表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放されたスキルなしの荷物持ち、助けた魔獣が美少女になったんだが愛が激重で誰も離してくれない  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/69

第34話 「クロの禁忌」


 見るつもりはなかった。


 討伐依頼を二件片付けた帰り道。夕暮れの拠点に着いて、俺は裏手の井戸で汗を流していた。ギンとアカは先に居間に入った。ツルは台所。キサは帳簿。いつもの配置だ。


 井戸で顔を洗い終えて、裏庭を通って玄関に回ろうとした時。


 風呂場の窓が開いていた。


 覗くつもりはなかった。ただ通り道にあっただけだ。窓は半開きで、湯気が漏れていた。この時間に風呂を使うのはクロだけだ。クロは他の全員が風呂を済ませた後、一人で入る。いつもそうだった。理由は聞いていない。猫は一人を好む。そう思っていた。


 窓の前を通り過ぎようとした。


 視界の端に、黒い髪が映った。


 立ち止まるべきではなかった。だが一瞬だけ、本当に一瞬だけ、視線が窓に引き寄せられた。


 クロの背中が見えた。


 湯に浸かっておらず、湯船の縁に腰掛けて体を拭いている途中だった。黒い髪が濡れて肩に張り付いている。そして——


 背中一面に、傷があった。


 古い傷だ。白く盛り上がった瘢痕が何本も走っている。鞭か棒で打たれた痕。規則的な間隔で、背中の上部から腰にかけて平行に並んでいる。数えきれない。十本では足りない。二十本に近い。


 右の肩甲骨の下に、焼き印のような丸い痕があった。


 左の脇腹に、刃物で抉られたような陥没がある。


 そして、右耳。人型の時は髪で隠れている右耳の縁が、途中で裂けていた。耳の上部三分の一が欠損している。切られたのではない。引き千切られたような不揃いな断面。


 獣型の時には気づかなかった。猫の耳は毛に覆われているから。だが人型の右耳には毛がない。裂けた断面がそのまま露出している。


 全身の傷が、一瞬で目に入った。


 同時に、クロが振り向いた。


 オッドアイが俺を捉えた。


 世界が止まった。


 クロの顔から、全ての色が消えた。普段の不機嫌も、照れ隠しの棘も、俺の袖を掴む時の温かさも。全部消えて、ただ恐怖だけが残った。


 見世物小屋で檻に入れられた獣の目だった。見られている。品定めされている。値踏みされている。そういう目。


「——見るな」


 声が出ていなかった。唇だけが動いた。


 次の瞬間、クロは窓から飛び出した。


 裸のまま。濡れた体のまま。猫の跳躍力で二階の屋根に飛び移り、そのまま闇に消えた。


「クロ!」


 叫んだ。返事はなかった。



        ◇



 居間に戻ると、ギンが立ち上がった。俺の顔を見て、銀の耳が伏せた。


(ぬし)さま、何かあった。汗の匂い変わってる」


「クロが逃げた」


「逃げた?」


「風呂場で——偶然、背中を見てしまった」


 ギンの目が大きくなった。


「クロの……傷?」


「知ってたのか」


「匂いで分かってた。古い傷の匂いがする。ずっと前から。でもクロが隠したがってたから、ギンは聞かなかった」


 キサが帳簿を閉じた。金色の目が鋭い。


「クロさまはどちらへ」


「屋根から北に消えた。追う」


「お一人で?」


「ああ。大勢で追ったら余計に逃げる。猫は追い詰めると逃げる」


 ツルが玄関に先回りしていた。手にクロのサイズの上着と毛布を持っている。


「裸でしたのですよね。夜は冷えます」


 受け取った。ツルの判断は常に一手先を読んでいる。


「アカ。ヒノの様子も見てやってくれ」


「心得たのじゃ。だが、早く連れ戻せ。夕飯が冷める」


 アカの声はいつもの尊大さだったが、角の根元が赤くなっていた。心配しているのだ。


 門を出た。北に走る。



        ◇



 クロの行き先に心当たりはあった。


 市場裏の路地。木箱が積み上がった隙間。初めてクロと出会った場所だ。右前脚を折って蹲っていた黒猫が、金と碧のオッドアイで俺を睨んでいた場所。


 月明かりの下を走った。エルデの夜は静かで、自分の足音だけが石畳に響く。前世のジョギングより速い。クロを追いかけるために鍛えたわけではないが、結果的に役に立っている。


 市場裏に着いた。


 木箱の隙間に、黒い影が蹲っていた。


 あの日と同じ場所。同じ姿勢。膝を抱えて背中を丸めている。裸の肌に夜風が当たって、細かく震えていた。背中の傷痕が月光の下で白く浮かんでいる。


 近づかなかった。三歩手前で足を止めた。猫の間合いだ。


「クロ」


「来ないで」


 声が固かった。いつもの「来ないで」とは違う。拒絶ではなく、懇願だった。


「見たでしょ」


「見た」


「……最悪」


 クロの声が震えた。


「見られたくなかった。誰にも。あんたにだけは、絶対に」


「俺にだけは、か」


「だって——」


 言葉が途切れた。しばらく沈黙が続いた。木箱の隙間から猫の啜り泣きのような音が漏れた。泣いているのかと思ったが、違った。歯を食いしばっている音だった。泣くまいとして、顎が震えている音。


「あたしはね」


 クロが膝に顔を埋めたまま話し始めた。


「ケットシーとして生まれたの。森の中で、母親と二匹で暮らしてた。人型にもなれたし、猫にもなれた。幸せだった。多分」


 声が平坦だった。感情を切り離して事実だけを並べる声。何度も自分の中で反芻して、もう感情を使い果たした記憶を語る声だ。


「三つの時に母親が死んだ。瘴獣に襲われて。あたしだけ逃げた。逃げて、森の外に出た。そしたら人間がいた。人間はあたしを見て——」


 膝に埋めた顔を上げなかった。


「珍しがった。ケットシーの子供は希少種だから。捕まえて、檻に入れて、見世物にした」


 声が少し掠れた。


「最初はただ見せてただけ。客が来て、檻の外からあたしを見る。でもそのうち、客が退屈し始めた。見てるだけじゃ金にならない。だから芸を仕込もうとした。言うことを聞かないと叩いた。背中を棒で。何度も。何度も」


 白い瘢痕の一本一本に、物語がある。


「焼き印は所有者の証。この猫は俺のものだって示すための。ここを」


 右の肩甲骨の下を指した。触れはしなかった。


「耳は——」


 声が止まった。


 長い沈黙。


「逃げようとした時に、掴まれた。耳を掴んで引き戻そうとして。あたしが暴れて、千切れた」


 右耳の裂けた縁。引き千切られた断面。人間の手で。


「逃げ出した後は野良になった。誰も信じなかった。人間に近づいたら捕まる。優しそうに見えても裏がある。手を伸ばされたら引っ掻く。近づいたら逃げる。ずっとそうやって生きてきた」


 クロの体が小さく震えていた。夜風のせいだけではなかった。


「あんたが市場裏であたしの脚を治した時。あんたの手が温かかった。でも信じなかった。温かい手の後に殴る手が来るって知ってたから。干し肉を食べたのは腹が減ってたから。あんたの手で寝たのは——寒かっただけ。そう自分に言い聞かせた」


 嘘だった。クロ自身が一番よく知っている嘘。


「でもあんたは殴らなかった。捕まえなかった。檻に入れなかった。名前をつけて、登録して、役割をくれて。あたしの足が速いことを『力がないんじゃなくて役割が違うだけだ』って言った」


 あの日の台詞を、クロは一字一句覚えていた。


「あんたの隣にいたいって思った。初めて。生まれて初めて、誰かのそばにいたいって思った。だから——」


 声が詰まった。


「この傷を見られたくなかった。あんたに。あたしがこんなにボロボロだって知られたら、気持ち悪がられるって。可哀想だって思われるのも嫌だった。同情なんかいらない。あたしは——あたしは対等でいたかったの。傷だらけの哀れな猫じゃなくて、あんたのパーティーの遊撃手として」


 クロの声が途切れた。


 俺はクロの三歩手前に座った。石畳の上に直接。目線をクロより低くした。


「クロ」


「……何よ」


「上着を持ってきた。寒いだろう」


 手を伸ばさなかった。上着を地面に置いて、クロの手が届く位置に滑らせた。猫に物を渡す時は、直接手渡さない。相手の間合いの中に置いて、自分から取らせる。保護猫カフェの三年間で体が覚えていた。


 クロの手が伸びた。細い指が上着を掴んで、肩にかけた。


「……ツルでしょ、これ用意したの」


「分かるのか」


「匂い。ツルさんの洗剤の匂いがする」


 鼻がいい。泣きそうな時でも鼻は利く。


「クロ。一つだけ言っていいか」


「……聞くわ」


「お前の傷を見て、気持ち悪いとは思わなかった」


 クロの肩が跳ねた。


「可哀想だとも思わなかった」


「……嘘」


「嘘じゃない。だけど怒りが沸いた」


 クロが顔を上げた。オッドアイが月光を受けて光っている。金と碧。涙は流れていなかった。流すまいと堪えている目だった。


「お前をそうした奴に、だ。棒で叩いた奴、焼き印を押した奴、耳を千切った奴。全員に。昔俺が潰れかけた時、誰も助けてくれなかった。あの時と同じ怒りだ。理不尽に傷つけられた奴を見ると、腹の底が煮える」


 声が硬くなっていた。自分でも分かった。感情が出すぎている。俺は感情だけで動かない。だが今は仕事の話をしているのではなかった。


「お前は哀れな猫なんかじゃない。パーティーの遊撃手で、索敵の要で、俺の左側を歩く奴だ。傷があろうがなかろうが、それは変わらない」


「綺麗事よ。傷を見たくせに。あたしの背中、あんなに——」


「見た。見た上で言ってる。傷も含めてお前だ。お前の足の速さも、屋根裏のハンモックも、俺の上着を枕にして寝ることも、おやすみを言ったのも全部。傷もその全部の中にある。別のものじゃない」


 クロの目が揺れた。


 堤防が決壊するように、金色と碧色の瞳から涙が溢れた。


 声は出なかった。ただ、涙が止まらなかった。猫は泣かない。泣かないはずの猫が、月光の下で音もなく泣いていた。


 俺は動かなかった。三歩の距離を詰めなかった。猫は追い詰めると逃げる。だが——


 クロが動いた。


 膝から崩れるように前に倒れて、俺の胸にぶつかった。


 細い腕が背中に回った。上着越しに、クロの指が俺の背中を掴んだ。爪が食い込むほどの力で。


 初めてだった。


 路地裏で保護した日から数えて、クロが自分から俺に抱きついたのは。袖を掴んだ夜はあった。隣に座った朝はあった。だが抱きついたことは一度もなかった。


 小さな体が震えていた。裸の肩が上着からはみ出して冷えている。背中の傷痕が俺の腕の下にあった。盛り上がった瘢痕の感触が掌に伝わった。


 俺はクロの背中に手を置いた。傷の上に。逃げなかった。震えが少しだけ弱まった。


「ずっと……一人だった」


 くぐもった声が胸に当たった。


「誰にも見せられなかった。ギンにも、ツルさんにも。見せたら壊れると思った。あたしが作った『強い猫』が壊れて、哀れな傷だらけの子供に戻っちゃうと思った」


「壊れてない。壊れてないよ」


「でも今、泣いてる」


「泣いてていい。泣いても壊れない」


「……バカ。あんた、ほんとバカ」


 クロの声が震えていた。だが、抱きつく力は緩まなかった。


 どれくらいそうしていたか分からない。月が傾いて、市場裏の路地の影が長くなった頃。クロの震えが止まった。


「……寒い」


「そりゃ裸だからだ」


「あんたのせいでしょ」


「俺のせいか」


「見たのはあんた」


「それはすまなかった」


「すまなかったで済むと思って——」


 言葉が途切れた。クロの腕が離れた。俺の胸から顔を上げて、少し離れた。オッドアイが、月光の中で俺を見つめていた。涙の痕が頬に光っている。


 猫耳が伏せていた。右耳の裂けた縁が、髪の隙間から見えている。今までなら慌てて隠しただろう。だが、隠さなかった。


「あたしの傷、気持ち悪くないって言った」


「言った」


「怒ったって言った」


「言った」


「傷も含めてあたしだって言った」


「言った」


「……全部、覚えてるから」


 クロの目が真っ直ぐだった。涙の後の、洗われたような透明さがあった。


「忘れても言い直す。何度でも」


「……バカ」


 二回目の「バカ」は、さっきとは温度が違った。


 俺は毛布を広げてクロの肩にかけた。上着の上から。


「帰ろう。ツルの夕飯が冷める」


「……うん」


 立ち上がって、歩き出した。


 市場裏の路地を出て、石畳の通りに出た。月明かりが道を照らしている。


 クロは俺の左側を歩いた。いつもの位置だ。だが距離が違った。いつもの一歩が、半歩になっていた。


 肩が触れる距離。


 猫にしては、近すぎる距離だった。


 しばらく無言で歩いた。拠点の門が見えてきた。灯りが漏れている。ツルが待っているのだろう。


 門の前で、クロが立ち止まった。


 俺も止まった。


 クロが俺を見上げた。オッドアイが月光を受けて、金と碧の二色に光っている。


「——ハル」


 俺の名前だった。


「あんた」ではなく。


 初めて、クロが俺を名前で呼んだ。


「ありがと」


 小さな声だった。夜風に溶けてしまいそうな声。だが確かに聞こえた。


 次の瞬間。


「忘れなさい今の」


 クロが背を向けた。毛布を頭から被って、門をくぐって、居間に入っていった。黒い尻尾が毛布の下からはみ出して、ぱたぱたと揺れていた。


 忘れない。


 忘れるわけがない。


 門の前に立ったまま、月を見上げた。秋の月は白くて冷たい。だが胸の奥は、やけに温かかった。



        ◇



 居間に戻ると、ギンが飛びついてきた。


(ぬし)さま! クロ帰ってきた! 泣いた顔してたけど笑ってた!」


「そうか」


「ギンにはよく分かんないけど、いいことがあったんだよね?」


「ああ。いいことがあった」


 食卓にツルの煮込みが並んでいた。温め直してあった。六人分の皿。六脚の椅子。


 クロはもう席に着いていた。毛布を脱いで、上着を着て。髪は乾ききっていないが、顔を洗ったらしい。涙の痕は消えていた。


 いつもの席。俺の左隣。


 俺が座ると、クロがちらりとこちらを見た。


「……遅い」


「お前が先に入ったからだ」


「猫の方が速いの。当然でしょ」


 いつもの口調だった。いつもの距離感。いつもの棘。


 だが。


 食卓の下で、クロの手が俺の上着の裾を掴んでいた。指先だけの、小さな力で。


 見なかった。見ないでおいた。


 猫の感謝は、受け取らない方がいい。受け取ると照れて引っ込む。


 前世の猫動画で学んだ。




  





────────────────────

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ