第32話 「炎狼の名前」
炎狼が庭に住み着いて、三日が経っていた。
正確には住み着いたというより、動かないのだ。門の前で拾い上げた夜、とりあえず庭の厩舎跡に毛布を敷いて寝かせた。翌朝、朝食を持っていくと同じ場所で丸くなっていた。
昼になっても夕方になっても、その場所から動かない。水と干し肉を置けば食べる。だがそれ以外の時間はただ丸くなって、赤い目でこちらを見ている。
「主さま、あの子ずっと庭にいる」
ギンが朝食の席で言った。粥を頬張りながら、窓の外をちらちら見ている。
「知ってる」
「どうするの? また登録する?」
「しない。五体で充分だ」
「ほんとに?」
「ほんとだ。同行魔獣の登録はしない。あいつがここにいたいなら勝手にいればいい。飯は出す。だがパーティーメンバーとして連れ出すつもりはない」
「結局世話はするんじゃない」
クロが粥を啜りながら言った。
「世話と登録は違う」
「出た、そういう屁理屈」
「屁理屈じゃない。管理上の区分だ」
「管理上の区分って言えば何でも通ると思ってるでしょ」
否定できなかった。
アカが窓から身を乗り出して庭を覗いた。
「あの狼、ずっと同じところにおるのう。動かぬのか」
「テイムが解けた直後は体力が落ちるんだ。魔核に負荷がかかってる」
「魔核?」
「魔獣の力の源だ。テイムは魔核に直接干渉して制御する術だから、テイムが解けた後も魔核に傷が残る。回復には時間がかかる」
ツルが皿を片付けながら口を開いた。
「わたくしの浄化を当てていますが、テイムの残滓は通常の瘴気とは性質が違います。少しずつ薄くなってはいますが、完全に消えるかどうかは……」
「今日はゼノが来る。診てもらおう」
◇
午前十時。ゼノが門を叩いた。相変わらず杖で木戸を突くような乱暴なノックだった。
書庫に通す前に、庭の炎狼を見せた。
ゼノは分厚い眼鏡を押し上げながら、炎狼の前に膝をついた。インクだらけの指が炎狼の額の前で止まる。触れずに、数センチの距離で掌を翳す。
「……ふむ」
炎狼が低く唸った。だが威嚇ではない。痛みをこらえるような声だった。
「確かにテイムの残滓が魔核に残っている」
ゼノが立ち上がって眼鏡を拭いた。
「魔核の表面に膜のようなものが張り付いている。テイム術が魔核に刻んだ制御紋の残骸だ。テイム自体は解除されているが、紋の痕跡が消えずに残っている。例えるなら、焼き印を押された後の傷跡のようなものだ」
「それが回復を妨げてるのか」
「ああ。残滓が魔核の出力を制限している。本来の力の三割も出せていないだろう。人型化できないのもそのためだ。人型化には魔核の出力が一定以上必要だからね。ツルさんの浄化で残滓は少しずつ薄まるが、完全に消えるかは分からない。魔核に刻まれた傷は、瘴気とは別の問題だ」
「治る見込みは」
「ある。ただし時間がかかる。数ヶ月か、あるいは年単位。焦って魔核に干渉すれば逆に壊れる。自然回復とツルさんの浄化を続けるのが最善だ」
炎狼が赤い目でゼノを見上げていた。言葉は分からなくても、自分の話をされていることは察しているようだった。
ゼノが炎狼の頭をぽんと叩いた。
「気長にやれ。お前の居場所は確保されている。少なくとも、この家の主人はそういう男だ」
炎狼の尾が微かに動いた。振ったとは言えない。だが、動いた。
◇
午後。
依頼を終えて拠点に戻ると、庭で騒動が起きていた。
「ヒノ! ヒノ! こっち来い!」
アカが厩舎跡の前でしゃがんで、炎狼に手招きしている。
「……ヒノ?」
「妾が名付けたのじゃ! 炎の狼だから、ヒノ!」
「勝手に名前をつけるな」
「何故じゃ! 名前がないのは可哀想じゃろ!」
「可哀想だけど、名付けは俺がやる」
アカが頬を膨らませた。角の根元が赤い。
「おぬしが付けるならよいが、早くせよ! 名無しのまま何日も放っておくのは竜の理に反するのじゃ!」
「竜の理が多すぎないか、お前」
「多くない! 全部大事じゃ!」
ギンが庭の反対側から走ってきた。
「主さま! あの子にギンが名前つけていい?」
「だめ」
「なんで!」
「お前のネーミングセンスは信用できない。この前、庭の石に『まるちゃん』って名前つけてたろ」
「だって丸かったんだもん!」
「石に名前をつけるな」
クロが屋根裏の窓から降りてきた。猫のように音もなく庭に着地する。
「あたしは名付けに興味ないけど、いい加減決めたら? アカとギンがうるさいの、もう三時間よ」
「三時間もやってたのか」
「あたしはずっと聞こえてたわよ。屋根裏まで響くのよ、この二人の声」
キサが縁側に座って茶を飲んでいた。
「ハルさま。一つ提案がありますわ」
「何だ」
「アカさまの『ヒノ』、悪くありませんわよ。炎と狼で『火の』。音が二文字で、ギンさまやクロさまと揃いますし」
「キサが賛成したのじゃ! ほれ見よ!」
「別にアカの肩を持ったわけではありませんわ。合理的な判断ですの」
ツルが縁側にお茶を持ってきた。六人分と、小さな皿に水を一杯。水は炎狼の分だ。
「わたくしも、ヒノという響きは良いと思います。温かみがあって」
五人の視線が俺に集まった。
炎狼を見た。厩舎跡の入り口で丸くなっている。橙と赤が混じった毛並み。左耳の火傷の痕。疲れた赤い目。
レクスはこいつに名前をつけなかった。テイム獣に名前なんかつけるか、と言った。
あの時、俺はもう答えを決めていた。
厩舎跡の前に屈んだ。炎狼の目線に合わせる。
「ヒノ」
呼んでみた。
炎狼の耳がぴくりと動いた。赤い目が俺を捉える。
「お前の名前だ。ヒノ。炎の子だから、ヒノ」
アカが「妾のとほぼ同じじゃ!」と叫んだが、無視した。
炎狼の尾が動いた。
今度ははっきりと。左右に、ゆっくりと、でも確かに振れた。
初めてだった。この拠点に来てから、ヒノが尾を振ったのは。
赤い目が細くなった。犬が笑う時の形に似ていた。笑っているのかどうかは分からない。だが、怯えの色が消えていた。
「ヒノ、名前もらった!」
ギンが飛び跳ねた。銀の尾がぶんぶん揺れている。自分がもらったわけでもないのに嬉しそうだ。
「よかったね、ヒノ。ギンもぬしさまに名前もらった時、すっごく嬉しかったの」
ギンが厩舎跡に駆け寄って、ヒノの鼻先に顔を近づけた。ヒノが少しだけ身を引いたが、逃げはしなかった。ギンの匂いを嗅いでいる。
「仲良くするのじゃ。妾が名付け親じゃからの」
「名付け親は主さまだよ!」
「妾が先に言ったのじゃ!」
「先に言っても主さまが決めたの!」
またか。
クロがヒノの横を通り過ぎながら、片手でヒノの背中を一度だけ撫でた。立ち止まらなかった。振り返りもしなかった。だが尻尾が一度だけ大きく揺れた。
ツルがヒノの前に水の皿を置いた。
「ヒノさん。ここがあなたの場所ですよ」
ヒノが水に口をつけた。ぴちゃぴちゃと飲む音が、夕方の庭に響いた。
厩舎跡。かつてこの家の主人が魔獣を飼育していた場所。フィンという学者が、人間と魔獣の共存を研究していた場所。
十年の空白を経て、再び魔獣がここにいる。
登録はしない。パーティーには入れない。だがここにいる。飯を食って、水を飲んで、庭の隅で丸くなる。
いつかこの厩舎跡に、もっと多くの傷ついた魔獣が来るかもしれない。テイムから逃げ出した者。瘴気に侵された者。居場所を失った者。
まだ先の話だ。先のことを考える。それが段取りだ。
◇
日が暮れて、全員が居間でくつろいでいた。
ヒノは厩舎跡で眠っている。ツルが夕方に浄化を当てたので、今夜は少し楽に眠れるだろう。
俺が書庫に向かおうとした時、書庫の扉が先に開いた。
ゼノが中から出てきた。朝から書庫に籠もっていたらしい。昼食もツルが運んだものを食べながら読んでいたと聞いている。
ゼノの顔が違っていた。
いつもの偏屈な学者の顔ではない。眼鏡の奥の目が鋭く光っている。興奮を押し殺すような、だが抑えきれない熱が滲んでいる。
「ハル君」
「何だ」
「フィンのノートの中に、見つけた」
ゼノが手にしていたのは、フィンの筆跡で書かれた研究ノートの一冊だった。付箋が三枚挟まっている。ゼノ自身がつけたものだ。
「テイムの解除方法に関する記述だ。まだ断片で、理論の全体像は見えていない。だがフィンは確かにここに辿り着いていた。恩刻の法則を応用した、テイム紋の消去法。魔核に刻まれた制御紋を、恩刻の自然刻印で上書きする——」
ゼノが言葉を切った。興奮しすぎて早口になっていることに自分で気づいたらしい。眼鏡を外して拭き、深呼吸した。
「まだ断片だ。これが完成すれば、テイムされた魔獣を解放できるかもしれない。だが検証が必要だ。理論の穴がないか確認するには時間がかかる」
「どのくらいだ」
「分からない。一ヶ月か、三ヶ月か。フィンがどこまで完成させていたかによる」
居間の入り口に気配があった。
キサが立っていた。
金色の目が光っていた。情報屋の目だ。糸口を見つけた時の、あの鋭い輝き。だが今はそれだけじゃない。三十年間探し続けたものの影が、初めて実体を持って目の前に現れた時の顔だった。
唇が動いた。だが声は出なかった。
策士の仮面が要らないほど、感情が剥き出しになっていた。
「キサ」
俺が呼ぶと、キサが息を吸った。仮面を被り直す。だが今回は完全には戻らなかった。金色の瞳の奥に、涙に似た光が残っていた。
「……急ぎませんわ」
声は落ち着いていた。策士の声だ。だが少しだけ震えている。
「ゼノさまのお仕事を信じます。わたくしは待てますわ。三十年待ったのですから、あと三ヶ月くらい」
ゼノがキサを見た。偏屈な学者の顔が、少しだけ柔らかくなった。
「待たせないよう努力する。フィンが遺したものを、無駄にはしない」
キサが深く頭を下げた。九尾が一本だけ揺れた。
書庫の棚に並ぶフィンの研究ノート。十年前に病で亡くなった学者が、誰にも認められないまま積み上げた研究。その欠片が、今ようやく必要とされている。
フィンは死んだ。だがフィンの仕事は死んでいなかった。
◇
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