第5話「噂と白い翼」
仮承認から十二日が経った。
「ハルさん、同行魔獣の実績報告、十八件目です。事故報告ゼロ、依頼達成率百パーセント」
リノが書類を捲りながら、少し驚いた声を出した。
「このペースなら、三十日を待たずに本承認が出せます。支部長も好意的です」
「助かる。あと十二日で何件必要だ?」
「規定上は二十件で本承認の審査に入れます。あと二件ですね。ただ、前例のないケースなので審査に数日かかるかもしれません」
「なら今週中に二件終わらせて、審査の時間を確保する」
「……本当に、段取りがお好きですね」
「好きじゃない。必要だからやってるだけだ」
リノが小さく笑った。
この受付嬢は最初こそ警戒していたが、実績が積み上がるにつれて対応が柔らかくなっている。
信頼は数字で作る。前世でも今世でも同じだ。
ギルドを出ようとした時、入り口が騒がしくなった。
ボロボロの革鎧を着た男が二人、受付に駆け込んできた。
片方は腕を吊り、もう片方は顔に包帯を巻いている。
「……あれ」
見覚えがあった。
前衛のガルドと、斥候のミラン。
《レクスの牙》のメンバーだ。
「頼む、回復薬を……金ならある……」
ガルドの声が掠れている。
冒険者たちの視線が集まった。
「おい、あいつら《レクスの牙》じゃねぇか? Cランクの」
「ひでぇ有り様だな。何があった」
「聞いたか? レクスのテイム獣が言うこと聞かなくなったらしいぞ」
囁きが広がる。
ガルドが受付で崩れるように座り込んだ。
「……レクスが無理にテイムし直そうとして、炎狼が暴れた。俺たちじゃ止められなかった」
炎狼。レクスの主力テイム獣だ。
あいつが自慢にしていた。
「で、レクスは?」
「分からねぇ。途中ではぐれた。あいつ最近おかしいんだ。テイムの制御が不安定で、獣が怯えてる。前はこんなじゃなかった」
ガルドの目が、ふと俺を捉えた。
「……ハル?」
「久しぶりだな、ガルド」
「お前、なんでここに……」
気まずそうに目を逸らす。
追放の時、ガルドは何も言わなかった。止めも庇いもしなかった。
恨んではいない。だが感謝もしていない。
「お前が抜けてから、パーティーがおかしくなった」
「……」
「レクスのテイム獣が命令を聞かなくなったんだ。お前がいた頃は獣の世話もお前がやってただろ。餌の量とか体調管理とか。あれが全部なくなって、獣がストレスで……」
言葉が途切れた。
俺は何も言わなかった。
荷物持ちの仕事にはテイム獣の飼育管理も含まれていた。
餌の種類と量、体調の変化、ストレスの兆候。前世の保護猫カフェで培った観察力が、あのパーティーでは獣の管理に役立っていた。
それを「いらない」と切り捨てたのはレクスだ。
「主さま」
ギンが袖を引いた。
「あの人たち、主さまを捨てた人?」
「……ああ」
「ギンが怒ってもいい?」
「だめ」
「ちょっとだけ」
「だめ」
「…………ぅー」
クロが壁にもたれて、冷めた目でガルドたちを見ていた。
「ふーん。荷物持ちを捨てたらパーティーが壊れたわけ。ざまあないわね」
「クロ、聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったの」
ギルドを出た。
背後でガルドが何か言いかけたが、振り返らなかった。
*
昼食の後、ギルドの掲示板で一枚の依頼書が目に留まった。
特別依頼。ランク制限なし。
報酬:金貨五百枚。
『霊峰カイラ山中腹にて白い大型鳥の目撃情報あり。聖獣級の可能性。討伐または捕獲。ギルド本部より委託』
「金貨五百枚……」
桁が違う。Eランク依頼百件分だ。
「主さま、これやる?」
「待て。気になることがある」
依頼書の下に小さく書かれた補足を読む。
『対象は白色の大型鳥型生物。全長約三メートル。飛行能力あり。テイマー三名による捕獲を試みるも失敗。攻撃性低し』
「攻撃性が低い。テイムも失敗。抵抗してるんじゃない。逃げてるだけだ」
「だから?」
「瘴獣なら逃げない。意思がないから排除か無視しかしない。逃げるってことは感情がある。つまり――」
「魔獣」
ギンが即座に言った。
「ギンも思った。この紙の上からでも分かる。生きてる獣の気配がする」
「あたしも。瘴獣の感じがしない」
クロが腕を組んで頷いた。
「だが依頼は討伐か捕獲になってる」
「……行くんでしょ、あんた」
クロが半眼で俺を見た。
「その顔、もう決めてる時の顔よ」
「分かるのか」
「猫は人の顔をよく見るの。……別にあんたの顔ばっかり見てるわけじゃないけど」
耳が微妙に赤い。
「行く。ただし目的は討伐じゃない。確認だ。魔獣なら保護する」
「金貨五百枚は?」
「討伐報酬は受け取らない。ただし魔獣だと確認できれば依頼の前提が崩れる。報告書を出してギルドに討伐令の撤回を求める」
「……あんたって本当にお人好しよね」
「お人好しじゃない。段取りだ。魔獣を討伐したらこの街の魔獣同行の仮承認にも影響が出る。俺たちの立場を守るためでもある」
クロの目が少しだけ見開かれた。
「なるほどね。そこまで考えてるわけ」
「荷物持ちの頭は、こういう時に使う」
*
霊峰カイラ。
エルデの街から北東に半日。
標高が上がるにつれて空気が薄くなり、木々の緑が白い霧に溶けていく。
「主さま、匂いがある。血と……羽根の匂い。上の方」
ギンの鼻が空を向いた。
「怪我してる。結構ひどい」
「テイマーに追い回されたんだろうな。翼を傷つけられてる可能性がある」
中腹の岩場に辿り着いた時、それは見えた。
白い翼。
岩棚の窪みに、大きな鳥がうずくまっている。
全身が白。翼の先端だけが淡い虹色に光っている。
鶴だ。ただし普通の鶴の三倍はある。
右の翼が不自然な角度に折れていた。
「……ひどいな」
「テイムの投擲器の傷ね。網の跡もある」
クロが目を細めた。
「捕まえようとして、抵抗した時に折れたんでしょ。やり方が雑すぎる」
白鶴の目がこちらを捉えた。
深い青色の瞳。
恐怖と疲労と、それでもまだ消えていない気高さが宿っている。
瘴獣の目ではない。
生きている。意思がある。
「ギン、クロ。ここで待ってくれ」
「え」
「主さま!?」
「三人で近づくと警戒される。俺一人の方がいい。俺は魔力がゼロだから脅威と認識されにくい」
「でも――」
「ギン」
名前を呼ぶと、銀の耳がぴくりと立った。
「信じてくれ。すぐ戻る」
「……ぜったい。ぜったい戻って」
「ああ」
クロは何も言わなかった。
ただ爪を出していた。いつでも飛び出せるように。
岩場をゆっくり登った。
一歩ずつ、音を立てないように。
手は開いたまま。武器は持たない。
白鶴が身を固くした。
折れた翼が震えている。
「大丈夫だ。痛いだろう。見せてくれるか」
声を低く、穏やかに。
前世でよく行っていた保護猫カフェでパニックになった猫を落ち着かせる時と同じ要領だ。
目を合わせすぎない。体を小さくする。手のひらを見せる。
白鶴の青い瞳が、じっとこちらを見た。
五分。
十分。
白鶴の羽毛が少しだけ寝た。
手を伸ばす。
翼の折れた箇所に触れると、白鶴が小さく鳴いた。
痛みの声だ。
だが逃げなかった。
添え木を当て、包帯を巻く。クロの時と同じ手順。
応急薬を塗り、乾いた布で血を拭う。
携帯食料の魚の干物を差し出すと、しばらく見つめてから、ゆっくりと嘴で受け取った。
「……よし。今はこれで精一杯だ。あとは休め」
立ち上がろうとした時。
白鶴の首が伸びて、俺の手に頬を寄せた。
温かい。
羽毛の下に確かな体温がある。
そして。
胸の奥に、三度目の熱が灯った。
一度目はギンの時。
二度目はクロの時。
三度目の今。
何が起きているのかはまだ分からない。
だがこの熱が悪いものではないことだけは分かっていた。
「主さま! 大丈夫!?」
岩場の下からギンの声が飛んでくる。
「大丈夫だ。この子は魔獣だ。聖獣級の――白鶴」
「……また助けたの」
クロの声は呆れていたが、怒ってはいなかった。
「ギンの時もあたしの時も同じ顔してたわ、あんた」
「どんな顔だ」
「放っておけないって顔。……ちょっとだけ、嫌いじゃない顔」
応急処置を終えて、白鶴の様子を確認した。
呼吸は安定している。添え木も問題ない。
あとは安静にしていれば、翼の骨は繋がるだろう。
「……よし。もうこっちにできることはない。帰ろう」
「え? 連れて帰らないの?」
クロが意外そうな顔をした。
「無理に連れ出したら、テイマーと同じだ。この子が自分で決めればいい」
白鶴の青い瞳がこちらを見ていた。
俺は軽く手を振って、背を向けた。
「怪我が治ったら好きなところに行け。空は広いからな」
白鶴が小さく鳴いた。
返事なのか、別れの声なのかは分からなかった。
山を下りながら、ギンが袖を掴んできた。
「主さま。あの鶴、ぜったい主さまの所へ来るよ」
「根拠は?」
「ギンには分かる。あの目、ギンと同じだった」
「……同じって」
「忘れられない目。助けてくれた人を、もう忘れられない目」
銀の尻尾がきゅっと俺の腰に巻きついた。
「ギンは主さまの最初。それだけは誰にも渡さない」
その声は甘えではなく宣言だった。
*
街に戻ったのは夕方だった。
ギルドに報告書を出す。
霊峰の白い鳥は瘴獣ではなく魔獣であること。攻撃性がなく人間への害がないこと。テイマーの捕獲行為による翼の骨折が確認されたこと。
討伐令の撤回を求める旨を添えた。
「……ハルさん、これ通すの大変ですよ」
リノが眉を下げた。
「金貨五百枚の依頼を潰すことになりますから、本部の心証は良くないです」
「事実を報告するだけだ。判断はギルドがすればいい」
「……はい。私の方でも、聖獣級魔獣の保護に関する前例を調べておきます」
「ありがとう、リノさん」
宿に戻り、遅い夕食を取った。
ギンは疲れたのか、食後すぐに俺の隣で丸くなった。
クロは窓際で毛繕いをしている。いつもの光景だ。
平穏な夜だった。
*
翌朝。
宿の扉を叩く音で目が覚めた。
控えめな、だが芯のある音。
こんこん。こんこん。
「……客? こんな朝早くに」
ギンが右腕にしがみついたまま唸る。
「ぅー……主さま、出なくていい……」
「出るよ。離してくれ」
「やだ」
「ギン」
「……ちょっとだけ、だよ」
腕を引き剥がして扉を開けた。
白い髪の女性が立っていた。
長い白髪が朝の光に透けている。白磁の肌。穏やかな青い瞳。
和服に似た白い衣を纏い、背筋がすっと伸びている。
年の頃は二十代前半に見えるが、纏う空気はもっと深い。
見覚えのある青い瞳だった。
昨日、岩棚の上で俺を見つめていたのと同じ色。
女性は深く、丁寧に頭を下げた。
「――お初にお目にかかります。昨日、山でお命を助けていただきました」
「……あなたは」
「ツル、と申します。白鶴の魔獣でございます」
顔を上げた彼女の微笑みは、完璧だった。
穏やかで、温かくて、一点の曇りもない。
だからこそ、次の言葉に脳が追いつかなかった。
「本日は、嫁入りに参りました」
「…………は?」
「命の恩人にお仕えするのが、わたくしの種族の習わしでございます。どうか、お傍に置いてくださいませ」
背後で二つの気配が同時に立ち上がった。
振り返るまでもない。
「ぬ、主さまっ!? よ、嫁っ!?」
「…………は?」
ギンの金色の目が限界まで見開かれている。
クロのオッドアイが凍りついている。
ツルは二人の殺気を浴びながら、にっこりと微笑んだ。
「あら。そちらの方々は貴方様の妹君ですか?」
「誰が妹だってーーー!!」
「また増えたーーーーー!!」
朝のエルデの街に、二つの絶叫が響き渡った。




