第36話 「狐の同族」
キサの手が震えていることに気づいたのは、朝食の後だった。
居間の木板の前に立つキサの背中は、いつもと変わらない。黒髪を一つに束ねて、一尾だけ出して、帳簿の紙を並べている。だが紙を押さえる左手の指先が、微かに揺れていた。
キサの手が震えるのを見たのは、門の前で血まみれで倒れていた夜以来だ。
声をかけずに、後ろから木板を見た。
帳簿ではなかった。
紙の上に書かれていたのは、テイマーギルドの内部文書の写し。登録番号、種族分類、管理者名、使役用途、収容場所。情報屋の手腕で入手した、公式には存在しないはずの書類だ。
『登録番号:TG-0439
種族:妖狐族(九尾亜種)
管理者:グレイヴ
使役用途:幻術による情報撹乱・尋問補助
収容場所:テイマーギルド幹部官舎・地下管理室
名称:なし
備考:大規模討伐作戦(30年前)にて捕獲。魔核劣化の兆候あり。定期的な魔核補修を実施中』
名称:なし。
テイム獣に名前をつけない。レクスと同じだ。三十年間、番号だけで呼ばれてきた。
「キサ」
声をかけた。
キサの肩が跳ねた。振り向かなかった。
「……おはようございます、ハルさま。少しお待ちくださいませ。資料の整理を——」
「手が震えてる」
キサの指が止まった。紙を押さえる手を見下ろして、自分でも気づいたようだった。左手を右手で握って、震えを押さえようとした。押さえきれなかった。
「……不覚ですわね」
声は平坦だった。策士の声。だがその声自体が震えていた。
「その資料、グレイヴのテイム妖狐の情報か」
「はい。昨夜、商会時代の伝手から届きました。テイマーギルドの内部登録情報の写しですわ」
「読んだ」
「では、お分かりになったかと思います。登録番号TG-0439。九尾亜種の妖狐。三十年前の大規模討伐で捕獲された個体。グレイヴの直属のテイム獣として、地下に繋がれて幻術の道具に使われている」
キサの声が事実を並べていく。情報屋の口調。感情を切り離して、データだけを伝える声。
だが震えは止まらなかった。
「キサ。その妖狐は、お前の知り合いか」
長い沈黙。
キサが振り向いた。
金色の目は乾いていた。涙はない。だが瞳の奥で何かが燃えていた。怒りではない。もっと深く、もっと古い感情。三十年分の重さを持った何かが、仮面の裏で暴れていた。
「姉ですわ」
一言だった。
「わたくしの、姉」
◇
居間の扉を閉めた。ギンたちには聞かせない方がいいと判断した。キサが望まない限り、他の仲間に共有するタイミングはキサ自身に決めさせるべきだ。
長椅子に座らせた。キサは座ったが、背筋は真っ直ぐだった。崩れまいとしている。策士の最後の砦が姿勢だった。
「話せるか」
「……隠しておく意味がなくなりましたので」
キサが膝の上で手を組んだ。震えを止めるために。
「わたくしたちの一族は、エルデの北東、深層の森に住んでおりました。九尾の妖狐は一族で十二体。全員が血縁です。長がおり、その下に姉妹がおりました。わたくしは末の妹で、姉は三番目の姉にあたります」
キサの目が遠くなった。三十年前を見ている。
「三十年前の春。テイマーギルドが大規模討伐隊を送り込んできました。妖狐の幻術が人間に害をなすという名目で。実際には、九尾の幻術を軍事利用したいテイマーギルドの上層部の判断でした。討伐ではなく、捕獲が目的だった」
「軍事利用」
「九尾の幻術は、広域に効く感覚撹乱です。戦場で使えば敵の陣形を崩せる。テイムして命令通りに動かせれば、兵器と変わらない。わたくしたちはそう見なされたのです」
キサの声は平坦なままだった。だが一尾の先が細かく震えている。
「討伐隊は百人を超えていました。テイマーが十二人。一族一体に対してテイマー一人。用意周到でしたわ。長が最初に倒れました。テイムではなく殺されました。抵抗が強すぎたから」
殺された。その一語をキサは感情なく言った。何度も反芻して擦り切れた言葉だった。
「残りの十一体のうち、六体がテイムされて捕獲されました。三体が殺されました。逃げ延びたのは二体。わたくしと、姉です」
「二体で逃げた」
「最初は二体でした。森の奥に逃げ込んで、追手を撒いて、三日間走り続けました。わたくしは当時まだ幼くて、人型化もままならなかった。姉がわたくしを背中に乗せて走ってくれました」
キサの手の震えが強くなった。組んだ指が白くなっている。
「四日目の朝。追手が追いついてきました。テイマーが二人と、テイムされた犬型の魔獣が三体。わたくしたちは疲れ切っていて、もう走れなかった」
声が少しだけ掠れた。
「姉が、わたくしを茂みの中に押し込みました。『動くな。声を出すな。わたくしが引きつける』と。そして——」
言葉が途切れた。
五秒。十秒。
キサが息を吸った。深く、ゆっくりと。
「姉は反対方向に走りました。九尾を全て出して、全力の幻術で追手の目を引きつけながら。わたくしは茂みの中で丸くなって、姉が追手を連れて消えていくのを見ていました。声を出せなかった。出したら見つかるから。姉がそう言ったから」
キサの膝の上に、水滴が落ちた。
涙だった。
金色の目から音もなく溢れていた。キサ自身も気づいていないようだった。頬を伝って顎を落ちて、組んだ手の上に落ちる。震えていた手が、涙で濡れていく。
「追手の声が遠ざかって、森が静かになって。わたくしは茂みから出て、姉が走っていった方角を見ました。何もありませんでした。姉の匂いだけが、薄く残っていた」
キサの声が崩れた。策士の声でも、情報屋の声でもない。子供の声だった。三十年前の茂みの中で、姉が消えていくのを見ていた子供の声。
「わたくしが逃げたから、姉は捕まったのです」
「違う」
「違いません。わたくしが走れていたら、二人で逃げられた。わたくしが幼くなければ、姉は囮になる必要がなかった。わたくしの代わりに姉が——三十年間、地下に繋がれて、番号で呼ばれて、幻術の道具にされて——」
「キサ」
「三十年ですわ」
声が震えた。仮面が砕ける音がした。
「三十年間、わたくしは一人で逃げて、一人で隠れて、一人で生きてきた。計算で生きてきた。感情を見せたら利用される。信頼したら裏切られる。だから計算だけを頼りにした。情報だけを武器にした。でも——」
キサの手が自分の胸を押さえた。
「ずっと此処が痛かった。姉を置いてきた日から、一日も消えなかった。計算で消せない痛みだけが、ずっとここにあった」
涙が止まらなくなっていた。策士の仮面の欠片が、最後の一枚まで剥がれ落ちていた。
俺はキサの向かいに座った。手は伸ばさなかった。キサは猫ではないが、今この瞬間は追い詰めてはいけない。話し終えるまで待つ。
キサが両手で顔を覆った。九尾が全て出た。白い尾が長椅子から溢れて、床に広がった。制御が効いていない。感情が尾に出ている。九本全てが不規則に震えていた。
しばらくそのままだった。キサの嗚咽だけが、閉じた居間に響いていた。
やがて、キサが顔を上げた。目は赤かったが、涙は止まっていた。
「……すみません。取り乱しました」
「取り乱してない。必要な話をした」
「情報屋としては失格ですわね。感情で判断を曇らせるなど」
「情報屋の話はしていない。家族の話だ」
キサの目が揺れた。
「キサ。一つだけ確認する。お前は姉を助けたいんだな」
「……はい」
「三十年間、そのために生きてきたんだな」
「はい」
「なら、任せろ」
キサの目が見開かれた。
「段取りを組む。姉を助ける。ただし単独行動はさせない。お前一人で殴り込んでも失敗する。三十年間一人でやって届かなかったものを、今度は六人でやる」
「ですが、審議の前に動けば——」
「審議の前には動かない」
俺は木板に立ち上がって、炭筆を取った。
「恩義契約が制度として認められれば、テイム獣の扱いに新しい選択肢が生まれる。テイムを解除して恩義契約に移行するという道ができる。法的根拠が生まれれば、正規の手続きで姉を救い出せる」
木板に書いた。
『恩義契約の制度化 → テイム獣の移行申請の法的根拠 → キサの姉の解放』
「殴り込みじゃない。書類で救う。規約で守る。俺の得意技だ」
キサが木板を見つめていた。書かれた三行を、何度も目でなぞっていた。
「……ハルさま」
「何だ」
「それは、審議が通らなければ成り立たない段取りですわ」
「ああ。だから通す。絶対に」
「絶対、などと」
「絶対だ。約束する」
キサの唇が震えた。笑おうとしていた。泣きながら笑おうとして、どちらにもなりきれない顔になった。
「……あなたの約束は、計算できませんわ」
「計算しなくていい。信じろ」
「信じる、ですか。三十年間、一度も使わなかった言葉ですわね」
「今日から使え」
キサが目を閉じた。涙が一筋、最後に流れて、顎から落ちた。
目を開けた時、金色の瞳は濡れていたが、澄んでいた。
「……信じますわ」
小さな声だった。三十年分の孤独を超えて、初めて口にした言葉。
九尾が少しずつ収まっていった。九本が一本に戻り、白い尾が穏やかに揺れた。
居間の外から足音がした。ギンの声が聞こえた。
「主さまー、クロが屋根裏から降りてこないんだけどー」
「洗濯物にイタズラしたのがバレるのが怖いのじゃろう」
「嘘ばっか! 人のせいにしないでくれる!? あんたのブレスのせいでしょ」
日常の音が、扉の向こうから流れ込んできた。
キサが微かに笑った。仮面ではない。計算でもない。ただ、この音が聞こえる場所にいることへの、小さな安堵の笑みだった。
「ハルさま」
「何だ」
「審議まで、あと十一日ですわね」
「ああ」
「わたくしにできることは全てやりますわ。資料も、票読みも、情報戦も。姉のためだけではなく——」
キサが居間の扉の方を見た。扉の向こうの騒がしい声を。
「ここにいる全員のために」
俺は頷いた。
十一日。この十一日で、キサの姉の三十年を取り戻す段取りを組む。
書類と数字と、六人分の信頼で。
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