第40話 「公開比較実演とツルとの約束」
グレイヴからの書状が届いたのは、実演の二日前だった。
封蝋はテイマーギルドの正紋。文面は丁寧だが、内容は挑戦状に等しかった。
『恩義契約の提案者であるハル殿に、テイム術との公開比較実演への参加を要請する。テイマーギルド広場にて、テイム獣と恩義契約獣の能力・制御性を並行して示すことで、来たる審議に向けた客観的な判断材料を市民に提供したい。参加は任意であるが、辞退された場合はその旨を掲示板に公示する』
辞退すれば「逃げた」と公示される。参加すれば、グレイヴの舞台で踊らされる。
「どちらに転んでも不利ですわね」
キサが書状を読みながら言った。声は平坦だったが、紙を持つ指先が白くなっていた。
「参加する」
「ハルさま」
「逃げたという事実が掲示板に載れば、審議の空気が決定的に傾く。参加して堂々とやる方がまだマシだ」
「グレイヴさまの土俵ですわよ」
「分かってる。だが俺たちの武器は実績だ。実績は土俵を選ばない」
キサが黙った。金色の目の奥で計算が走っている。だがそれ以上の何かが、計算を邪魔していた。書状に記された「テイム獣」が何を指すか、キサだけが知っている。
◇
当日。テイマーギルドの広場。
広場は楕円形で、周囲を石造りの観覧席が囲んでいる。テイマーが使役獣の訓練を公開する時に使う施設だ。普段は閑散としているが、今日は違った。
冒険者。商人。市民。観覧席が七割ほど埋まっている。掲示板に「恩義契約とテイム術の公開比較実演」と告知が出されていた。エルデの街で最も話題になっている二つの制度が、直接比較される。見物人が集まるのは当然だった。
広場の北側にグレイヴが立っていた。黒い外套にテイマーギルドの紋章。隣にモーゼルとレインが控えている。審議の出席者全員がこの場にいる。偶然ではない。審議前の最終判断材料として、この実演を見届けるつもりだ。
南側に俺たちが立った。ギン、クロ、ツル、アカ、キサ。全員が揃っている。
「主さま、人がいっぱいいる」
ギンが耳を伏せた。群衆は得意ではない。
「大丈夫だ。いつも通りやるだけだ」
「いつも通りって、何をするの」
「まだ分からない。向こうが先に動く。それを見て判断する」
グレイヴが広場の中央に進み出た。声が通る。よく訓練された演説の声だ。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。テイマーギルドとして、テイム術の安全性と制御性を皆さまにお示しする機会をいただきました」
観衆が静まる。
「まず、テイム獣の制御実演をご覧いただきます。その後、恩義契約の提案者であるハル殿にも同様の実演をお願いしております」
グレイヴの右手が上がった。合図だ。
広場の東の門が開いた。
白い尾が揺れながら、一体の魔獣が広場に入ってきた。
妖狐だ。
人型ではない。獣の姿。白い毛並みに九本の尾。だが毛先に輝きがない。目が曇っている。灰色がかった金色。テイムの制御紋が瞳の奥に光っていた。
首に鎖はない。テイムの制御があれば物理的な拘束は不要だ。だがその事実が、逆に見えない鎖の存在を際立たせていた。
キサが動かなくなった。
隣に立つキサの体が、石のように固まっていた。一尾が垂れ下がっている。制御を失ったのではない。全ての感覚がテイム妖狐に吸い寄せられて、体を動かす余裕がなくなっている。
「……姉さま」
声にならない声だった。唇だけが動いた。
テイム妖狐の九尾が広がった。グレイヴの命令で幻術が発動する。
広場の空気が変わった。薄紫の霧が地面から立ち上がり、観覧席に向けて広がっていく。だが観覧席には届かない。広場の中央だけを覆う範囲に制御されている。テイム術による精密な出力管理。
「ご覧の通り、テイム獣の幻術は範囲と強度を正確に制御できます。観客の皆さまには一切影響がない。これがテイム術による安全管理です」
グレイヴの声は淡々としていた。完璧な実演。完璧な制御。
俺たちの番が来る前に、テイムの優位性を印象づける。そういう段取りだ。
「では次に、恩義契約の実演を——」
グレイヴの声が途切れた。
テイム妖狐の目が変わった。
灰色がかった金色の瞳の中で、制御紋が明滅していた。規則的ではない。不規則な点滅。故障の兆候だ。
妖狐の体が震え始めた。
「……グレイヴ殿?」
モーゼルの声に不安が混じった。
グレイヴの右手が上がった。制御命令を送ろうとしている。だが妖狐の震えは止まらなかった。
九尾が膨らんだ。
白い毛が逆立ち、九本の尾が扇のように広がった。先ほどの制御された幻術とは全く違う。生き物の恐怖と苦痛が、そのまま力に変わっている。
薄紫の霧が爆発的に広がった。
範囲制御が消えた。幻術が広場全体を呑み込んだ。
「全員伏せろ!」
叫んだ。だが遅かった。
幻術が目を灼いた。視界が歪む。石畳が波打ち、空が回転し、自分の手が溶けていくように見える。感覚の全てが狂う。上下左右の区別がなくなる。
九尾の妖狐の全力の幻術。Bランク以上の威力。訓練された冒険者でも、不意打ちで喰らえば立っていられない。
膝をついた。地面がどこにあるか分からない。目を閉じても幻覚が消えない。脳に直接干渉する幻術だ。視覚だけでなく、平衡感覚と触覚まで狂わされている。
ギンの声が聞こえた。遠い。
「主さ……ま……どこ……」
クロの声。「見え……ない……」
アカの声。「妾の……手が……」
全員がやられている。
そしてキサは——キサは最初から動けていなかった。姉の姿を見た瞬間に固まっていた。幻術以前の問題だ。
広場が混乱していた。観覧席にまで幻術が届いている。市民が悲鳴を上げている。逃げようとする者同士がぶつかり合っている。
グレイヴの声が響いた。
「停止命令! TG-0439、停止!」
命令が通らない。テイム妖狐の暴走。制御紋が崩壊したのだ。先ほどの全力の幻術で魔核に過負荷がかかり、テイムの制御紋が耐えきれなくなった。
グレイヴが制御術を何度も飛ばしている。右手が光っている。だが妖狐は止まらない。恐怖で暴走している。三十年間の拘束と苦痛が、制御の枷が外れた瞬間に噴出している。
「なぜ……なぜ止まらない……!」
グレイヴの声に、初めて動揺が混じった。
テイムの制御が効かない。
テイマーギルドの幹部が、自分のテイム獣を制御できない。
衆目の前で。
皮肉だった。テイムの安全性を示すための実演で、テイムの限界が露呈した。
だが皮肉を味わっている余裕はなかった。幻術が広場を覆い続けている。市民が巻き込まれている。このままでは恐慌が広がる。踏みつけや転落で怪我人が出る。
立ち上がろうとした。膝が折れた。平衡感覚がない。地面がどこか分からない。
「ツル……!」
声を絞り出した。
「ツル、浄化を……風で幻術を……!」
白い影が視界の端に見えた。ツルだ。ツルも幻術を喰らっている。だが立っていた。膝が震えているが、立っている。
青い瞳が開いている。幻覚の中で俺を探している。
「ハルさま……!」
「風で祓えるか……!」
ツルが両手を上げた。白い風が広がった。浄化の羽風。
風が幻術の霧に触れた。霧が薄くなった。だが消えない。風が幻術を押し返しているが、妖狐の出力が風を上回っている。九尾の全力幻術は、ツルの通常の風では祓いきれない。
「足りない……」
ツルの声が震えた。
足りない。風だけでは。あと一段上の浄化が必要。それは——
「ツル、使うな!」
叫んだ。
ツルが俺を見た。幻覚の波の中で、青い瞳だけがはっきりと見えた。
泣いていた。
涙が頬を伝っている。だが目は俺を真っ直ぐ見ていた。
「使うな。約束しただろう。もう削るなって」
「……はい。約束しました。あの時、台所で」
あの時。ツルが羽根を抜いて布を織っていたのを見つけた夜。俺はツルの手から織り機を取り上げて、言った。もう削るな、と。自分を削って誰かに差し出すことが愛じゃない、と。
ツルはあの夜、約束した。もう羽根は抜かないと。
だが今、ツルは約束を破ろうとしていた。
「でも」
白い髪が風に広がった。
「ハルさまが死んだら、わたくしは翼があっても意味がないのです」
あの夜と同じ言葉。台所で泣いたあの夜と。だが今度は、泣きながら笑っていた。不格好な笑み。完璧ではない、柔らかい笑み。
「飛ぶ場所がなくなるのです。帰る場所が消えるのです。翼がなくても、ハルさまがいれば——」
「ツル——!」
ツルの背中から白い光が溢れた。
翼が実体化した。右の翼も、左の翼も。霊峰カイラで折られて以来、ようやく完全に回復していた二枚の翼が、白い光の中で広がった。
左翼から、羽根が散った。
一枚。二枚。五枚。十枚。風切羽が光の粒になって空に舞い上がった。白い光が広場を覆った。太陽が落ちてきたような眩さ。
止まらない。
ツルは加減していなかった。広場全体を覆う九尾の幻術を祓い切るために、左翼の羽根を全て注ぎ込んでいる。
幻術の霧が消えた。
薄紫の霧が白い光に洗い流されていく。広場全体を覆っていた幻覚が、水面の波紋のように外側から消えていく。
視界が戻った。平衡感覚が戻った。石畳が石畳に見える。空が空に見える。
ギンが立ち上がった。クロが目を開いた。アカが拳を握った。キサが——キサの目の焦点が戻った。
観覧席の市民たちの悲鳴が止んだ。幻術が消えて、全員が正気に戻っている。
テイム妖狐も止まっていた。
白い毛並みが垂れ、九尾が萎んで、広場の中央で蹲っている。暴走が収まったのではない。ツルの浄化が、テイムの制御紋の残滓ごと洗い流した。妖狐の目から、制御紋の光が消えていた。
代わりに、曇った金色の瞳が露出していた。三十年間テイムの光に覆われていた、本来の目の色。
そしてツルが崩れた。
膝が折れ、前のめりに倒れかけた。走って受け止めた。まだ平衡感覚が完全ではない足が縺れたが、体ごと滑り込んで間に合った。
ツルの体が軽かった。
異様に軽い。背中を支える手に、左翼の感触がなかった。右翼はまだある。だが左は——
背中に手を当てた。左翼の付け根の骨格だけが残っていた。そこから先は何もない。風切羽の全てが散った。ついさっきまで、完全に回復していた翼が。
「ツル」
「……はい」
掠れた声。目は開いている。青い瞳は曇っていない。意識はある。
「ハルさま、皆さまは」
「全員無事だ。お前のおかげで」
「そうですか。……よかった」
笑った。泣きながら。あの不格好な笑みを。
「約束……破りました」
「……ああ」
「怒って、くださいますか」
「後でな。今は寝てろ」
「……はい」
ツルの目が閉じた。気を失ったのではなく、安心して力が抜けたのだ。俺の腕の中で、白い髪が広がった。
広場が静まり返っていた。
グレイヴが立ち尽くしていた。
右手がまだ上がっている。制御術を送り続けていた手。だがもう送る先がない。テイム妖狐の制御紋は消えた。ツルの浄化が制御紋ごと洗い流した。
グレイヴの顔は白かった。
二十年前の夜と同じことが起きた。テイム獣の制御崩壊。暴走。だが今回は誰も死ななかった。ツルが身を削って止めた。
代償は、鶴の翼。
観覧席から声が上がった。
「テイム獣が暴走したぞ……」
「テイマーギルドの幹部が止められなかった」
「止めたのはあの白い髪の子だ。あの冒険者パーティーの」
「テイムでも暴走するのか。じゃあテイムが安全だって話は——」
声が広がっていく。グレイヴが示したかった「テイムの安全性」が、衆目の前で否定された。自分のテイム獣が、自分の実演の場で。
グレイヴの手がゆっくりと下りた。
鋭い目がこちらを見ていた。だが鋭さの中に、何か別のものが混じっていた。怒りではない。絶望でもない。
もっと静かな何か。二十年間信じてきたものに、罅が入った音を聞いた人間の顔だった。
◇
拠点。夜。
ツルを二階の部屋に寝かせた。意識は戻っている。だが体が動かない。大規模浄化の反動で魔核が一時的に枯渇している。
ゼノが夕方に来た。門の叩き方がいつもより静かだった。
ツルの背中を診た。眼鏡を外して、左翼の付け根を直接確認した。
長い沈黙の後、ゼノが眼鏡をかけ直した。
「左翼の風切羽が全て失われている。基部の骨格は残っているが、羽根の再生元になる組織が深刻な損傷を受けた」
「回復は」
「する。聖獣級の再生力なら、風切羽はいずれ戻る。だが一年以上かかる。飛行に十分な羽根が生え揃うまでには、もっとかかるかもしれない」
ゼノが俺を見た。偏屈な学者の目ではなく、医者の目だ。
「ハル君。これで再生組織の耐久限界が大幅に削られた。もう一度同じことをやれば、左翼は永久に失われる。二度目は、ない」
布団の中からツルの手が伸びた。俺の上着の裾を掴んでいる。細い指に力はほとんどない。だが離さない。
「ツル」
「はい」
「もう絶対に自分を犠牲にするな。二度目は約束じゃなく命令だ」
ツルの青い瞳が開いた。涙が一筋、白い頬を伝った。
「かしこ……まりました」
声が掠れていた。だが芯があった。
「……命に替えても」
「いや、それでは同じだ。俺と同じくらいに自分を大切にしろ」
「………はい」
ツルの指が俺の上着を少しだけ強く握った。
「でも、今度は自信があります。だって——」
泣き笑いの顔。不格好で、唇が歪んで、鼻の頭が赤い。
「ハルさまが、翼を使わなくて済む段取りを組んでくださるのでしょう。先日の峡谷のように」
灰岩峡谷。四十三秒の討伐。噴出孔を物理的に埋めて、ツルには風だけで浄化させた。あの段取りを、ツルは覚えている。
「ああ。組む。何度でも組む」
「なら、わたくしは信じます。翼を使わなくていい未来を」
完璧な微笑みとは程遠い。でも、一番いい顔だった。
「見ていてくださいませ、ハルさま。今度こそ、削りませんから」
「見てる。ずっと見てる」
ゼノが眼鏡を外して、そっぽを向いた。
「書庫に行く。邪魔をしたくないのでね」
声が少しだけ震えていた。
◇
翌朝。
ギルドの掲示板に、昨日の実演の報告が掲示されていた。
リノが書いた公式記録。事実だけを並べた、感情のない文面。
『テイマーギルド主催公開実演において、テイム獣(登録番号TG-0439)の制御崩壊が発生。広場全域に幻術が拡散し、市民を含む多数が影響を受けた。冒険者ハルのパーティーメンバーによる大規模浄化で事態は収束。重傷者なし。テイム獣は制御紋消失により一時保護下に置かれている』
掲示板の前に人だかりができていた。
「テイマーギルドの幹部が、自分のテイム獣を止められなかった」
「止めたのはテイムなしの冒険者の方だったぞ」
「テイムが安全って話、嘘じゃないか」
「恩義契約の審議、通すべきだろ。テイムだって完璧じゃないなら」
世論が動いていた。グレイヴが作ろうとした空気は、完全に逆流している。
テイムの安全性を示すはずの実演が、テイムの限界を証明した。
五日後の審議。力学が変わった。
だがその代償は——
拠点の二階で、白い髪の少女が眠っている。左の翼を失った背中で。
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