第34話 「クロの禁忌」
見るつもりはなかった。
討伐依頼を二件片付けた帰り道。夕暮れの拠点に着いて、俺は裏手の井戸で汗を流していた。ギンとアカは先に居間に入った。ツルは台所。キサは帳簿。いつもの配置だ。
井戸で顔を洗い終えて、裏庭を通って玄関に回ろうとした時。
風呂場の窓が開いていた。
覗くつもりはなかった。ただ通り道にあっただけだ。窓は半開きで、湯気が漏れていた。この時間に風呂を使うのはクロだけだ。クロは他の全員が風呂を済ませた後、一人で入る。いつもそうだった。理由は聞いていない。猫は一人を好む。そう思っていた。
窓の前を通り過ぎようとした。
視界の端に、黒い髪が映った。
立ち止まるべきではなかった。だが一瞬だけ、本当に一瞬だけ、視線が窓に引き寄せられた。
クロの背中が見えた。
湯に浸かっておらず、湯船の縁に腰掛けて体を拭いている途中だった。黒い髪が濡れて肩に張り付いている。そして——
背中一面に、傷があった。
古い傷だ。白く盛り上がった瘢痕が何本も走っている。鞭か棒で打たれた痕。規則的な間隔で、背中の上部から腰にかけて平行に並んでいる。数えきれない。十本では足りない。二十本に近い。
右の肩甲骨の下に、焼き印のような丸い痕があった。
左の脇腹に、刃物で抉られたような陥没がある。
そして、右耳。人型の時は髪で隠れている右耳の縁が、途中で裂けていた。耳の上部三分の一が欠損している。切られたのではない。引き千切られたような不揃いな断面。
獣型の時には気づかなかった。猫の耳は毛に覆われているから。だが人型の右耳には毛がない。裂けた断面がそのまま露出している。
全身の傷が、一瞬で目に入った。
同時に、クロが振り向いた。
オッドアイが俺を捉えた。
世界が止まった。
クロの顔から、全ての色が消えた。普段の不機嫌も、照れ隠しの棘も、俺の袖を掴む時の温かさも。全部消えて、ただ恐怖だけが残った。
見世物小屋で檻に入れられた獣の目だった。見られている。品定めされている。値踏みされている。そういう目。
「——見るな」
声が出ていなかった。唇だけが動いた。
次の瞬間、クロは窓から飛び出した。
裸のまま。濡れた体のまま。猫の跳躍力で二階の屋根に飛び移り、そのまま闇に消えた。
「クロ!」
叫んだ。返事はなかった。
◇
居間に戻ると、ギンが立ち上がった。俺の顔を見て、銀の耳が伏せた。
「主さま、何かあった。汗の匂い変わってる」
「クロが逃げた」
「逃げた?」
「風呂場で——偶然、背中を見てしまった」
ギンの目が大きくなった。
「クロの……傷?」
「知ってたのか」
「匂いで分かってた。古い傷の匂いがする。ずっと前から。でもクロが隠したがってたから、ギンは聞かなかった」
キサが帳簿を閉じた。金色の目が鋭い。
「クロさまはどちらへ」
「屋根から北に消えた。追う」
「お一人で?」
「ああ。大勢で追ったら余計に逃げる。猫は追い詰めると逃げる」
ツルが玄関に先回りしていた。手にクロのサイズの上着と毛布を持っている。
「裸でしたのですよね。夜は冷えます」
受け取った。ツルの判断は常に一手先を読んでいる。
「アカ。ヒノの様子も見てやってくれ」
「心得たのじゃ。だが、早く連れ戻せ。夕飯が冷める」
アカの声はいつもの尊大さだったが、角の根元が赤くなっていた。心配しているのだ。
門を出た。北に走る。
◇
クロの行き先に心当たりはあった。
市場裏の路地。木箱が積み上がった隙間。初めてクロと出会った場所だ。右前脚を折って蹲っていた黒猫が、金と碧のオッドアイで俺を睨んでいた場所。
月明かりの下を走った。エルデの夜は静かで、自分の足音だけが石畳に響く。前世のジョギングより速い。クロを追いかけるために鍛えたわけではないが、結果的に役に立っている。
市場裏に着いた。
木箱の隙間に、黒い影が蹲っていた。
あの日と同じ場所。同じ姿勢。膝を抱えて背中を丸めている。裸の肌に夜風が当たって、細かく震えていた。背中の傷痕が月光の下で白く浮かんでいる。
近づかなかった。三歩手前で足を止めた。猫の間合いだ。
「クロ」
「来ないで」
声が固かった。いつもの「来ないで」とは違う。拒絶ではなく、懇願だった。
「見たでしょ」
「見た」
「……最悪」
クロの声が震えた。
「見られたくなかった。誰にも。あんたにだけは、絶対に」
「俺にだけは、か」
「だって——」
言葉が途切れた。しばらく沈黙が続いた。木箱の隙間から猫の啜り泣きのような音が漏れた。泣いているのかと思ったが、違った。歯を食いしばっている音だった。泣くまいとして、顎が震えている音。
「あたしはね」
クロが膝に顔を埋めたまま話し始めた。
「ケットシーとして生まれたの。森の中で、母親と二匹で暮らしてた。人型にもなれたし、猫にもなれた。幸せだった。多分」
声が平坦だった。感情を切り離して事実だけを並べる声。何度も自分の中で反芻して、もう感情を使い果たした記憶を語る声だ。
「三つの時に母親が死んだ。瘴獣に襲われて。あたしだけ逃げた。逃げて、森の外に出た。そしたら人間がいた。人間はあたしを見て——」
膝に埋めた顔を上げなかった。
「珍しがった。ケットシーの子供は希少種だから。捕まえて、檻に入れて、見世物にした」
声が少し掠れた。
「最初はただ見せてただけ。客が来て、檻の外からあたしを見る。でもそのうち、客が退屈し始めた。見てるだけじゃ金にならない。だから芸を仕込もうとした。言うことを聞かないと叩いた。背中を棒で。何度も。何度も」
白い瘢痕の一本一本に、物語がある。
「焼き印は所有者の証。この猫は俺のものだって示すための。ここを」
右の肩甲骨の下を指した。触れはしなかった。
「耳は——」
声が止まった。
長い沈黙。
「逃げようとした時に、掴まれた。耳を掴んで引き戻そうとして。あたしが暴れて、千切れた」
右耳の裂けた縁。引き千切られた断面。人間の手で。
「逃げ出した後は野良になった。誰も信じなかった。人間に近づいたら捕まる。優しそうに見えても裏がある。手を伸ばされたら引っ掻く。近づいたら逃げる。ずっとそうやって生きてきた」
クロの体が小さく震えていた。夜風のせいだけではなかった。
「あんたが市場裏であたしの脚を治した時。あんたの手が温かかった。でも信じなかった。温かい手の後に殴る手が来るって知ってたから。干し肉を食べたのは腹が減ってたから。あんたの手で寝たのは——寒かっただけ。そう自分に言い聞かせた」
嘘だった。クロ自身が一番よく知っている嘘。
「でもあんたは殴らなかった。捕まえなかった。檻に入れなかった。名前をつけて、登録して、役割をくれて。あたしの足が速いことを『力がないんじゃなくて役割が違うだけだ』って言った」
あの日の台詞を、クロは一字一句覚えていた。
「あんたの隣にいたいって思った。初めて。生まれて初めて、誰かのそばにいたいって思った。だから——」
声が詰まった。
「この傷を見られたくなかった。あんたに。あたしがこんなにボロボロだって知られたら、気持ち悪がられるって。可哀想だって思われるのも嫌だった。同情なんかいらない。あたしは——あたしは対等でいたかったの。傷だらけの哀れな猫じゃなくて、あんたのパーティーの遊撃手として」
クロの声が途切れた。
俺はクロの三歩手前に座った。石畳の上に直接。目線をクロより低くした。
「クロ」
「……何よ」
「上着を持ってきた。寒いだろう」
手を伸ばさなかった。上着を地面に置いて、クロの手が届く位置に滑らせた。猫に物を渡す時は、直接手渡さない。相手の間合いの中に置いて、自分から取らせる。保護猫カフェの三年間で体が覚えていた。
クロの手が伸びた。細い指が上着を掴んで、肩にかけた。
「……ツルでしょ、これ用意したの」
「分かるのか」
「匂い。ツルさんの洗剤の匂いがする」
鼻がいい。泣きそうな時でも鼻は利く。
「クロ。一つだけ言っていいか」
「……聞くわ」
「お前の傷を見て、気持ち悪いとは思わなかった」
クロの肩が跳ねた。
「可哀想だとも思わなかった」
「……嘘」
「嘘じゃない。だけど怒りが沸いた」
クロが顔を上げた。オッドアイが月光を受けて光っている。金と碧。涙は流れていなかった。流すまいと堪えている目だった。
「お前をそうした奴に、だ。棒で叩いた奴、焼き印を押した奴、耳を千切った奴。全員に。昔俺が潰れかけた時、誰も助けてくれなかった。あの時と同じ怒りだ。理不尽に傷つけられた奴を見ると、腹の底が煮える」
声が硬くなっていた。自分でも分かった。感情が出すぎている。俺は感情だけで動かない。だが今は仕事の話をしているのではなかった。
「お前は哀れな猫なんかじゃない。パーティーの遊撃手で、索敵の要で、俺の左側を歩く奴だ。傷があろうがなかろうが、それは変わらない」
「綺麗事よ。傷を見たくせに。あたしの背中、あんなに——」
「見た。見た上で言ってる。傷も含めてお前だ。お前の足の速さも、屋根裏のハンモックも、俺の上着を枕にして寝ることも、おやすみを言ったのも全部。傷もその全部の中にある。別のものじゃない」
クロの目が揺れた。
堤防が決壊するように、金色と碧色の瞳から涙が溢れた。
声は出なかった。ただ、涙が止まらなかった。猫は泣かない。泣かないはずの猫が、月光の下で音もなく泣いていた。
俺は動かなかった。三歩の距離を詰めなかった。猫は追い詰めると逃げる。だが——
クロが動いた。
膝から崩れるように前に倒れて、俺の胸にぶつかった。
細い腕が背中に回った。上着越しに、クロの指が俺の背中を掴んだ。爪が食い込むほどの力で。
初めてだった。
路地裏で保護した日から数えて、クロが自分から俺に抱きついたのは。袖を掴んだ夜はあった。隣に座った朝はあった。だが抱きついたことは一度もなかった。
小さな体が震えていた。裸の肩が上着からはみ出して冷えている。背中の傷痕が俺の腕の下にあった。盛り上がった瘢痕の感触が掌に伝わった。
俺はクロの背中に手を置いた。傷の上に。逃げなかった。震えが少しだけ弱まった。
「ずっと……一人だった」
くぐもった声が胸に当たった。
「誰にも見せられなかった。ギンにも、ツルさんにも。見せたら壊れると思った。あたしが作った『強い猫』が壊れて、哀れな傷だらけの子供に戻っちゃうと思った」
「壊れてない。壊れてないよ」
「でも今、泣いてる」
「泣いてていい。泣いても壊れない」
「……バカ。あんた、ほんとバカ」
クロの声が震えていた。だが、抱きつく力は緩まなかった。
どれくらいそうしていたか分からない。月が傾いて、市場裏の路地の影が長くなった頃。クロの震えが止まった。
「……寒い」
「そりゃ裸だからだ」
「あんたのせいでしょ」
「俺のせいか」
「見たのはあんた」
「それはすまなかった」
「すまなかったで済むと思って——」
言葉が途切れた。クロの腕が離れた。俺の胸から顔を上げて、少し離れた。オッドアイが、月光の中で俺を見つめていた。涙の痕が頬に光っている。
猫耳が伏せていた。右耳の裂けた縁が、髪の隙間から見えている。今までなら慌てて隠しただろう。だが、隠さなかった。
「あたしの傷、気持ち悪くないって言った」
「言った」
「怒ったって言った」
「言った」
「傷も含めてあたしだって言った」
「言った」
「……全部、覚えてるから」
クロの目が真っ直ぐだった。涙の後の、洗われたような透明さがあった。
「忘れても言い直す。何度でも」
「……バカ」
二回目の「バカ」は、さっきとは温度が違った。
俺は毛布を広げてクロの肩にかけた。上着の上から。
「帰ろう。ツルの夕飯が冷める」
「……うん」
立ち上がって、歩き出した。
市場裏の路地を出て、石畳の通りに出た。月明かりが道を照らしている。
クロは俺の左側を歩いた。いつもの位置だ。だが距離が違った。いつもの一歩が、半歩になっていた。
肩が触れる距離。
猫にしては、近すぎる距離だった。
しばらく無言で歩いた。拠点の門が見えてきた。灯りが漏れている。ツルが待っているのだろう。
門の前で、クロが立ち止まった。
俺も止まった。
クロが俺を見上げた。オッドアイが月光を受けて、金と碧の二色に光っている。
「——ハル」
俺の名前だった。
「あんた」ではなく。
初めて、クロが俺を名前で呼んだ。
「ありがと」
小さな声だった。夜風に溶けてしまいそうな声。だが確かに聞こえた。
次の瞬間。
「忘れなさい今の」
クロが背を向けた。毛布を頭から被って、門をくぐって、居間に入っていった。黒い尻尾が毛布の下からはみ出して、ぱたぱたと揺れていた。
忘れない。
忘れるわけがない。
門の前に立ったまま、月を見上げた。秋の月は白くて冷たい。だが胸の奥は、やけに温かかった。
◇
居間に戻ると、ギンが飛びついてきた。
「主さま! クロ帰ってきた! 泣いた顔してたけど笑ってた!」
「そうか」
「ギンにはよく分かんないけど、いいことがあったんだよね?」
「ああ。いいことがあった」
食卓にツルの煮込みが並んでいた。温め直してあった。六人分の皿。六脚の椅子。
クロはもう席に着いていた。毛布を脱いで、上着を着て。髪は乾ききっていないが、顔を洗ったらしい。涙の痕は消えていた。
いつもの席。俺の左隣。
俺が座ると、クロがちらりとこちらを見た。
「……遅い」
「お前が先に入ったからだ」
「猫の方が速いの。当然でしょ」
いつもの口調だった。いつもの距離感。いつもの棘。
だが。
食卓の下で、クロの手が俺の上着の裾を掴んでいた。指先だけの、小さな力で。
見なかった。見ないでおいた。
猫の感謝は、受け取らない方がいい。受け取ると照れて引っ込む。
前世の猫動画で学んだ。
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