第41話 「折れた翼の朝」
ツルが台所に立ったのは、倒れてから三日目の朝だった。
目が覚めて一階に降りると、竈の前に白い髪が揺れていた。左の肩甲骨のあたりが不自然に平らだ。右側には翼の膨らみが服の下に見えるが、左側には何もない。あの日、広場で散った風切羽は一枚も戻っていない。付け根の骨格だけが残った左翼は、服の上からでは存在すら分からなかった。
粥をかき混ぜている。いつもと同じ速度で、いつもと同じ丁寧さで。
「ツル。まだ寝てろと言っただろう」
「三日も寝ていては体が鈍ります。それに、わたくしが台所に立たないと皆さまの朝食が干し肉に戻ります」
「干し肉でいい」
「よくありません」
振り向いたツルの顔は、思ったより元気だった。顔色はまだ白いが、目に力がある。三日間眠って、魔核の枯渇が回復しつつあるのだろう。
だが左の背中が、見るたびに胸を締めつけた。つい数日前まで、霊峰カイラで折られた翼がようやく完全に回復していた。それが一瞬で失われた。あるべきものがない。空間が空いている。
「ハルさま」
「何だ」
「そのお顔、おやめくださいませ」
「どの顔だ」
「わたくしの背中を見るたびに眉を下げるお顔です。三日間で十七回目ですよ」
「数えてたのか」
「目が覚めている間はずっと見ていましたので」
ツルが粥の鍋を竈から下ろした。六人分の器を並べて、均等に注いでいく。左手の動きが少しだけ不安定だった。左翼を失ったことで、左半身のバランスが変わっている。だが器を倒さない。三日で順応しつつある。
「ツル。一つ聞いていいか」
「何でも」
「飛べなくなったこと、怖くないか」
ツルの手が止まった。
三秒の沈黙。粥が器の中で湯気を立てている。
「怖いです」
静かな声だった。
「鶴にとって翼は全てです。空を飛ぶための翼。風を起こすための翼。わたくしがわたくしであるための翼。その半分が、今はありません」
器を持つ手が微かに震えた。だがすぐに止まった。
「でも」
ツルが振り向いた。
「翼がなくても、わたくしはわたくしです。料理はできます。浄化の風は使えます。皆さまのお世話もできます。そして——」
青い瞳が俺を真っ直ぐ見た。
「ハルさまの隣にいられます。翼がなくても」
「当たり前だ」
即答した。考える必要もなかった。
「翼があろうがなかろうが、お前はこのパーティーの後衛で、この家の台所の主で、俺たちの飯を作る奴だ。それは何も変わらない」
ツルが目を伏せた。白い睫毛が影を落とす。
泣くかと思った。泣かなかった。
代わりに、あの笑みを浮かべた。完璧ではない、唇が少し歪んだ、柔らかい笑み。
「ありがとうございます、ハルさま」
「礼を言うことじゃない」
「いいえ。『当たり前だ』と言ってくださることが、何より嬉しいのです。特別扱いではなく、当たり前として。それがわたくしには一番——」
声が少し詰まった。涙を堪えている。堪えきって、笑みのまま言い切った。
「一番、救われます」
階段から足音が降りてきた。ギンだ。寝癖がついた銀髪で、目を擦りながら。
「ツルさん! 台所にいる! 起きてる!」
ギンが走ってきてツルに抱きついた。翼を避けて右側から。ギンなりの配慮が体に染みついている。
「おはようございます、ギンさん。朝食ができましたよ」
「ツルさんのご飯! 三日ぶり! ギン嬉しい!」
屋根裏からクロが降りてきた。ツルが台所にいるのを見て、足を止めた。何か言いかけて、やめて、いつもの席に座った。
「……おかえり」
小さな声だった。ツルが微笑んだ。
「ただいま、クロさん」
アカが二階から駆け下りてきた。
「おお、ツルが復活したのじゃ! 妾は干し肉にはもう耐えられぬところじゃった!」
「三日で限界でしたか」
「妾の舌は繊細なのじゃ! おぬしの料理以外は受け付けぬ!」
遠回しな褒め言葉だった。角の根元が赤い。照れているのだ。
キサは居間の木板の前に立っていた。帳簿ではなく、別の紙を見ている。顔がこわばっている。
「キサ、朝食だ」
「……ええ、今行きますわ」
声が上滑りしていた。紙をそっと裏返して、食卓に来た。何を見ていたのかは聞かなかった。聞くべき時は、この後来る。
◇
午後。
ギルドの保護施設は、テイマーギルド本部の裏手にあった。普段はテイムの制御が不安定になった魔獣を一時的に収容する場所だ。今は一体だけが入っている。
登録番号TG-0439。グレイヴのテイム妖狐。ツルの浄化で制御紋が消失し、テイマーギルドの管理から一時的に離れて、ギルドの保護下に置かれている。
リノが面会の手配をしてくれた。キサと俺の二人だけ。
施設の廊下は薄暗かった。石造りの壁に等間隔で灯りが灯っている。奥に鉄格子の部屋がいくつか並んでいる。大半は空室だ。
一番奥の部屋に、白い影がいた。
獣の姿ではなかった。人型だった。
白い髪。長い。腰まで届いている。キサと同じ金色の瞳。だが光が薄い。焦点が定まらず、壁の一点を見つめている。白い着物のような衣服を纏っているが、首元に古い擦り傷がある。鎖の痕だ。三十年分の。
尾は一本だけ出ていた。白い尾。キサの尾と同じ色。
キサが鉄格子の前で立ち止まった。
動かなかった。息を吸って、吐いて、また吸って。呼吸を整えようとしている。策士の仮面を被ろうとしている。被れなかった。
「……姉さま」
声が震えた。小さな声だった。三十年前の茂みの中にいた子供の声だった。
白い髪の女が動いた。ゆっくりと首が回る。金色の瞳がキサを捉えた。
焦点が合っていなかった。テイムの影響で記憶が曖昧になっている。三十年間、制御紋が脳に干渉し続けた結果、過去の記憶が断片化している。ゼノが「時間をかければ戻るかもしれないが、保証はできない」と言っていた。
女の目がキサを見ている。見ているが、認識しているかどうか分からない。
キサが鉄格子に手をかけた。指が白くなるほど握りしめている。
「姉さま。わたくしです。キサです。覚えて——」
言葉が途切れた。声にならなかった。
女の目が動かない。金色の瞳がキサを見ているが、何も映していないように見えた。
長い沈黙。
キサの一尾が垂れた。力が抜けていくのが見えた。三十年間探し続けた姉が目の前にいて、自分を認識してくれない。その絶望が、キサの背中に乗っていた。
俺はキサの横に立って、黙っていた。何も言わなかった。今は言葉を挟むべきではない。
キサが目を閉じた。そして、九尾を出した。
全て。一本ではなく、九本全て。金色の光が薄暗い廊下に広がった。狭い空間に九尾が収まりきらず、壁に触れて、天井を撫でて、光を受けて輝いた。
白い髪の女の目が変わった。
九本の尾を見ている。焦点が動いた。曖昧だった金色の瞳に、何かが灯った。微かな光。記憶の底から浮かび上がってくる何かが、瞳の奥で揺れている。
女の唇が動いた。
「……キサ?」
声だった。掠れて、弱くて、三十年の沈黙で錆びついた声。だが確かにキサの名前を発音していた。
キサの目が見開かれた。
「姉さま、わたくしが分かりますの?」
「キサ。……キサ。小さかった。尾が、三本しかなくて」
断片的な記憶。三十年前のキサは幼くて、九尾のうち三本しか出せなかった。今は九本全て出ている。その変化が、時間の経過を姉に伝えている。
「大きく、なった」
女の手が鉄格子に伸びた。細い指。爪が割れている。三十年間の拘束の跡。
キサの手が鉄格子越しに姉の手に重なった。
「姉さま。姉さま」
もう策士の声ではなかった。仮面の欠片すら残っていなかった。ただの妹の声だった。
「遅くなりました。三十年も。ごめんなさい。ごめんなさい——」
「キサ」
姉の声が、少しだけはっきりした。
「逃げられて、よかった」
キサの体が崩れた。膝が折れて、鉄格子にもたれかかった。手だけが姉の手を握り続けていた。
声を出して泣いた。策士の計算も、情報屋の冷静さも、全部が溶けた。三十年分の泣き声が、薄暗い保護施設の廊下に響いた。
姉の目から涙が一筋流れた。記憶が曖昧でも、妹が泣いていることは分かるのだ。
俺は廊下の壁にもたれて、天井を見ていた。目が熱かった。段取りの鬼は感情で動かない。動かないが、目が熱いことは認める。
しばらく二人にさせておいた。時間がどれだけ経ったか分からない。キサの泣き声が少しずつ収まって、嗚咽になって、やがて静かになった。
「ハルさま」
キサの声が廊下に響いた。まだ掠れていたが、芯が戻っていた。
「何だ」
「姉を、助けてくださいませ。お願いいたします」
「約束しただろう。必ず助ける」
「はい。……はい」
キサが立ち上がった。目が赤かった。鼻の頭も赤かった。策士の顔とは程遠い、泣きはらした顔。
だがその目に、光が戻っていた。三十年間一人で探し続けた光ではない。誰かと一緒に見つけた光だった。
◇
同じ日の夜。テイマーギルド本部。幹部会議室。
グレイヴが議長席に座っていた。モーゼルとレインが両脇に。さらに末席にテイマーギルドの事務官が二名。議題は一つ。公開実演でのテイム獣暴走事故の検証。
「グレイヴ殿。TG-0439の制御崩壊について、説明を求めます」
モーゼルの声は穏やかだったが、丸い眼鏡の奥の目は鋭かった。
「魔核の劣化が想定以上に進行していた。全力の幻術を発動させた際の負荷で、制御紋が耐えきれなくなった」
「全力の幻術は、誰の命令で発動されたのですか」
「私の命令だ」
グレイヴの声は平坦だった。責任を回避しない。事実をそのまま述べている。
「三十年間テイムを維持してきた個体です。魔核の劣化は定期検査で把握していましたが、想定を超える速度で進行していた。これは管理上の見落としであり、私の責任です」
モーゼルがメモを取った。レインが腕を組んで沈黙している。
「テイムの制御にも限界がある。それは今回の件で明白になりました」
グレイヴが言った。自分の口で。自分の実演の失敗を、自分で認めた。
「だからこそ、より強い管理が必要だと考えます。テイムの制御紋の定期検査の頻度を上げ、劣化が進んだ個体は早期に廃棄処分とする。管理の強化でリスクを抑える。それがテイマーギルドの取るべき道です」
「管理の強化ですか」
モーゼルの眼鏡が光った。
「もう一つ、検討すべき道があるのではないですか。恩義契約の審議が五日後に控えています。テイムの限界が露呈した今、テイムと並立する選択肢を真剣に議論すべきではないでしょうか」
グレイヴが黙った。
レインが口を開いた。
「私もモーゼル殿に同意します。市民が見ている前でテイム獣が暴走した。その事実は消せません。恩義契約の審議を先延ばしにすれば、テイマーギルドが問題を隠蔽していると受け取られます。世論が完全に離れる前に、審議に応じるべきです」
レインがグレイヴから離れた。グレイヴに従ってきた男が、初めて独自の判断を示した。
グレイヴは窓の外を見ていた。エルデの夜景。街灯の光。いつもと同じ景色。だが見ている目が違っていた。
「……審議は予定通り行う。延期はしない」
それだけ言って、立ち上がった。
会議室を出ていくグレイヴの背中を、モーゼルとレインが見送った。
潮目が変わっていた。
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