いて、肉にゆっくりと刃を入れた。今度はきれいに切れた。断面が滑らかだ。
「できた!」
「上手ですよ、ギンさん」
「もう一回やる!」
五切れ目で安定してきた。七切れ目で均等な大きさに揃い始めた。ギンの手は不器用だが、一度コツを掴むと速い。狼の反射神経が包丁にも活きるらしい。
「切った肉はお鍋に入れてくださいね。弱火で柔らかく煮ます。ヒノさんはまだ硬いものが食べにくいので」
「うん。柔らかくする。ヒノが食べやすいように」
ギンが鍋に肉を入れていく。一切れずつ、丁寧に。瘴獣を一撃で裂く爪を持つ手が、鶏肉を一切れずつ鍋に沈めている。
俺は食卓に座って見ていた。
アカが階段を降りてきた。
「何じゃ、朝から騒がしい。……ギンが包丁を持っておる。危険じゃ」
「危険じゃないもん! ツルさんに教わった!」
「そなたが刃物を持つと万物が焦げるか壊れるかのどちらかじゃ」
「それはアカでしょ! ギンは焦がさない!」
「妾は的以外焦がしておらぬ!」
「シーツ焦がしたでしょ」
「あれは事故じゃ!」
ツルが無言で二人の間に立って、鍋の火加減を調整した。争いを止めるのではなく、争いの火種が鍋に飛ばないようにする。後方支援の鑑だ。
キサが二階から帳簿を抱えて降りてきた。
「朝から賑やかですわね」
「ギンがヒノの飯を自分で作ろうとしている」
「まあ」
キサの金色の目がギンを見た。包丁を握ってまな板に向かう銀髪の少女。不器用だが真剣だ。
「……いいですわね。誰かのために料理を作るのは」
キサの声は穏やかだった。帳簿を机に置いて、食卓に座った。普段なら帳簿を開くが、今朝は開かない。ギンの手元を見ている。
クロがソファから完全に起き上がって、食卓に来た。いつもの左隣。
「……犬が料理してる」
「狼だよ!」
「どっちでもいいけど、まな板は弁償しなさいよ」
「ぬしさまに頼む!」
「自分で弁償しろ」
俺が言った。ギンが頬を膨らませた。だがすぐに鍋に向き直って、煮込みの様子を確認している。
しばらくして、ギンが小さな器に煮込み肉を盛った。湯気が立っている。柔らかく煮た鶏肉と根菜。ツルの指導の味付け。ギンの手切り。
庭に出て、厩舎跡の前にしゃがんだ。ヒノが丸くなっている。朝日が橙色の毛に当たって光っている。昨夜の悪夢の跡は見えない。
「ヒノ、朝ごはん。ギンが作ったの」
ヒノが鼻を動かした。匂いを嗅いで、顔を器に近づけた。
一口食べた。
尾が揺れた。大きく。昨日までの弱々しい揺れ方ではない。嬉しい時の揺れ方だ。
「食べた! ぬしさまー! ヒノが食べた! ギンの作ったの食べた!」
ギンが庭の反対側まで声を飛ばした。銀の尻尾がちぎれそうなほど振れている。
「聞こえてる。朝から近所迷惑だ」
「だって嬉しいんだもん!」
嬉しいのだ。自分が作ったものを、誰かが食べてくれるのが。
ギンは助けてもらう側だった。俺に助けられ、俺の隣にいて、俺に守られてきた。それが今、自分の手で誰かを守っている。包丁は下手だ。煮込みの味はツルの半分だ。でも「自分で作って、自分で運んで、食べてもらった」という事実が、ギンの中で何かを変えている。
食卓に全員が揃った。ツルの粥と焼き魚。ギンが切った鶏肉の煮込みが一皿だけ追加されている。
「ギンさんの煮込み、一口いかがですか」
ツルが全員に勧めた。ギンが照れている。耳が伏せて、尻尾が小さく揺れている。
一口食べた。
……悪くない。ツルの三割の味だが、鶏肉の切り方に不揃いがあって、大きい塊と小さい塊で火の通りが違う。大きい塊の方が歯ごたえがあって、噛むと肉の味が出る。偶然の産物だが、偶然にしてはうまい。
「お世辞抜きで、悪くない」
「ほんと!?」
「ほんとだ」
ギンの尻尾が爆発した。銀色の毛が膨らんで、隣のクロの肩に当たった。
「邪魔」
「ごめん! でも嬉しい!」
「分かったから尻尾をこっちに向けないで」
アカが煮込みを一口食べて、腕を組んだ。
「……まあ、食えなくはないのう」
角の根元が赤い。おいしいのだ。素直に言わないだけだ。
キサが煮込みを一口食べて、微笑んだ。仮面ではない笑み。
「素朴ですが、心がこもっていますわね」
クロが二口目を食べた。感想は言わなかった。だが三口目も食べた。それが答えだ。
食卓が騒がしかった。六人と一頭。いつもの朝。
*
夜。
ゼノが書庫から顔を出した。夕食の茶菓子を受け取りに来たのかと思ったが、表情が違った。
「ハル君。少しいいかな?」
書庫に入った。ゼノが机の上に測定器具を広げていた。ヒノの魔核の定期チェック用の道具と、別のもの——瘴気濃度の測定器。
「ヒノの悪夢の件だが、テイム残滓だけが原因とは限らない」
「どういう意味だ」
「テイム残滓は魔核に張り付いた膜のようなものだ。通常、膜は少しずつ薄くなっていく。ツルさんの風の浄化も効いている。だが昨夜、ヒノが暴れた。三日前にも暴れたとギンさんから聞いた。残滓が薄くなっているなら、悪夢の頻度は下がるはずだ。上がっているなら、別の原因がある」
ゼノが瘴気濃度の測定器を指した。
「エルデ周辺の瘴気濃度を、一週間前と今日で比較した。微増だ。数値にして三パーセント。通常の季節変動の範囲内と言えば言えるが、方角に偏りがある」
「北東か」
「南東も含む。瘴気の分布が広がっている。以前は北東に偏っていたが、今はエルデの南東方向にも薄く広がり始めている。瘴気の濃度が上がると、魔獣の魔核が微妙に不安定になる。ヒノのようにテイム残滓を抱えた個体は特に影響を受けやすい」
「ヒノの悪夢は、瘴気のせいか」
「断定はできない。だが可能性は高い。そしてもう一つ——」
ゼノが地図を広げた。赤い印の地図。先日から印が増え続けている。
「ギンが夜中にヒノの横で眠っていて、悪夢を鎮めた。あれは偶然ではないかもしれない。恩義契約を結んだ魔獣は恩刻を持つ。恩刻は魔核の深層に刻まれる。恩刻を持つ魔獣が近くにいると、不安定な魔核が僅かに安定するという仮説がある。フィンのノートに断片的な記述がある」
「ギンが隣にいることで、ヒノの魔核が安定した」
「仮説だ。証明はまだできない。だが——悪いことではないだろう」
ゼノが眼鏡を押し上げた。偏屈な学者の顔の下で、僅かに口元が緩んでいた。
「ギンは本能的にそれを感じ取ったのかもしれないな。理屈ではなく、隣にいることがヒノを守ると」
庭の方を見た。窓の外、厩舎跡の軒下に二つの影が並んでいる。銀と橙。今夜もギンはヒノの横で眠るのだろう。
「段取りの鬼に一つ助言だ」
「何だ」
「ギンに任せておけ。あの子は君が思っている以上に強い。そして優しい」
「……知ってる」
「知っているなら、木板に書かなくていい。書かなくても機能している関係は、一番強い」
ゼノが茶碗を手に取った。冷めた茶を一口飲んで、ノートに向き直った。
書庫を出た。廊下を歩いて、庭に面した窓から外を見た。
月明かりの下。銀色の影が橙色の影に寄り添っている。ギンの尻尾がヒノの体に巻きついている。二つの影が、静かに呼吸を合わせている。
木板には書かない。
書かなくても、ギンはそこにいる。
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