第42話 「試験導入」
二度目の合同審議の朝、空気が前回と違うことは会議室に入った瞬間に分かった。
同じ楕円形のテーブル。同じ石造りの壁。同じ窓から差し込む朝の光。だが椅子に座っている人間たちの温度が違った。
テイマーギルド側。グレイヴが前回と同じ席にいた。黒い外套。灰色の髪。鋭い眼光。だが前回と一つだけ違う点がある。手元に資料がなかった。前回は分厚い反論資料の束を持っていた。今日は手ぶらだ。
モーゼルが隣に座っている。丸い眼鏡の奥の目が俺を見た。前回はメモを取っていた受動的な目だった。今日は違う。質問する側の目だ。
レインが反対側に座っている。前回は腕を組んで沈黙していた男が、今日はテーブルの上に両手を置いている。発言する気でいる。
冒険者ギルド側。エルドスが上座。リノが俺の隣。リノの手元に書類の束。今日は二部構成で、一部目が追加実績の報告、二部目が試験導入の可否決定。
「それでは、二度目の合同審議を開始します」
エルドスの声が会議室に響いた。前回と同じ声量。同じ落ち着き。だが声の底に、微かな期待がある。この老人は結果を予感しているのだ。
「まず、前回の審議で条件とされた追加実績について。ハル君、報告を」
立ち上がった。
「条件は三つでした。Aランク以上の依頼を複数回成功させること。事故ゼロの記録。期限は一ヶ月。全て満たしました」
リノが書類を配った。七部コピー。
「一件目。灰岩峡谷のAランク岩蜥蜴型瘴獣の討伐。所要時間四十三秒。瘴気噴出孔の物理的封鎖を同時実施。味方損害ゼロ。浄化担当の特殊能力使用なし」
最後の一文を、俺はあえて強調した。ツルの羽根を使っていない。段取りで回避した。それが安全性の証明の核心だ。
「二件目。北部山岳地帯のAランク飛翔型瘴獣の討伐。所要時間一分十二秒。山岳民集落への被害なし。味方損害ゼロ」
二件目は審議の一週間前に片付けた。アカの空中ブレスとギンの跳躍で仕留めた。キサの幻術で飛翔ルートを制御し、クロが地上からの索敵で位置を伝え続けた。ツルの浄化は通常の風のみ。
「二件のAランク討伐。いずれも味方損害ゼロ。事故報告ゼロ。一ヶ月の期限内に達成しています」
座った。
モーゼルが資料を読んでいた。数字を一つずつ確認している。この男は数字で判断する。数字が揃っていれば動く。
「ハル殿。一件目の報告にある『浄化担当の特殊能力使用なし』について確認します。これは浄化の風のみで対処したということですか」
「はい。噴出孔は物理的手段で封鎖し、残留瘴気の浄化は通常の風で対処しました。翼の羽根を消費する大規模浄化は使用していません」
「物理的手段とは」
「竜型メンバーのブレスで峡谷の壁面を溶かし、溶岩で噴出孔を埋めました」
モーゼルの眉が上がった。メモを取る手が速くなっている。
「噴出孔対策を事前に段取りに組み込んでいたと」
「はい。浄化担当に過剰な負荷をかけないことを前提に、物理的な代替手段を段取りに組み込みました。浄化の出力が足りなくなる状況そのものを作らない設計です」
「なるほど。リスクの発生後に対処するのではなく、リスクが発生しない構造を事前に作ると」
「そうです。前回の審議で申し上げた『走りながら作る』とはそういうことです。運用で得た知見を、次の段取りに反映する仕組みが恩義契約の運用には組み込まれています」
モーゼルが頷いた。丸い眼鏡の奥に、明確な納得の色がある。
レインが口を開いた。
「ハル殿。公開実演の件について一つ確認したい」
空気が張り詰めた。公開実演。テイム妖狐の暴走事故。この場の全員が知っていて、誰も自分からは触れなかった話題。
「実演の場で、あなたのパーティーメンバーが大規模浄化を行い、テイム獣の暴走を止めました。その際に浄化担当が翼の羽根を大量に消費し、左翼がほぼ消失したと聞いています」
「事実です」
「それは恩義契約の安全性にとって、マイナスの事例ではないですか。パーティーメンバーが重大な自己犠牲を払わなければ事態を収められなかった」
正論だった。準備していた質問だが、聞かれると痛い。
「マイナスの事例であることは認めます。自己犠牲はあってはならないことです。ただし二つの点を補足させてください」
「どうぞ」
「一つ目。暴走の原因は恩義契約側にはありません。テイム獣の制御崩壊が原因であり、その対処としてパーティーメンバーが動いた形です。恩義契約の不備ではなく、テイムの不備が引き起こした事態です」
レインの目が僅かに揺れた。痛いところを突かれた顔だ。テイマーギルドの人間として、この事実は認めたくないが否定もできない。
「二つ目。浄化担当の自己犠牲については、今後同様の事態が起きた場合に翼を使わせない段取りを組む準備があります。灰岩峡谷の討伐がその実践例です。噴出孔への対処を物理的手段で代替し、浄化担当の負荷をゼロにしました。自己犠牲を必要としない段取りを事前に設計できることを、数字で示しています」
レインが黙った。腕を組まなかった。テーブルの上に手を置いたまま、考えている。
グレイヴは一言も発していなかった。
前回の審議ではグレイヴが反論の主軸だった。今日は手ぶらで座っている。発言もしない。資料もない。ただ聞いている。
あの公開実演の失敗が、グレイヴから言葉を奪っていた。テイムの安全性を主張する男のテイム獣が暴走した。その事実の前では、どんな反論も空を切る。
エルドスが口を開いた。
「質疑を終了し、採決に移ります。議題は、恩義契約の試験導入の可否です」
会議室が静まった。
「試験導入の条件を確認します。期間は六ヶ月。適用範囲はエルデ支部のみ。ハル君のパーティーが第一号の登録対象。試験期間中に重大事故が発生した場合は即時廃止。この条件で、試験導入に賛成の方は挙手を」
モーゼルの手が上がった。迷いなく。
レインの手が上がった。二秒の間があったが、上がった。
エルドスの手が上がった。
三対一。過半数を超えていた。
「賛成三票。恩義契約の試験導入を承認します」
エルドスの声が会議室に響いた。
通った。
リノが隣で小さく息を吐いた。手元の書類を握る指が白くなっている。緊張していたのだ。表情には出さなかったが。
「ハル君。試験導入の第一号として、パーティーメンバー五体の登録切り替えを行います。同行魔獣から恩義契約獣への種別変更です。書類はリノが準備済みと聞いています」
「はい。こちらに」
エルドスが声をかけるとリノが書類を差し出した。五体分の登録切り替え申請書。ギン、クロ、ツル、アカ、キサ。それぞれの名前の横に、新しい種別が記されている。
同行魔獣。その文字に横線が引かれ、上に書き加えられている。
恩義契約獣。
書類上の変更だ。ギンが「ギン」であることも、クロが「クロ」であることも、何一つ変わらない。だが制度として認められた。テイムでもなく、野生でもなく、恩義契約という第三の関係が、この紙の上に初めて存在した。
五枚の書類にサインした。名前を書く手が少しだけ震えた。段取りの鬼は感情で手を震わせない。震わせないはずだが、震えた。
リノが書類を受け取った。
「受理します。恩義契約獣の登録、五体。冒険者ギルド史上、初の事例です」
リノが微笑んだ。事務的な笑みではなかった。
「前例のない書類を書くのは、やっぱり楽しいですね」
◇
審議が閉会した。
エルドスが先に退室し、モーゼルとレインが続いた。モーゼルが出口で振り返り、俺に小さく頷いた。初めて個人的な感情を見せた瞬間だった。
リノが書類をまとめている間、俺は廊下に出た。
グレイヴが廊下に立っていた。
壁にもたれて、窓の外を見ていた。黒い外套が薄暗い廊下に沈んでいる。前回の審議後と同じ場所。同じ姿勢。だが纏う空気が違っていた。
前回は信念の男だった。今日は、信念に罅が入った男だった。
俺が近づくと、グレイヴが窓から目を離した。
「通ったな」
「ええ」
「試験導入。六ヶ月。条件付き」
「はい」
グレイヴの鋭い目がこちらを見た。前回と同じ目。だが奥にあるものが違う。前回は恐怖とかすかな期待だった。今日は——
「六ヶ月だ」
グレイヴの声は静かだった。
「その間に一度でも失敗すれば、私が止める。試験導入の即時廃止を申請し、恩義契約の全登録を抹消する。それだけの権限は私にある」
「承知しています」
「これは脅しではない。監視だ」
グレイヴが壁から背を離した。
「私は恩義契約を認めたわけではない。採決には参加しなかった。棄権だ。賛成でも反対でもない」
「なぜ反対しなかったのか、聞いてもいいですか」
グレイヴが一瞬だけ黙った。
「……反対する根拠が揺らいだからだ。私のテイム獣が暴走した。私が制御できなかった。その事実がある以上、テイムの安全性を主張する説得力が私にはなくなった」
自分で言っていた。自分の言葉で。言い訳もなく、責任転嫁もなく。
「だが安全性への懸念は消えていない。信頼で繋がることの危うさを、私は体で知っている。六ヶ月間、私はお前たちを見る。数字だけではなく、この目で」
「見ていてください。数字で示します」
「数字だけで足りるかは、私が判断する」
グレイヴが歩き出した。黒い外套が翻って、廊下の奥に消えていく。
足音が遠ざかる直前、低い声が聞こえた。
「……あの白い髪の娘。翼を失ったと聞いた」
「はい」
「私のテイム獣の暴走を、自分の翼で止めた。そういうことだな」
「はい」
足音が止まった。
「なぜだ。他人のテイム獣のために、なぜ自分の翼を」
「仲間が巻き込まれていたからです。テイム獣だろうが関係ない。目の前で暴走している奴がいて、巻き込まれている人がいたら、止める。それだけです。うちのパーティーは全員そうだ。俺がそう育てたわけじゃない。あいつらが自分でそう決めている」
長い沈黙。
足音が再開した。遠ざかっていく。
何も返事はなかった。だが足音の速度が、ほんの僅かだけ遅くなった気がした。立ち止まりかけて、思い直して、歩き続けた。そんな足音だった。
◇
拠点に帰ったのは夕方だった。
居間に入ると、五人が待っていた。ギンが飛びついてきた。
「主さま! どうだった!」
「通った」
一秒の沈黙。
「通ったー!!!」
ギンの歓声がリビングを揺らした。銀の尾が過去最大の振幅で揺れている。
「ギンたち、恩義契約になったの!?」
「なった。五体全員、登録切り替え完了だ」
「やったぁ!」
アカが椅子の上で飛び跳ねた。角の根元が赤い。
「妾は恩義契約獣の第一号じゃ! 歴史に名を刻んだのじゃ!」
「第一号は五体同時だから、一号は全員だぞ」
「妾が一番最初に名前を書いた!」
「書類の順番は五十音順だ。アカが最初なのはたまたまだ」
「たまたまではない! 竜の理じゃ!」
クロが食卓の定位置に座ったまま、鼻を鳴らした。
「書類の種別が変わっただけでしょ。あたしたちは何も変わらない」
「変わらない。だが制度として認められた。お前たちがここにいることを、社会が公式に認めた。それは大きい」
クロの耳が微かに動いた。何も言わなかったが、尻尾が一度だけ大きく揺れた。
ツルが台所からお茶を持ってきた。六人分。湯呑みの大きさは全部同じ。
「おめでとうございます、ハルさま」
「俺だけの手柄じゃない」
「でも、書類を書いたのはハルさまとリノさんです。数字を揃えたのは皆さまの実績です。段取りを組んだのはハルさまです。全部が合わさって、今日の結果になった」
ツルが微笑んだ。不格好な方の笑み。左の背中が平らなまま、右の翼の膨らみだけが服の下に見える。
「翼がなくても、書類には関係ありませんから。わたくしにもできることはたくさんあります」
キサが木板の前に立っていた。帳簿を閉じて、こちらを向いている。
「試験導入が承認されたことで、テイム獣の恩義契約への移行申請に法的根拠が生まれましたわ」
金色の目が光っていた。策士の目だ。だがその奥に、計算では測れない光が灯っている。
「姉を助ける道が、開きましたわね」
「ああ。次はそっちだ」
キサが小さく頷いた。一尾が揺れた。
六人でお茶を飲んだ。庭の厩舎跡からヒノが顔を覗かせていた。橙色の尾が緩く揺れている。
恩義契約。テイムでもなく、野生でもなく。互いの意思で結ぶ関係。それが今日、制度になった。
フィンの書庫で生まれた構想が、フィンの家で暮らす六人の手で現実になった。
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