第44話 「廃棄処分」
キサが書庫で情報を広げてから二時間が経った。
机の上には紙が十四枚。テイマーギルドの内部規定、過去の廃棄処分事例七件の記録、内部会議の出席者名簿、採決方法の規約抜粋、施設の警備体制。全てキサが自分の情報網で集めたものだ。
震える手で、だが正確に。
キサはそういう女だった。どれほど感情が揺れても、情報の精度だけは落とさない。三十年間そうやって生きてきた。計算と情報だけを頼りに、感情を仮面の下に押し込めて。
だが今夜は違った。
「七件ですわ」
キサの声が低い。
「過去十年で廃棄処分が執行されたテイム獣は七体。全件、制御紋の崩壊もしくは暴走を理由に処分されています。審議から執行までの平均日数は——四日」
「三日後に会議で、そこから四日」
「最短で一週間。最長でも十日。それが姉の命の残り時間ですわ」
紙を持つ手が震えた。キサは震えを止めようとして、止められなかった。帳簿を握る指先が白くなっている。
「出席者はグレイヴ、モーゼル、レイン、管理部長のバルト。採決は四名の多数決。グレイヴとバルトは処分賛成が確実。レインは中立寄り。モーゼルは——穏健派ですが、暴走の事実がある以上、反対に回る根拠が弱い」
「二対二に持ち込めるか」
「厳しいですわ。モーゼルが反対しても、議長権限はグレイヴにあります。同数の場合、議長票で決まる」
つまり、正攻法では止められない。
キサはそこまで言って、黙った。金色の目が机の上の紙を見ている。だが、読んでいない。焦点が合っていない。
「……三十年」
呟きだった。
「三十年、探しましたわ。情報を集め、裏を取り、確認し、また集め。三十年かけて姉の居場所を突き止めて、やっと——やっと再会できて」
声が震えた。
「あと一週間で殺されるなど、計算にありません」
キサの仮面が割れる音が聞こえた気がした。比喩ではなく、本当に何かが壊れる音だった。金色の目から涙が一筋落ちて、紙の上に染みを作った。
キサが泣いたのはこれで二度目だ。一度目は姉の存在を俺に告白した夜。あのときは静かに涙を流しただけだった。声は出さなかった。計算の範囲内で、許容できる程度の感情の漏出。キサはそう処理したはずだ。
今夜は違う。
「わたくしは」
キサが立ち上がった。椅子が音を立てて後ろに滑る。
「わたくしが、行きます」
「行くって、どこに」
「テイマーギルドの保護施設に。姉を連れ出します。警備は夜間二名、交代は深夜の二の鐘。施設の裏手に換気口があり、幻術で——」
「キサ」
「妨害しないでくださいまし。これはわたくしの問題です。ハルさまを巻き込む理由がありません。計算上、単独で動いた方が成功率は——」
「キサ」
二度呼んだ。キサが止まった。
金色の目がこちらを向いた。涙で濡れている。仮面はもうない。三十年かけて築いた計算と理性の壁が、姉の死という変数に耐えられなくなっている。
「情報は全部出したな」
「……はい」
「じゃあ座れ。まだ話は終わってない」
「話をしている場合では——」
「座れ、キサ」
三度目。キサが唇を噛んで、椅子に戻った。
◇
「単独で施設に侵入した場合、何が起きる」
「幻術で警備を無力化し、姉を連れ出します。逃走経路は三つ用意してあります」
「その後は」
「……エルデの街を出て、北東の森に」
「二人で逃げるのか。テイム残滓が残った姉を連れて。ギルドに追われながら」
キサが黙った。
「キサ。お前がそれを計算してないはずがない」
「……成功率は、六割です」
「六割で姉を助けて、その後は。追手が来る。テイマーギルドは脱走したテイム獣を放置しない。お前自身も犯罪者になる。恩義契約の試験導入は白紙に戻る。ギンもクロもツルもアカも、全員が連帯で処分される可能性がある」
「わかって、います」
「わかってて行くのか」
「わかっていても、姉が死ぬよりは——」
キサの声が途切れた。
泣いていた。声を押し殺そうとして、押し殺せていなかった。肩が震えている。九尾の先端が微かに光っている。感情が限界を超えると、妖狐の尾は隠せなくなる。一本、二本と現れて、最終的に九本すべてが姿を見せた。
姉の存在を告白した夜も、キサは九尾を見せた。あのときは静かな決意だった。今夜は違う。制御を手放した九尾だった。
「……三十年間」
キサが顔を覆った。
「三十年間、計算だけで生きてきました。感情で動いたら死ぬ。感情を見せたら利用される。だから全てを数字に変えて、情報に変えて、損得に変えて。そうしなければ生きていけませんでした」
言葉が溢れている。堰が切れたように。
「姉が捕まった日、わたくしは逃げました。幼かった。力がなかった。でも本当は——計算したのですわ。二人で逃げるより一人の方が生存率が高いと。六歳のわたくしが、姉を見捨てる計算をした」
「キサ」
「その計算が正しかったから、わたくしは生き延びた。正しかったから、三十年間、自分を許せなかった」
九尾が揺れている。金色の光が書庫の壁に影を作っている。
「ハルさまに出会って、困惑しました。計算できない方でした。損得で動かない。見返りを求めない。わたくしの情報を買うのではなく、わたくし自身を助けた。門前で血を止めたあの夜、ハルさまは何も考えていなかったでしょう。計算ではなかった。ただ、目の前で血を流している狐を放っておけなかっただけ」
「……ああ。そうだ」
「それがわからなかった。計算の外にいる人間を、信頼する方法を知りませんでしたの。三十年間、誰も信頼せずに生きてきたわたくしには」
キサが顔を上げた。涙で目が腫れている。仮面のない、素のキサだった。
「だから——だから今も、一人で行こうとしてしまう。信頼の仕方がわからないから。任せ方がわからないから。計算できる範囲でしか、動けないから」
俺は立ち上がって、キサの前に立った。
「計算しなくていい」
「……え」
「任せろ」
単純な言葉だ。前世でも今世でも、何度も言ってきた。ギンに言った。クロに言った。ツルにも言った。アカにも言った。同じ言葉を、何度でも言う。相手が変わっても意味は変わらない。
「お前の問題は俺の問題だ。クロにもギンにも同じことを言った。何度でも言う」
「ハルさま、でも——」
「キサ。お前がこの三十年で集めた情報の量と正確さは、俺には真似できない。お前の計算力も、情報網も、全部お前だけの武器だ。だがな、武器を持ってる奴が一人で戦場に行く必要はない」
キサの九尾が震えた。
「段取りは俺の仕事だ。お前は情報を出せ。手続きは俺とリノがやる。戦闘が必要ならギンとクロとアカがいる。浄化が必要ならツルがいる。一人で六割の博打を打つな。全員で十割の段取りを組む」
キサが泣いた。
今度は声を出して泣いた。仮面も計算も情報も全部捨てて、ただの妹として泣いた。九尾が全て伸びて、書庫の天井に届きそうなほど広がった。金色の光が部屋を満たした。
どれくらいそうしていたかわからない。キサが泣き止むまで、俺は何も言わずに待った。段取りの鬼にもできることとできないことがある。泣いている奴を効率的に泣き止ませる方法は知らない。待つしかない。
◇
キサが目を拭いたのは、三の鐘が鳴った後だった。
「……失礼いたしました」
「いい。それで、落ち着いたか」
「……はい。少し」
「じゃあ本題だ」
俺は机の上に、キサが並べた十四枚の紙を広げ直した。
「さっきお前が並べたこの資料。内部規定と過去の事例と規約の抜粋。この中に、お前自身が気づいてない答えがある」
「……答え?」
「廃棄処分の規定を読み上げろ。第何条だ」
キサが紙を手に取った。
「テイマーギルド管理規定第四十七条。『制御紋の崩壊または重大な暴走が確認されたテイム獣について、再制御が不可能と判断された場合、管理委員会の決議により廃棄処分を執行する』」
「その次」
「第四十七条の二。『廃棄処分の対象となるテイム獣について、他の管理制度への移行申請があった場合、管理委員会はこれを審議しなければならない』——」
キサが止まった。
金色の目が見開かれた。
「……他の管理制度への、移行申請」
「恩義契約は、エルデ支部で試験導入が承認された正規の管理制度だ。テイム獣を恩義契約に切り替えて保護するという申請は、規約上、禁止されていない」
「禁止条文がない……」
「ない。お前が集めた規約の全文を、俺は三回読んだ。禁止する条文は存在しない。前例もない。だが前例がないことと、禁止されていることは違う」
キサが俺を見た。涙の跡が残る顔で、だが目の奥に計算が戻りつつある。策士の頭が動き始めている。
「移行申請を出せば、管理委員会は審議しなければならない。審議中は処分を執行できない。時間が稼げる」
「そして審議の席で、恩義契約への移行の正当性を主張する。根拠は——」
「ハルさまの試験導入実績。事故ゼロの数字。恩義契約が機能している事実。加えて、TG‑0439はテイム紋が崩壊済みで、再テイムは不可能。つまり選択肢は廃棄か、恩義契約への移行か、の二つしかない」
「二択に持ち込めば、廃棄に投票する側が『代替案を潰した』という責任を負う。モーゼルとレインは政治的にその責任を取りたがらない」
「……三対一。グレイヴだけが反対に回る」
「十分だ」
キサが深く息を吐いた。九尾が一本ずつ消えていく。感情が計算の中に収まっていく。だが、完全には消えない。一本だけ残っている。
「ハルさま」
「なんだ」
「この答え、わたくしの資料の中にありましたのね。最初から」
「ああ。お前が集めた情報だ。お前が自分で用意していた資料の中に、姉を救う根拠があった。感情で目が曇っていただけだ」
「……計算を捨てようとした瞬間に、計算が必要だったと」
「そういうことだ。だから言った。お前の計算力は武器だと」
キサが小さく笑った。泣いた後の、少しだけ力が抜けた笑い方だった。
「任せろと仰いましたわね」
「言った」
「では——お任せいたしますわ。計算の外にいる方に」
書庫の蝋燭が揺れた。夜が明ける前に、やることは一つだ。
◇
翌朝。
俺はリノと共にテイマーギルドの窓口に立っていた。
リノが用意した書類は三枚。『廃棄予定テイム獣の恩義契約への移行申請書』。件名だけで窓口の職員が固まった。
「……前例がありません」
「知ってる。だが規約に禁止条文もない。第四十七条の二に基づく正規の申請だ。受理義務がある」
職員が上を見た。奥の扉の向こうにいる誰かを確認するように。
リノが一歩前に出た。
「冒険者ギルド事務局リノです。申請書類の形式は管理規定に準拠しています。受理の可否ではなく、審議の義務が規約上発生します。ご確認ください」
リノの声は穏やかだが、一切の隙がない。書類に不備はない。確認した。三回確認した。リノも三回確認した。段取りの鬼が二人で六回確認した書類に、不備があるはずがない。
職員が書類を受け取った。
「……受理いたします。管理委員会での審議日程は追って通知します」
「ありがとう。通知は冒険者ギルド事務局宛てに、書面で頼む」
テイマーギルドを出た。
朝の空気が冷たかった。リノが隣を歩いている。
「ハルさん」
「ん」
「前例のない申請を通すのは、これで何度目ですか」
「数えてない」
「わたしは数えています。四度目です」
リノが薄く笑った。段取りの鬼は数を忘れない。
拠点に戻ると、門の前にキサが立っていた。昨夜泣き腫らした目が、朝日の中で金色に光っている。
「受理されましたの?」
「ああ。審議日程は追って通知が来る。それまで処分は執行できない。時間は稼いだ」
キサが目を閉じた。九尾は出ていない。だが、尾の先端だけが一瞬だけ揺れた気がした。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。審議で通さないと意味がない」
「通しますわ。わたくしの情報と、ハルさまの段取りで」
門を入ると、ギンが庭で待っていた。クロがソファから顔を出している。ツルが台所から「おかえりなさいませ」と声をかけた。アカが二階の窓から「遅いぞ!」と叫んでいる。ヒノが陽だまりで尾を振った。
全員がいる。全員で動く。
三十年分の計算を、書類と数字で超える。それが俺たちのやり方だ。
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