第33話 「恩義契約」
ゼノが帰った翌朝、俺は木板の前に立っていた。
依頼管理でも収支表でもない。白紙の板に、一つの言葉だけが書かれている。
『恩義契約』
昨夜、ゼノの発見を聞いてから頭の中で回り続けていた構想だ。眠れなかった。ギンが隣で寝息を立てている間、天井を見つめてずっと考えていた。
テイムの解除方法が見つかるかもしれない。フィンの研究が、その扉を開きかけている。だが解除した後のことを誰も考えていない。テイムを解かれた魔獣はどうなる。野に放たれるのか。また別のテイマーに捕まるのか。ヒノのように行き場を失って、どこかの門の前で蹲るのか。
解除だけでは足りない。解除した後の「関係」を制度として作らなければ、同じことが繰り返される。
テイムに代わるもの。魔獣の意思を上書きしない契約。互いの合意で結び、互いの意思で解消できる関係。
恩刻の法則がその基盤になる。純粋な善意で生まれた恩が、忘れられない記憶として魂に刻まれる。行動を強制しない。自由意志を残したまま、恩を土台にした信頼で繋がる。
それを制度にする。
「ハルさま、朝食です」
ツルの声で我に返った。食卓には六人分の粥が並んでいる。俺だけが木板の前で立ったまま朝を迎えていた。
「……ああ。すまん」
「難しい顔してたわね。何時間立ってたの」
クロが席に着きながら言った。
「覚えてない」
「少なくとも三時間以上ですわ。わたくし、夜中にお手洗いに起きた時にもう立っていらっしゃいましたので」
キサが茶を啜りながら、木板の文字を読んだ。金色の目が細くなった。
「恩義契約。……なるほど」
「主さま、それ何?」
ギンが粥を頬張りながら首を傾げた。
「新しい制度の構想だ。テイムの代わりになるもの」
「テイムの代わり?」
「ギンとの関係をそのまま制度にすると思えばいい。テイムみたいに命令で縛るんじゃなくて、互いが納得した上で一緒にいるという契約を、ギルドの公式な枠組みとして認めさせる」
ギンが瞬きした。粥のついたスプーンを止めたまま。
「……ギンと主さまの関係が、みんなにも?」
「そういうことだ。俺たちだけの特例じゃなく、誰でも使える制度にする」
アカが椅子の上で正座して、腕を組んだ。
「つまり、妾とおぬしの関係を他の者も真似できるようになるということか。妾は反対じゃ。妾とおぬしの絆は唯一無二であるべき——」
「そういう話じゃない」
「……むぅ」
「テイムされて苦しんでる魔獣を助けるための仕組みだ。ヒノみたいに逃げ出して行き場のない奴や、キサの同族みたいにまだ縛られてる奴を、正規の手続きで解放して保護する道を作る」
キサの手が止まった。茶碗をゆっくり置いて、俺を見た。
「……それは、わたくしの同族にも適用されますの?」
「最終的にはそうしたい。だが順番がある。まずは制度を作って認めさせないと、何も始まらない」
キサが黙った。金色の目の奥で何かが動いている。計算ではない。もっと深い場所にあるものが震えている。
「まずリノに相談する。午前中にギルドへ行く」
◇
ギルドのカウンターは午前の凪の時間だった。冒険者はまばらで、リノは書類の整理をしていた。
俺が来たのを見て、リノがペンを置いた。表情で分かったのだろう。依頼の報告や昇格の手続きで来た時とは空気が違うことに。
「ハルさん。今日は依頼ではなさそうですね」
「ああ。少し込み入った話になる。時間をもらえるか」
リノが周囲を確認した。他の受付嬢に目配せして、カウンターの端に移動する。声が周囲に届きにくい位置だ。
俺は手短に説明した。恩刻の法則。テイムとの根本的な違い。互いの合意に基づく契約という概念。そしてそれを制度化する構想。
リノは黙って聞いていた。メモを取らなかった。取れない内容だと判断したのだろう。受付嬢の判断力は相変わらず鋭い。
話し終えた後、リノが数秒間押し黙った。
「……ハルさん。正直に申し上げます」
「聞こう」
「制度として認めさせるには、冒険者ギルドとテイマーギルドの両方の承認が必要です。冒険者ギルド側は実績ベースで議論できますが、テイマーギルド側は話が別です。テイム術はテイマーギルドの存在基盤そのものです。それに代わる制度を認めるということは、自分たちの存在意義を揺るがすことになる」
「分かっている」
「今の状態では通りません。少なくとも、テイマーギルドの幹部会議で門前払いにされます。議論のテーブルにすら乗らない可能性が高い」
リノの声は事務的だったが、目は真剣だった。敵意ではない。現実を正確に伝えようとしている。
「ただし」
リノが言葉を継いだ。
「ハルさんの実績があれば、少なくとも冒険者ギルド側の議論のテーブルには乗せられます。Aランク相当の戦績、テイムなしでの同行魔獣五体の運用実績、南街道の殲滅、東部丘陵の討伐。数字がある。数字は無視できません」
「数字で押せるか」
「押せます。冒険者ギルドの支部長は実績を重視する方です。制度の提案として上げれば、本部への上申は通るでしょう。問題はその後です。テイマーギルドとの合同審議に入った時に、どう乗り越えるか」
「グレイヴか」
リノが僅かに顔を曇らせた。
「はい。グレイヴさんはテイマーギルドの幹部会議で最も発言力のある方です。あの方が反対すれば、合同審議は否決されます」
「グレイヴを説得する方法は」
「……正直なところ、私にはわかりません。規約や実績では動かない方だと思います。信念で動く人です」
信念。二十年前に家族を失った夜から、グレイヴが握りしめてきたもの。支配こそが安全だ。信頼では守れない。
俺にはまだグレイヴを動かす手札がない。だが、テーブルに着くことはできる。テーブルに着けば交渉が始まる。交渉が始まれば段取りの余地がある。
「リノさん。まず冒険者ギルド側の上申を頼む。恩義契約の制度提案として。俺の名前と実績を添えて」
「分かりました。書類は私が作ります。支部長への口添えもします」
リノがペンを取った。
「ハルさん。一つだけ」
「何だ」
「この提案が通ったとしても、テイム術が廃止されるわけではありません。恩義契約はテイムの代替ではなく、テイムと並立する選択肢として提案する形が現実的です。テイマーギルドの全面否定ではなく、新しい選択肢の追加。そういう建て付けでないと、議論の入り口すら開きません」
「並立か」
「はい。テイムを選ぶ者はテイムを続ける。恩義契約を選ぶ者は恩義契約を結ぶ。どちらも公式に認められた制度として。そうすれば、テイマーギルドの存在を否定せずに済みます」
頭の中で構想が修正された。テイムの否定ではなく、選択肢の拡張。攻撃ではなく提案。相手の領分を奪うのではなく、隣に新しい椅子を置く。
前世の営業と同じだ。競合を潰すのではなく、市場を広げる。広げた分のパイを取る。
「それでいく。書類を頼む」
「はい。三日以内に草案をお見せします」
リノが小さく笑った。受付嬢の事務的な笑顔ではなく、協力者としての笑み。
「ハルさんは本当に規約と書類がお好きですね」
「好きじゃない。三回目だぞその台詞」
「それはもう好きと同義ですよ」
◇
拠点に戻ると、キサが居間の木板の前に立っていた。
板に紙が追加されている。三枚。キサの筆跡だ。
「お帰りなさいませ、ハルさま。留守の間に少し整理しておきましたわ」
一枚目。恩義契約を制度化する際に必要な法的根拠の一覧。冒険者ギルド規約の該当条文、テイマーギルドの設立認可に関する王国法の条項、そして過去に類似の提案がなされた事例が三件。全て文献番号つき。
「この三件はいずれも否決されていますが、否決理由が記録に残っています。逆に言えば、否決理由を潰せば通る可能性があるということですわ」
二枚目。世論の動向。商人組合の声明、街の酒場で拾った冒険者の反応、掲示板に貼られた報告書への市民の評判。全て日付と出典つき。
「南街道の一件以降、テイムなしの冒険者への評価が明確に好転しています。商人組合は物流再開の恩恵で特に好意的ですわ。この空気を使えます」
三枚目。テイマーギルド内部の派閥図。強硬派と穏健派の勢力配置、キーパーソンの名前と立場。グレイヴの名前に赤い丸がついている。
「グレイヴさまが最大の障壁であることは明白ですが、テイマーギルドの全員が強硬派というわけではありません。穏健派の副幹部が二名。この二名を味方につければ、幹部会議の票が割れます」
三枚の紙を見渡した。
朝、出かける前に俺が構想を話しただけだ。半日で、ここまで揃えた。
「……いつ調べた」
「情報は常に集めておりますわ。今朝のお話で、どの情報が必要になるか分かりましたので、組み替えただけですの」
キサの金色の目が光っていた。策士の目だ。だがその奥に、仮面ではない熱がある。
「同族を救うためだけではありませんわ。この制度は、テイムされている全ての魔獣に関わる。成功すれば——」
言葉を切った。感情が出すぎたと判断したのだろう。キサは咳払いを一つして、いつもの口調に戻った。
「ともあれ、情報面の支援はわたくしにお任せくださいませ。帳簿と情報は狐の領分ですので」
「頼む。キサの情報力がなかったら、この構想は絵に描いた餅だ」
キサの尾が一度だけ大きく揺れた。すぐに止めたが、見えていた。
居間にギンが入ってきた。俺とキサが木板の前で並んでいるのを見て、銀の耳が立った。
「主さまとキサ、また二人で紙見てる」
「仕事だ」
「知ってる。知ってるけど」
「ギンも見るか。恩義契約の話だ」
ギンの耳がぴくりと動いた。
「恩義契約って、ギンと主さまの関係を制度にするやつ?」
「ああ」
「なら見る。ギンと主さまの関係のことだもん。ギンが見なくてどうするの」
一理あった。
クロが階段の途中で立ち止まっていた。話を聞いていたのだろう。
「あたしも混ざるわ。テイムの話でしょ。あたしには関係ない話じゃないから」
クロの声は平坦だったが、目が真剣だった。猫型の魔獣として、テイムの恐怖を知っている。市場で棒で叩かれかけた日のことを、クロは忘れていない。
アカが二階から降りてきた。
「妾も混ざるぞ。仲間外れは竜の理に反する」
「竜の理にそんな条文あるのか」
「今作った」
ツルがお茶を七人分持ってきた。七つ目は庭にいるゼノの分だ。ゼノは朝から書庫に入って出てこない。
「皆さまが揃いましたね。では、お茶を飲みながらお話しましょう」
六人と一匹が居間に集まった。木板の前に椅子を並べて、恩義契約の構想を共有する。パーティー全員の会議。
前世なら部署の戦略会議だ。ただし前世の会議に銀の尻尾が揺れることはなかったし、竜が正座することも、狐が帳簿を広げることも、猫がハンモックから参加することも、鶴がお茶を配ることもなかった。
議論は一時間続いた。
◇
同じ日の夜。テイマーギルド本部。
グレイヴの机の上に、一枚の報告書が載った。冒険者ギルド・エルデ支部からの上申予告。内容は「テイム契約に並立する新制度の提案に関する事前協議の申し入れ」。
グレイヴは報告書を読み終えて、静かに机に置いた。
長い沈黙。
窓の外のエルデの夜景を見た。街灯の光が石畳に反射している。穏やかな夜だ。
「恩義契約」
その単語を、声に出した。
「テイム術と恩義契約の共存。あり得ない」
引き出しの中の写真立てに、手が伸びかけた。止めた。
「支配なくして安全なし。それだけが二十年で証明された真理だ」
報告書を手に取り、赤い印で「要審議——反対意見あり」と書き込んだ。
ペンを置く音が、静かな部屋に響いた。
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