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追放されたスキルなしの荷物持ち、助けた魔獣が美少女になったんだが愛が激重で誰も離してくれない  作者: 他力本願寺


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第53話 「フィンの警告」

ゼノが居間に降りてきたのは、夕食後の茶の時間だった。


 珍しいことだった。ゼノは書庫の住人で、居間に顔を出すのはツルが茶と菓子を出す時だけだ。それ以外は棚と紙とインクの向こう側にいる。


 だが今夜は違った。ゼノの手にはフィンのノートがあった。付箋だらけの革装のノート。そしてもう一冊、三百年前の古文書。表紙に「恩」の文字が刻まれた、あの一冊。


 全員が居間にいた。夕食を終えて、それぞれの場所でくつろいでいた時間だ。ギンが暖炉の前で丸くなり、クロがソファの端に座り、ツルが茶を淹れ直し、アカが椅子の上で正座し、キサが帳簿を閉じたところだった。リノは事務局長として拠点に通っている。今日は遅くまで残って書類を整理していた。


 ゼノが全員を見回した。眼鏡の奥の目がいつもより鋭い。偏屈な学者の顔ではなく、二十年以上の研究を一つの結論に集約した人間の顔だった。


「全員に聞いてもらいたい話がある。長くなる」


 俺は椅子を引いた。ゼノ用の茶をツルが追加で淹れた。ゼノはそれを受け取って一口飲み、ノートをテーブルの上に開いた。


「先日の討伐で回収した瘴核の分析が終わった。結果は予想通り——いや、予想以上に深刻だった。瘴核に残っていた脈動の発信源は北東。方角だけでなく、距離も推定できた。エルデから北東に五日。深層の森の最奥部」


 キサが帳簿を膝に置いた。金色の目が細くなる。


「人の住んでいない未開域ですわね」


「ああ。人が近づかない理由がある。瘴気の濃度が常時高い区域だ。冒険者ギルドの地図では『立入禁止』と記されている」


 ゼノがノートの頁を開いた。フィンの細かい文字。その横にゼノの注釈が赤いインクで書き加えられている。


「フィンはこの場所を知っていた。研究の途中で辿り着いたが、現地調査に行く前に——」


 言葉を切った。一拍の間。


「病で亡くなった。だがノートには、調査に行くつもりだったことが書かれている。そして、そこに何があるのかについての仮説も」


 ゼノがノートを指した。フィンの筆跡で書かれた一節を、声に出して読み上げた。


「『北東の深層の森。瘴気の濃度が異常に高い区域の中心に、瘴気の発生源があると推測する。この発生源は自然現象ではない。意思を持つ。古文書の記述と照合した結果、これは大断絶戦争の遺物——恩讐の王と呼ばれる存在である可能性が高い』」


 居間が静まった。


 ギンが体を起こした。銀の耳がぴんと立っている。


「おんしゅう……の、おう?」


「恩讐の王。恩義を裏切られた者たちの怨念が凝縮した存在だ」


 ゼノが古文書を開いた。三百年前の文字。古代共通語で書かれた頁を、ゼノが現代語に訳しながら読む。


「太古、この世界には恩刻を基盤にした共存の時代があった。人間と魔獣が恩義の法則で繋がり、互いの意思を尊重して暮らしていた。ハル君たちが今やっていることの、大規模な先例だ」


「その時代が終わった理由は」


「人間が恩義を悪用した」


 ゼノの声が低くなった。


「当時の人間の王が、恩義の法則を兵器利用の手段にした。救ったふりをして恩刻を刻み、恩義を盾にして魔獣を戦争に駆り出した。恩義の法則は行動を強制しない。だが恩を忘れられなくする。忘れられない恩を利用して『お前を救った。だから戦え』と。断れない善意の鎖だ」


 キサの手が止まっていた。帳簿を握る指が白くなっている。三十年間、姉がテイムの鎖に繋がれていたことと重なったのかもしれない。


「裏切られた魔獣たちの怒りと悲しみは、やがて限界を超えた。恩が反転した。感謝が怨嗟に変わった。消えない恩が、消えない恨みに。その怨念が一つに凝縮して意思を持った。それが恩讐の王だ」


「瘴気の根源」


「ああ。恩讐の王が生まれた瞬間から、この世界に瘴気が存在し始めた。瘴獣は恩讐の王の怨念が具現化したものだ。王が眠っている間は瘴獣の発生は散発的だが、王が目覚めれば——」


 ゼノが言葉を切った。古文書の一節を指した。


「『王が覚醒すれば、瘴気は大地を覆い、瘴獣は知性を持ち軍勢となる。いかなる武力も王を滅ぼせない。王は怨念そのものであり、物理的な存在ではないからだ。王を鎮めるには、裏切られた恩義を癒す以外に道はない』」


 沈黙が落ちた。


 先日の討伐で見た瘴獣の陣形。学習する群れ。脈動する瘴核。全てが繋がった。恩讐の王が目覚めかけている。瘴獣に知性が宿り始めたのは、王の意思が瘴気を通じて流れ始めたからだ。


「ゼノ先生」


 リノが声を上げた。事務局長の声ではなく、率直に怖がっている声だった。


「恩讐の王が目覚めるきっかけは何ですか。なぜ今なんですか」


「それが問題の核心だ」


 ゼノがフィンのノートの別の頁を開いた。


「恩讐の王は恩刻に反応する。恩刻が存在しない世界——テイム術だけの世界——では、王は深い眠りにある。恩刻の総量がゼロに近ければ、王を刺激するものがない。だが恩刻が再び世界に現れ、増え始めると、王がそれを感知する。眠りが浅くなる」


「恩義契約が広がれば、恩刻の総量が増える」


「そうだ。ハル君がギンを助けた日から、恩刻はこの世界に戻り始めた。ギン、クロ、ツル、アカ、キサ、ヒノ、キサの姉。七つの恩刻。さらに恩義契約ギルドが設立され、猟師のゴルドと鷹のタカが契約した。恩刻が増えるたびに、王の眠りは浅くなる」


 俺の胸の奥を見た。恩刻が灯った場所。ギンの時が一度目、クロが二度目、ツルが三度目、アカが四度目、キサが五度目、ヒノが六度目。キサの姉の時は実験として意図的に起動した。


 全てが恩讐の王を目覚めに近づけていた。


「そしてもう一つ」


 ゼノの声がさらに低くなった。


「もし恩義契約の中で裏切りが一件でも起きれば——恩刻が反転する。反転した恩刻は通常の恩刻よりも遥かに強い。恩が深ければ深いほど、裏切りの衝撃が大きくなる。反転した恩刻は王を覚醒させる触媒になる」


 居間の空気が重くなった。


 ギンが口を開いた。銀の耳が伏せている。


「じゃあ……恩義契約をやめればいいの? 恩刻が増えなければ、王は目覚めないんでしょ?」


 まっすぐな問いだった。ギンらしい。本質を衝く。


「やめない」


 即答した。考える必要がなかった。


「恩義契約は正しい。テイムで縛るのではなく、信頼で繋がる。それが正しいと俺は思ってる。フィンもそう思っていた」


 ゼノがノートを開いた。あの一節。以前ゼノが読み上げてくれた、フィンの言葉。


「『恩刻が広がれば広がるほど、反転の母数も増える。恩義契約が制度化されれば、恩讐の王が目覚める条件が整う可能性がある。——だが、それでも制度化すべきだと私は考える。恐れて止まるより、備えて進む方が正しい』」


 フィンの言葉だ。十年以上前に死んだ学者が、この事態を予見して、それでも進むべきだと書き残した。


「フィンは正しかった。恩義契約は正しかった。だが備えが要る。フィンは備えを完成させる前に死んだ。だから俺たちが備える」


「備えって、何をするの」


 クロが腕を組んだまま聞いた。声は平坦だが、目は真剣だった。


「段取りを組む」


「また段取り」


「段取りしか持ってないんだ、俺は。だがこの段取りは今までで一番大きい。恩讐の王に備える段取りだ。ゼノの研究を全面的に支援する。王を鎮める方法を解明する。武力では倒せないなら、別の手を打つ。裏切られた恩義を癒す方法を見つける」


「見つかるのか」


「分からない。だがやめない」


 アカが椅子の上で拳を握った。


「妾も戦うのじゃ! ブレスで——」


「武力では倒せないと言っただろ」


「じゃあ妾は何をすればよいのじゃ」


「今まで通りだ。依頼をこなし、実績を積み、恩義契約が正しいことを数字で証明し続ける。日常を守る。それが備えの土台だ」


 ツルが茶を配り直していた。八人分。全員に行き渡らせてから、自分の分を最後に注ぐ。いつもの動作。


「ハルさま。わたくしにできることは」


「いつも通り飯を作ってくれ。風で浄化してくれ。それが一番大事だ」


 ツルが微笑んだ。不格好な方の笑み。左の背中は平らなまま。


「かしこまりました」


 キサが帳簿を膝から机に移した。


「情報収集を強化しますわ。各地の瘴獣の発生状況、恩義契約の申請状況、テイマーギルドの動向。全てのデータを集めて、王の目覚めの兆候を早期に捉える体制を作ります」


「頼む」


 リノが手を挙げた。


「事務局として、各地のギルド支部と連絡網を整備します。瘴獣の異常報告を恩義契約ギルドに集約する仕組みを作ります。ゼノ先生の研究に必要な資料の取り寄せも」


「助かる」


 全員の役割が決まった。特別なことは何もない。いつもの仕事を、いつもの精度で続ける。その上に、備えを積む。


 ゼノがノートを閉じた。


「フィンが遺した最後の頁がある。読んでいいかね」


「読んでくれ」


 ゼノがノートの最終頁を開いた。フィンの文字。他の頁より少し乱れている。体調が悪化していた時期に書かれたものだろう。


「『この研究を完成させる時間は、おそらく私にはない。ゼノ先生。もしこのノートがあなたの手に届いたなら、どうか続けてください。人間と魔獣は共に生きられる。恩刻はそのために存在する。恩讐の王が目覚めても、恐れないでほしい。王もまた、救われなかった魔獣だから。——フィン』」


 書庫ではなく、居間で。全員の前で。ゼノがフィンの最後の言葉を読んだ。


 ゼノの声が掠れていた。眼鏡を外した。目頭を押さえなかった。代わりに、天井を見上げた。


「……十年遅れたが、届いたよ。フィン」


 居間に沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。


 その沈黙を破ったのは、リノだった。


「あの、ハルさん。今朝から届いている報告書が——」


 リノが封書の束を持ってきた。赤い縁取りが三通、黄色い縁取りが五通。


「瘴獣の異常発生報告です。今朝の時点でエルデの南から二件、西から三件、北から三件。全方位です」


 キサが封書を受け取り、地図の上に印を打った。先日ゼノが描いた地図に、新しい赤い点が加わっていく。


 エルデを中心に、全方位。北東に偏っていた分布が、広がり始めている。


「包囲されていますわね」


 キサの声は平坦だった。だが九尾の先端が一本だけ震えていた。


 俺は地図を見た。赤い点に囲まれたエルデの街。その中心に、恩義契約ギルドの看板が立っている。


 恐れて止まるより、備えて進む。


 フィンの言葉を胸に刻んで、木板を取り出した。新しい紙を一枚。


 書いた。


『恩讐の王対策——段取り第一版』


 日付を入れて、壁に貼った。空白の紙だ。これから埋めていく。走りながら。





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