第46話 「アカの禁忌」
依頼書の縁取りは黒帯だった。
黒帯はギルドの依頼分類で最上位を意味する。市民の生命に直結する緊急案件にのみ付与される。報酬は金貨二十五枚。だが金の問題ではない。恩義契約の試験導入期間中に黒帯の依頼を完遂すれば、制度の信頼性に直結する実績になる。
内容はAランク瘴獣の巣の殲滅。
エルデ北西部、ドラーク山麓。確認済みの瘴獣はAランク一体、Bランク四体、Cランク多数。瘴気の発生源は山腹の洞窟とされ、放置すれば周辺三村が瘴気被害を受ける。猶予は五日。
「巣の構造図はこちらですわ」
キサが広げた羊皮紙には、洞窟の推定構造と瘴気濃度の等高線が描かれていた。情報網を使って周辺の猟師から聞き取り、三日かけて仕上げたという。入口は南向きに一箇所、奥行きおよそ二百歩、途中で左右に分岐し、最深部にAランクの本体が巣を構えている。瘴気濃度は入口付近で薄く、分岐点から先は急激に上がる。
「瘴気の噴出孔は確認されてないが、洞窟の奥に溜まっている以上、どこかに発生源がある。潰さなきゃ再発する」
俺はキサの地図に指を置いた。
「作戦はこうだ。まずギンとクロが入口のCランクを掃討する。ギンは正面、クロは側面から影で足を止める。Bランク四体は分岐の左右に二体ずつ。右をキサの幻術で動きを封じ、左をツルの風で押し戻す。最深部のAランク本体はアカのブレスで焼く」
「わかった!」
ギンが尻尾を振った。
「私は影で足を縫う。それだけでいい?」
「それだけでいい」
「……わかった」
クロは頷き、俺の隣に座り直した。右耳の傷痕が髪の間から覗いていたが、もう隠す素振りはなかった。
「アカ」
「なんじゃ」
「最深部に入ったら、ブレスは三発以内で終わらせろ。四発目は許可しない」
「制限じゃと? 妾の炎に制限など——」
「制限だ。守れるか」
アカは腕を組み、鼻を鳴らした。
「……三発で十分じゃ」
「ツル」
「はい」
「風で瘴気を押し返すだけでいい。羽根は使うな」
ツルは一瞬だけ左肩に手を当てた。右翼の膨らみは服の下に見えるが、左側には何もない。広場の実演で散った風切羽は一枚も戻っていない。付け根の骨格だけが残った左翼は、服の上からでは存在すら分からなかった。
「風だけで、やります」
「頼む」
リノが事前報告書を仕上げ、俺たちは翌朝エルデを出た。
*
ドラーク山麓まで徒歩三時間。道中、アカが隣に並んだ。
「のう、ハル」
「なんだ」
「三発と言うたが、仮に——仮にじゃぞ。本体の外殻が三発で割れなかった場合、如何する」
「その時は俺が前に出る。アカは下がれ」
「主が前に? 馬鹿を申すな。妾のブレスの方が——」
「四発目を撃てば、お前の体がどうなるか分からない」
アカは黙った。先日の訓練で、五枚の板を三十歩先に並べ十発十中を出した直後、ギンの寝巻きの袖を焦がした。火球の制御が一瞬だけ遅れた。指二本分の焦げ穴。アカ自身が一番驚いていた。
「……分かっておる」
小さな声だった。
「お主の“だんどり”とやらに間違いはないのはな」
「ああ」
「ならば守る。三発で仕留める」
山麓に着くと、空気が変わった。木々の葉が黒ずみ、鳥の声が消えている。瘴気が薄く漂い、ギンが鼻を押さえた。
「くさい。ギン、この匂いきらい」
「我慢しろ。入口はあの岩の裏だ」
洞窟の入口は岩壁に横長に開いていた。中から湿った風が吹き出し、瘴気の臭いが濃くなる。
「行くぞ」
*
入口から三十歩でCランクの群れに当たった。蜘蛛に似た瘴獣が六体、天井と壁に張り付いている。ギンが先頭に飛び出し、最初の一体を体当たりで壁から剥がした。クロの影が地面を走り、二体目と三体目の脚を縫い止める。キサの幻術が四体目の視界を塞ぎ、ツルの風が五体目を通路の壁に叩きつけた。六体目は俺が剣で斬った。所要時間、十二秒。
分岐点に達すると、左右の通路からBランクの咆哮が響いた。右側の二体にキサが九尾から幻術を放ち、動きが止まる。左側の二体にはツルが風の壁を張り、押し戻した。ギンとクロが左右に分かれ、俺が右に入り、アカが奥への道を確保した。
Bランク四体の掃討に一分十八秒。損害なし。
最深部への通路は狭く、天井が低い。瘴気が目に見えるほど濃い。紫がかった霧が足元を這い、呼吸が重くなる。
「ツル、風を」
「はい」
ツルが右手を翳すと、清浄な風が通路を吹き抜け、瘴気が後方へ押し戻された。羽根は使っていない。純粋な風の操作だけだ。
最深部は広かった。天井が高く、洞窟の奥壁に沿って巨大な影がうずくまっている。体長十五歩はある。甲殻に覆われた胴体、六本の脚、頭部に二本の角。Aランク瘴獣。背中の甲殻の隙間から紫の瘴気が噴き出していた。
「アカ」
「承知」
アカが前に出た。口元に赤い光が灯る。
一発目。
炎のブレスが直線に走り、瘴獣の頭部に直撃した。甲殻が赤熱し、亀裂が入る。だが割れない。瘴獣が咆哮し、突進してきた。ギンが横から体当たりして軌道をずらし、クロの影が前脚を一瞬止めた。
「二発目」
アカのブレスが亀裂に吸い込まれるように命中した。甲殻が砕け、内部の核が露出する。瘴獣が悲鳴を上げ、背中から瘴気が爆発的に噴出した。洞窟全体が紫の霧に包まれる。
「ツル!」
「風、通します——!」
ツルの風が瘴気を押し返し、視界が戻った。核が脈動している。あと一発。
「アカ、三発目。決めろ」
「——分かっておる!」
三発目のブレスが核を貫いた。
瘴獣が崩れ落ち、瘴気の噴出が止まった。洞窟に静寂が戻る。
——だが、アカのブレスが止まらなかった。
三発目を放った口元から、まだ炎が漏れている。唇の端から赤い光が零れ、吐息のたびに火花が散った。
「アカ?」
「……っ、」
アカが喉を押さえた。首筋に赤い鱗が浮き上がっていた。耳の後ろから顎にかけて、人の肌の下から別の何かが透けている。
「アカ!」
「来るなっ……!」
アカが叫んだ。声が二重に聞こえた。人の声と、もっと低い、洞窟の底を震わせるような響き。
右腕の肌が裂け、赤い鱗が露出した。指が伸び、爪が黒く硬質に変わる。背中が膨れ上がり、服の縫い目が弾けた。肩甲骨の辺りから小さな翼の骨格が突き出し、左右に広がろうとしている。
竜化。
レーゲンの森で瘴気に侵されて暴走していたときの、あの姿に近い。だが今回は違う。瘴気は取り除かれた。体内に黒い塊はない。にもかかわらず、アカの体が竜の形に戻ろうとしている。
人型を維持できなくなっている。
「妾は……っ、止まれ、止まれっ……!」
アカが自分の腕を掴み、鱗の進行を抑えようとしていた。だが竜の本能は理性を押し潰そうとしている。瞳が金色に変わり、瞳孔が縦に裂けた。
「ギン、クロ、下がれ! ツル、キサもだ!」
俺は叫んだ。全員が後退する中、俺だけが前に出た。
アカの体温が異常に高い。三歩先に立っているだけで肌が焼けるように熱い。竜化が進めば、この洞窟ごと溶かしかねない。
だが俺には恩刻がある。
右手を伸ばした。アカの額に——鱗に覆われ始めた額に、掌を当てた。熱い。火傷するほど熱い。だが手を引かなかった。
「アカ」
名前を呼んだ。恩刻が掌から脈打つように光る。白い光がアカの鱗の上を走り、竜化の進行と拮抗した。
「アカ。聞こえてるか」
「……ハル、」
二重の声の中に、人の声が残っていた。
「三発で終わりだって言っただろ。終わったんだ。もう止めていい」
「止められ、ぬ……体が、勝手に……」
「止められる。お前は止められる」
恩刻の光が強くなった。アカの体を覆う鱗が、端から薄れていく。翼の骨格が縮み、爪が元の形に戻り始める。首筋の鱗が人の肌に沈んでいく。
「——っ、は、」
アカが膝をついた。竜化が完全に引いていた。人の姿に戻ったアカが、荒い息をつきながら自分の手を見つめている。普通の、人の手だ。
「……止まった」
「ああ。止まった」
俺は掌を見た。火傷の痕が赤く残っていたが、大したことはない。
「アカ、立てるか」
「……愚問じゃ」
アカは震える足で立ち上がった。だが目は伏せたままだった。
「……すまぬ」
「謝るな。任務は完了だ。帰るぞ」
*
帰路は無言だった。ギンがアカの横を歩き、時折アカの袖を鼻で押していたが、アカは反応しなかった。クロが俺の隣を歩き、何も言わなかった。ツルは少し後ろを歩きながら、時折アカの背中に視線を送っていた。キサだけが平静を装っていたが、九尾が一本だけ揺れていた。
拠点に戻ったのは日没前だった。
全員が居間に集まり、ゼノが待っていた。キサの連絡で現地の状況を聞いていたらしい。アカは黙ってゼノの前に座った。
「診せてもらう」
ゼノがアカの首筋に手を当て、魔核の状態を診た。数分の沈黙の後、ゼノが口を開いた。
「魔核の成長が進んでいる。竜種としての本来の成長だ。人型を維持する力と、竜として覚醒しようとする力がせめぎ合っている。先日のブレス訓練で制御が一瞬遅れたのも、今日の竜化も、根は同じだ」
「治るのか」
俺が聞いた。
「治るという表現は正しくない。竜の成長は不可逆だ。止めることはできない。だが——」
ゼノがアカを見た。
「今日、恩刻で竜化を押し戻せたのは重要な事実だ。恩刻が魔核の暴走に干渉できるなら、竜化の進行を制御する手段になり得る。理論上は」
「理論上、か」
「今の段階ではそうとしか言えない。だが定期的に魔核の状態を測定し、記録を取れば、傾向は掴める。次に兆候が出たとき、どこまで許容できてどこで止めるべきか、判断材料になる」
アカはずっと黙っていた。
全員が居間を出た後も、アカだけが座っていた。俺は台所で茶を淹れ、二つ持って戻った。一つをアカの前に置く。
「……ハル」
「ん」
「妾は、いずれ人の形を保てなくなるかもしれぬ」
「かもしれない。ゼノもそう言ってた」
「それでも——」
アカは湯呑みを両手で包んだ。手が震えていた。
「ここに、おってもよいか」
「当たり前だろ」
「……当たり前、か」
「お前がどんな姿になっても、アカはアカだ。それは変わらない」
アカは湯呑みに顔を伏せた。肩が小さく震えていた。泣いているのかもしれない。俺は何も言わず、隣に座って茶を飲んだ。
しばらくして、アカが顔を上げた。目は赤かったが、いつもの不遜な表情が戻りつつあった。
「……妾の茶が冷めた。淹れ直せ」
「自分で淹れろ」
「妾は竜じゃぞ!!」
「最初に対等だって言っただろ」
「……ふん」
アカは鼻を鳴らしたが、自分で立ち上がり、台所に向かった。
その背中は、いつもの赤い髪の、人の背中だった。
*
翌朝、ゼノが一枚の紙を持ってきた。
「魔核測定の記録用紙だ。週に一度、同じ時間に測定する。アカが嫌がっても続けてくれ」
「分かった」
「それと——」
ゼノが声を落とした。
「フィンのノートに、竜種の魔核制御に関する記述があった。断片的だが、恩刻を応用した抑制法の仮説が書かれている。テイム解除の理論と並行して、こちらも検証する価値がある」
「頼む」
「ああ。時間はかかるが——諦める理由にはならんだろう」
ゼノが去った後、窓の外を見た。庭でギンがヒノと並んで日向ぼっこをしている。クロが屋根裏のハンモックから降りてきて、居間のソファに座った。ツルが台所で朝食の支度を始めている。キサが二階から帳簿を抱えて降りてきた。
そしてアカが、台所のツルの横に立ち、火の加減を見ている。
昨夜あれだけのことがあったのに、朝はいつも通りだった。いつも通りであることが、たぶん一番大事なことなのだと思った。
六ヶ月の試験期間は残り五ヶ月と一週間。やるべきことは山ほどある。キサの姉のテイム解除。アカの魔核制御。ツルの翼の回復。ギンの成長。クロの過去。全部、この六ヶ月の中で答えを出さなければならない。
だが今は——朝飯だ。
「ツルー、味噌汁まだー?」
「もう少しです」
「ギン、おなかすいたー」
「ギン、お前は庭から上がってこい」
「はーい」
いつもの朝が始まった。
────────────────────




