第45話 「姉と妹」
移行申請の受理から五日後、テイマーギルドの管理委員会が開かれた。
結果はリノ経由で届いた。書面一枚。だが、その一枚に三十年分の重さがある。
『登録番号TG‑0439に対する廃棄処分の執行を保留し、恩義契約への移行審査を開始する。審査期間中、当該個体は冒険者ギルド保護施設への移送を認める。管理委員会議長グレイヴ――反対。副幹部モーゼル――賛成。副幹部レイン――賛成。管理部長バルト――棄権。賛成多数により可決』
三対一ではなく、二対一。バルトが棄権に回った。キサの情報によれば、バルトはグレイヴの側近だが、暴走事件の監督責任を問われる立場にある。処分賛成に投票すれば、自分の管理責任を棚上げしたと見られる。棄権は政治的な逃げだ。だが結果としてこちらに有利に働いた。
段取りとは、相手の損得を読むことでもある。キサが用意した派閥図が正確だった証拠だ。
「移送は明日です。移送先ですが――」
「リノ、冒険者ギルドの施設内に保護用の部屋は確保できるか」
「二階の奥に使っていない職員用の空き部屋が一つあります。ベッドと机はありますが、窓が小さいのが難点ですね」
「窓は後で何とかする。人型を維持できる状態の保護対象を庭に寝かせるわけにはいかない。屋根と壁と鍵のかかる部屋が要る」
「手配します。日常の世話はギルドの職員が交代で対応できますが、回復状況の確認は――」
「ゼノとツルが定期的に通う。キサも面会に行く。記録は俺とリノで管理する」
リノがメモを取りながら頷いた。
「分かりました。保護施設の運用記録としても残しておきますね。前例になりますから」
「ああ。前例は一つでも多く作っておく」
◇
翌日の昼。
テイマーギルドの職員が二名、冒険者ギルドの正面入口に現れた。
付き添われて歩いてきたのは、白い髪の女だった。
人型のまま。保護施設で面会した時と同じ姿。腰まで届く白い髪、金色の瞳、白い着物のような衣服。だが首元の古い擦り傷——三十年分の鎖の痕——が、陽光の下では一層はっきり見えた。
足取りは覚束ない。職員に付き添われて、入口まで来るのがやっとだった。瞳の焦点は合ったり外れたりを繰り返している。テイムの残滓が魔核の深層に食い込んでいる影響で、意識が安定しない。保護施設で会った時よりも、外の光の中では疲弊が目立った。
リノが玄関先で書類を受け取った。受領のサイン。リノが確認し、俺がサインし、キサが保護責任者として連署した。三重の確認印。書類に不備はない。
「では、引き渡します。審査期間は三ヶ月。期間内に恩義契約の成立が確認されない場合、管理権はテイマーギルドに戻ります」
「了解した」
職員が去った。
冒険者ギルドの廊下に、白い髪の女が立っている。金色の目がキサを見ていた。焦点が合っている。今は、合っている。
キサが一歩、近づいた。
何も言わなかった。ただ、九尾を出した。一本ずつ、静かに。金色の光が廊下に広がった。
白い髪の女の尾が反応した。九本のうち一本だけが、微かに揺れた。保護施設で面会した時と同じだ。だが今日はテイマーギルドの鉄格子の中ではない。冒険者ギルドの廊下。ハルの側の場所。
キサが手を伸ばした。姉の手を取った。
鉄格子越しではない。初めての、何にも遮られない接触だった。
白い髪の女の指が、キサの手を握り返した。力は弱い。だが、握り返していた。
「部屋に案内しますわ。姉さまの部屋です」
リノが用意してくれた二階奥の部屋。小さな窓からは通りが見える。ベッドには真新しいシーツ。机の上にツルが淹れた茶の入った水筒が置いてある。
白い髪の女が部屋に入った。窓に歩み寄って、外を見た。
「……空」
「はい。空ですわ。もう天井だけではありません」
「きれい」
たった一言。だが三十年間、地下の管理室で天井しか見ていなかった者にとって、その一言の重さは計り知れない。
キサが姉の隣に立った。九尾を出したまま、一本の尾を姉の背中に回した。
「ここが姉さまの場所です。しばらくは、ここで休んでくださいませ」
姉がベッドに腰を下ろした。シーツに手を置いて、布の感触を確かめるように指を動かした。鎖ではなく、布。鉄格子ではなく、窓。地下ではなく、二階。
会話は途切れがちだった。姉の意識は安定しない。集中が続かず、言葉が途中で消えることがある。三十年のテイムが魔核に刻んだ傷は、制御紋が消えただけでは癒えない。
それでもキサは話しかけていた。
「わたくし、少し太りましたわ。昔は骨が浮いていたのに。ツルさんの料理が美味しいせいですの」
姉が小さく笑った。笑ったように見えた。口元が僅かに動いただけかもしれない。だがキサはそれを笑顔として受け取った。
「ハルさまという方がいますの。計算できない方ですわ。損得で動かなくて、見返りを求めなくて。わたくしの計算を全部壊してしまった方」
姉の金色の目がキサを見ていた。焦点が合っている瞬間だった。
「……しあわせ?」
一語。たった一語。だが三十年の空白を飛び越えて、姉が妹に尋ねた。
キサの九尾が震えた。
泣くまいと決めていたはずだった。策士の矜持も、妹の意地も、その一語の前では何の役にも立たなかった。
「……はい。しあわせですわ」
涙が落ちた。一滴。頬を伝って、シーツに染みを作った。
姉の手がキサの頬に触れた。涙を拭おうとしている。指先が震えている。三十年間鎖に繋がれていた手で、妹の涙を拭っている。
「よかった」
保護施設で聞いた言葉とは違う「よかった」だった。あの時は「逃げられて、よかった」。今は「しあわせで、よかった」。
キサが姉の手を両手で包んだ。声は出せなかった。ただ、頷いた。何度も、何度も。
◇
日が暮れた。
キサが拠点の居間に戻ってきたのは、夕食の支度が終わった後だった。
全員が食卓にいた。ギンが粥をよそい、クロがパンを切り、アカが自分の皿に肉を山盛りにし、ツルが全体の配膳を仕切っている。椅子は七脚と木箱一つ。いつもの光景だ。
キサが入ってきた。目が赤い。泣かないと決めていたはずが、やはり泣いたのだ。
だが、笑っていた。
「姉が」
キサの声が震えた。泣き笑いだった。目から涙が溢れているのに、口元は笑っている。
「姉が、しあわせかと聞いてくれましたの。三十年ぶりに、わたくしのことを心配してくれましたの」
三度目の涙だった。一度目は姉の存在を告白した夜。二度目は書庫で仮面が壊れた夜。三度目は、笑いながらだった。
ギンが立ち上がって、キサの隣に行った。何も言わずに立っている。銀狼は言葉が得意ではない。だが、そばにいることは得意だ。
クロが鼻で息を吐いた。パンをもう一切れ切って、キサの皿に置いた。
アカが腕を組んだ。「妾も言うてやろう。よう逃げた」。言い方は雑だが、目は真剣だった。
ツルが椅子を引いた。キサの定位置。帳簿を置くスペースが空けてある。
「お帰りなさいませ、キサさん。お食事が冷めてしまいましたので、温め直しますわね」
「……ありがとうございます」
キサが座った。涙を拭いて、帳簿はなくて、ただ箸を持った。
ツルが口を開いた。
「キサさん。わたくしにお手伝いできることがあります」
「……ツルさん?」
「姉さまの回復に、浄化の風をお使いいたします。テイムの残滓は瘴気とは異なりますが、魔核の周囲に滞留する異物という点では共通しています。風で少しずつ洗い流すことができるかもしれません。ギルドまで通いますわ」
キサの目が見開かれた。
「でも、ツルさん。お翼が——」
「風だけですわ。羽根は使いません」
ツルが微笑んだ。不格好な方の笑み。左の背中は平らなまま。
「わたくしも、誰かを助けたいのです。翼を使わない方法で。ハルさまが段取りで守ってくださるように、わたくしは風で守ります」
あの約束が生きている。灰岩峡谷で組んだ段取り。翼を使わなくても済む方法。ツルはそれを自分のやり方で実践しようとしている。
「……お願いいたします」
キサが頭を下げた。策士が、鶴に頭を下げた。仮面でも計算でもない、ただの感謝だった。
七人と一頭の食卓。冒険者ギルドの二階には、白い髪の女が窓から夜空を眺めている。
椅子がまた一つ増える日は、そう遠くない。
◇
食後。書庫。
ゼノが来ていた。移送の立会いと、姉の魔核診断のために昨夜から拠点に泊まっている。
「キサさん、よく頑張ったね」
「……ゼノさまのおかげですわ」
「僕は診断しただけだよ。で、本題なんだが」
ゼノが机の上に厚い革装のノートを置いた。フィンのノートだ。以前テイム解除法の断片が見つかったあのノートが、付箋だらけになっている。
「フィンのノートのテイム解除理論、ほぼ完成した」
「……本当ですか」
「理論上はね。テイム紋は魔核の表層に刻まれた拘束式だ。通常の浄化では消せない。魔核そのものを傷つけるからだ。だがフィンは別のアプローチを見つけていた。紋を消すのではなく、上書きする」
「上書き?」
「恩刻でね。恩刻は魔核の深層に刻まれる。テイム紋より深い階層だ。深層から恩刻を広げれば、表層のテイム紋は自然に押し出される。理屈としてはそうなる」
ゼノが眼鏡を押し上げた。
「ただし、あくまで理論だ。実際にやってみないとわからない。フィンは実証実験の前に亡くなった。僕はこの理論を引き継いだだけだ」
「つまり、実験が必要だと」
「うん。あと一つ、実証実験が必要だ。キサさんの姉御を被験者にできるかね」
キサが俺を見た。金色の目が光っている。昼間の涙の跡が残っているのに、目の奥には計算が走っている。策士の顔だ。だが、仮面ではない。感情と計算が、初めて同じ方向を向いている。
「ハルさま」
「聞いた。ゼノ、リスクは」
「ゼロではない。恩刻の出力が足りなければ上書きは不完全に終わる。最悪の場合、魔核に損傷が残る。だが、成功すれば——テイム紋は完全に消える。姉御は自由になる」
キサの九尾の先端が、一本だけ光った。
「やりますわ」
即答だった。計算ではなく、意志だった。
「姉を、自由にしますわ」
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