第35話 「審議の席」
リノの草案が完成したのは、約束通り三日後だった。
ギルドのカウンターで受け取った書類は十二枚。恩義契約の定義、適用条件、管理責任の所在、既存のテイム制度との並立関係、試験導入の提案。全てが条文形式で整理されていた。
「リノさん、これ一人で書いたのか」
「はい。規約の条文に合わせた書式でないと上申が通りませんので」
リノの目の下に隈があった。三日で十二枚の法案草稿。しかも前例がない。既存の規約を一条ずつ確認しながら、矛盾が生じない形で新制度を組み込む作業。前世の法務部でも三週間はかかる仕事だ。
「無理したな」
「いいえ。久しぶりに楽しかったんです。前例のない書類を書くのは」
リノが小さく笑った。事務的な笑みではなかった。
「本日の午後、支部長がお時間を取ってくださいます。ハルさん、直接お会いになりますか」
「会う」
「では午後二時に、支部長室へ」
◇
冒険者ギルド・エルデ支部。支部長室。
部屋は思ったより狭かった。本棚が三面を埋め、残りの一面に窓がある。机の上は書類で覆われているが、積み方に規則性がある。左が処理済み、中央が審議中、右が未着手。分類が正確な人間の机だ。
椅子に座っていたのは、白髪の老人だった。七十代に見える。だが背筋は真っ直ぐで、目に曇りがない。鷲のように鋭い目が俺を捉えた。
「ハル君だね。リノから話は聞いている。座りなさい」
名前はエルドス。エルデ支部を二十年以上率いてきた支部長。リノが「実績主義者」と評した人物。
座った。書類の束をエルドスの前に置いた。
「目を通していただきたい。恩義契約の制度提案です」
「既にリノから概要は受け取っている。だが君の口から聞きたい。数字ではなく、言葉で」
エルドスの目が試している。書類の数字だけで判断するなら、とうに結論は出ているはずだ。言葉を求めるのは、数字の裏にある思想を確認するためだ。
「テイム術は百年の歴史がある有効な技術です。それを否定するつもりはありません」
最初にこれを言った。キサが用意した資料の中に、過去に否決された三件の類似提案の記録がある。三件とも否決理由は同じだった。「テイム術の否定につながる」。
「俺が提案するのは、テイムの代替ではなく、テイムと並立する新しい選択肢です。魔獣の自由意志を尊重した上で、互いの合意に基づいて結ぶ契約関係。これを恩義契約と呼んでいます」
「自由意志、か」
エルドスが顎を撫でた。
「テイムは魔獣の魔核に直接干渉して制御する技術だ。それがなぜ百年も使われてきたか分かるかね」
「安全だからです。制御された魔獣は暴走しない。命令に従い、人を傷つけない。少なくとも理論上は」
「その通り。理論上は、だ」
エルドスの目が少しだけ細くなった。
「だが現実にはテイム獣の暴走事故は年に数件報告されている。魔核の劣化、テイマーの技量不足、瘴気の干渉。理論上安全なものが、現実には完全ではない。それは私も長年見てきた」
エルドスが書類の束に手を置いた。
「君の実績を見た。Eランクから始めて三ヶ月足らずでCランク。テイムなしの同行魔獣五体。Aランク相当の討伐実績。南街道の殲滅。東部丘陵の討伐。全て数字で記録されている」
「数字は嘘をつきません」
「ああ。嘘をつかない。だから私は数字を信じる」
エルドスが書類を開いた。リノの草案。一枚一枚、丁寧に目を通している。既に読んでいるはずだが、俺の前でもう一度読む。それが礼儀だと考える人間だった。
五分。十分。
エルドスが最後の頁を閉じた。
「本部への上申を承認する」
短い一言だった。だがその一言の重さを、俺は理解していた。エルデ支部長の名前で上申するということは、エルドスの二十年の信用を担保にするということだ。
「ただし」
エルドスが指を一本立てた。
「テイマーギルドとの合同審議が必要になる。これは規約上避けられない。Aランク以上の魔獣関連制度の新設には、テイマーギルドの承認が要る」
「承知しています」
「合同審議の担当幹部は、テイマーギルド側から指名される。おそらくグレイヴだろう」
予想通りだった。
「グレイヴは手強いぞ。規約の知識は私以上だ。そして何より、信念がある。信念のある人間は数字では動かない」
「分かっています」
「分かっていて、やるのだね」
「やります」
エルドスが微かに笑った。鷲の目が僅かに和らいだ。
「リノが君のことを『規約がお好きな方です』と言っていた。規約で戦える冒険者は珍しい。剣より書類が得意な男が恩義契約を作るというのは、なかなか面白い」
「好きじゃありません。必要だからやってるだけです」
「四回目らしいな、その台詞」
支部長がにやりと笑う。リノから聞いたらしい。この支部長、情報の共有が速い。
◇
ギルドを出ると、外で待っていた四対の目が一斉にこちらを向いた。
ギンが真っ先に駆け寄ってきた。
「主さま! どうだった!」
「上申が通った。本部に提案が上がる」
「やった!」
ギンが飛び跳ねた。銀の尾がぶんぶん揺れる。隣の通行人が驚いて避けた。
「合同審議が二週間後に設定される。テイマーギルドとの共同審議だ。そこが本番」
「グレイヴが出てくるのね」
クロが腕を組んだ。
「ああ。担当幹部として」
「二週間で何を準備する」
「キサの資料を完成させる。法的根拠、前例の否決理由の反論、世論のデータ。全部揃えて審議に持ち込む」
キサが一尾を揺らした。金色の目が光っている。
「資料の八割は既に揃っていますわ。残りの二割はテイマーギルド内部の票読み。穏健派の副幹部二名の立場を確定させる必要があります」
「頼む」
「お任せくださいませ」
アカが俺の肩に飛び乗った。
「難しい話は妾には分からぬが、おぬしが勝つのなら応援するのじゃ」
「勝ち負けの話じゃない。制度を作る話だ」
「制度でも何でもよい。妾はおぬしの味方じゃ」
ツルが後ろから歩いてきた。
「ハルさま。帰りましたら夕食の支度をいたしますね。今日は皆さまの好物を」
「何かあったのか」
「いいえ。ただ、大事な日の食卓ですので」
大事なのはこれから、そう背中を押された気がした。
◇
拠点に戻って、夕食を済ませた後。
俺は書庫にいた。ゼノのメモとフィンのノートを並べて読み返している。恩義契約の理論的根拠を審議で問われた時のために、恩刻の法則をどこまで開示するか決める必要がある。
全てを話すのはまだ早い。恩刻の存在を公にすれば、それを悪用しようとする人間が必ず出る。だが審議で「なぜテイムなしで魔獣が従うのか」を説明できなければ、制度として認められない。
開示する範囲。隠す範囲。その線引きが、審議の成否を分ける。
前世の営業で企業秘密を守りながらプレゼンした時と構造は同じだ。見せるところと隠すところを段取りで制御する。
ドアが叩かれた。控えめなノック。
「入れ」
リノだった。帰り際にギルドで渡しそびれた書類があると言って、拠点まで持ってきてくれたらしい。
「すみません、遅くに」
「いや、助かる。何だ」
「合同審議の正式な日程通知です。二週間後の月曜日、午前十時。場所はギルド本部の大会議室。テイマーギルド側の出席者名簿がこちらです」
名簿を受け取った。三名。グレイヴ。副幹部のモーゼル。もう一人の副幹部のレイン。
「モーゼルとレインは穏健派ですか」
「モーゼルさんは穏健派です。テイム術の改良に関心がある方で、新制度にも理解を示す可能性があります。レインさんは……中立に近い方です。グレイヴさんに従う傾向がありますが、実績に基づく議論には応じる方だと聞いています」
「つまりグレイヴを説得できなくても、モーゼルとレインの二票を取れれば過半数か」
「そうなります。ただし——」
リノが声を落とした。
「グレイヴさんが審議に向けて資料を収集しています。テイムなし冒険者の危険性を示すための事例集だそうです」
「事例集?」
「過去にテイムなしで魔獣を連れた冒険者が事故を起こした例。魔獣の暴走による被害。そういった記録を集めていると」
「どこから情報を得てるんだ」
リノが一瞬だけ目を伏せた。
「資料の提供者リストに、レクスの名前がありました」
空気が変わった。
「レクスは資格停止中だろう」
「はい。ですが情報提供者としてギルドに出入りすることは規約上禁止されていません。資格停止は依頼の受注と報酬の受領を禁じるだけで、ギルド施設への立入り自体は——」
「制限されていない、か」
規約の穴だ。レクスは冒険者としては動けないが、グレイヴの情報源として機能できる。ハルのパーティーの内部事情を知る人間として。
レクスがどこまで知っているか。直接は知らないはずだ。だがレクスが見聞きした範囲の情報でも、グレイヴの手にかかれば「危険性の証拠」に仕立てられる。
「リノさん。レクスがグレイヴに提供した資料の内容は分かるか」
「現時点では不明です。ただ、キサさんの情報網なら——」
「ああ。キサに確認する」
リノが帰った後、居間でキサに伝えた。
キサの金色の目が細くなった。策士の顔だ。
「レクスさまですか。なるほど。資格停止の身で動ける範囲は限られますが、ハルさまのパーティーの初期情報を持っている点は厄介ですわね」
「どこまで知ってると思う」
「直接的な弱みは知らないでしょう。ですがギンさまが暴走しかけたことは渓谷の一件で目撃者がいます。その情報がレクスに渡っていれば、グレイヴが『テイムなしの魔獣は暴走のリスクがある』と主張する根拠になりますわ」
「対策は」
「暴走を止めた事実もセットで出しますわ。暴走のリスクがあること自体は否定しません。テイム獣にも暴走事故がある以上、リスクの有無ではなく対処の実績で語る方が有利です。ハルさまがギンさまを名前で呼んで止めた事実。これは制御術では再現できない。恩義契約の優位性を示す最大の証拠ですわ」
頭の中で審議のシミュレーションが回り始めた。グレイヴの攻撃パターン。こちらの防御と反論。モーゼルとレインを味方につけるための論点整理。
前世の大型案件のプレゼン準備と同じだ。相手の質問を想定して、回答を用意して、資料を揃えて、段取りを組む。
「二週間で仕上げる。キサ、資料の残り二割を頼む」
「承知しましたわ」
「全員に伝えてくれ。二週間後が本番だ」
キサが居間を出ていく時、一尾が大きく揺れた。
二週間。この二週間で、全てが決まる。
◇
同じ夜。テイマーギルド本部。
グレイヴの机の上に、レクスが持ち込んだ書類が広げられていた。
ハルのパーティーの初期情報。Eランク時代の依頼記録。同行魔獣の登録経緯。そして、渓谷でギンが暴走しかけたという目撃者の証言。
グレイヴはペンを取り、メモを書いた。丁寧で正確な字だった。
『テイムなしの同行魔獣、暴走事例あり。渓谷のBランク討伐中、フェンリル血統の個体が制御を離れ、冒険者の指示を逸脱。冒険者が前方に出て鎮静。結果として事故には至らなかったが、鎮静の手段は偶発的であり再現性に疑問』
ペンを置いた。
レクスが提供した情報は断片的だったが、審議の論点を補強するには十分だった。暴走の事実。制御の不確実性。それだけで、恩義契約の安全性に疑問を投げかけることができる。
だがグレイヴの表情は晴れなかった。
先週の公開依頼で、自分のテイム妖狐が制御を離れかけた記憶がまだ新しい。テイムの制御にも限界がある。それを誰より知っているのは自分自身だ。
引き出しの中の写真立てに、手が伸びた。今度は止めなかった。
色褪せた絵の中で、妻と子供が笑っている。
「……正しいことをしているのかは、分からない」
誰もいない部屋で、グレイヴは呟いた。
「だが、間違っていたとしても、止まれないんだ。お前たちを失った理由が嘘になるから」
写真を引き出しに戻した。
メモの束を整えて、鞄に入れた。
二週間後の審議に向けて、グレイヴもまた、段取りを組んでいた。
◇
────────────────────




