第30話 「日常と覚悟」
南街道の一件から三日が経って、拠点にはいつもの日常が戻っていた。
朝食の食卓。六脚の椅子。六人分の皿。ツルの粥と焼き魚と漬物。
「ギン、三杯目はやめておけ」
「まだ食べれる!」
「食べられるのと食べていいのは違う。午前の依頼で腹が重いと動きが鈍る」
「……一口だけ」
「一口ならいい」
ギンが嬉しそうに粥を掬った。一口が普通の三口分あるのは見なかったことにする。
アカが焼き魚を丸ごと口に放り込んで、骨ごと噛み砕いた。
「竜は骨も食う。栄養があるのじゃ」
「行儀が悪い」
「竜に行儀はない」
「この家にはある」
「……む」
角の根元が赤くなった。叱られると照れる癖は相変わらずだ。
クロは窓枠ではなく食卓に座っている。俺の隣の席が定位置になったのは、あの夜以来だ。黙って粥を食べているが、時折ギンとアカの騒ぎに「うるさい」と呟く。呟くだけで本気で怒らないのは、この騒がしさが嫌いではないからだろう。
キサは食卓の端で茶を飲みながら、帳簿の紙を広げていた。
「キサ、食事中に帳簿を見るな」
「食事と帳簿は両立しますわ」
「行儀が悪い」
「あら。アカさまに言ったのと同じ台詞ですわね」
「同じことをしてるからだ」
キサがくすりと笑って、帳簿を畳んだ。
ツルが全員の皿を見渡して、クロの漬物が減っていないことに気づいた。
「クロさん、漬物はお嫌いですか」
「嫌いじゃないわ。……酸っぱいのがちょっと」
「明日は甘めに漬けますね」
「別にそこまでしなくて」
「いいえ。皆さまのお口に合わせるのが楽しみですので」
ツルが微笑む。クロが耳を伏せる。この鶴に勝てる者はこの家にいない。
◇
午前の依頼を片付けて、午後は休息日にした。
庭ではギンとアカの追いかけっこが始まっていた。もはや拠点の風物詩だ。
「捕まえた!」
「まだじゃ、 翼を使う! よもや、反則などとは言うまいな!」
「反則じゃないけど卑怯!」
「勝負に卑怯など戯言じゃ!」
二人の走った跡が庭の芝を削っている。修繕の経費計上はキサに任せよう。
屋根裏では、クロが新しい家具を作っていた。
覗きに行くと、梁の間にロープと布を張って、簡素なハンモックを吊るしていた。
「……猫用ハンモックか」
「猫用じゃない、あたし用」
「材料はどこから」
「修繕で余った布とロープ。捨てるって言ってたでしょ」
「有効活用だな」
クロがハンモックに飛び乗った。布がクロの体重でたわみ、ゆらゆら揺れる。高い場所で揺れる寝床。猫にとっては最高の環境だろう。
「……まあまあね」
クロのまあまあは、上々の意味だ。
「気に入ったならいい」
「別に気に入ってない。……悪くないだけ」
尻尾が揺れている。ハンモックの揺れと同じリズムで。やはり、気に入っている。
キッチンでは、ツルが六人分の夕食の仕込みを始めていた。
キサ加入後、ツルの料理は六人分に完全に安定している。量の調整、味の好みの把握、アレルギーの確認。ギンは肉が多め。クロは魚が好きだが酸味は苦手。アカは何でも食べるが辛いものを好む。キサは薄味を好む。俺は何でもいい。
その全てを、ツルは頭の中に入れている。
「ツル、今日の夕飯は」
「鶏と根菜の煮込みを考えています。アカさまにはスパイスを足して、クロさまの分は酸味を抑えて」
「六人分を全部変えるのか」
「同じ鍋から取り分けるだけですので。手間はそれほど変わりません」
嘘だ。明らかに手間が増えている。だがツルは苦にしていない。料理はツルにとって献身ではなく、喜びになりつつある。
午後三時。庭に異変が起きた。
「キサ! 全部出せ! 約束じゃ!」
アカが庭の木の下でキサに詰め寄っていた。
キサが困った顔をしている。だが困り方がいつもと違う。本気で困っているのではなく、折れるかどうかを計算している顔だ。
「……一回だけですわよ」
キサが目を閉じた。
九尾が全て展開された。白い尾が扇のように広がり、午後の陽光に透けて銀色に輝く。庭の半分が白い毛で埋まった。
アカが飛び込んだ。
「もふもふじゃー!」
九尾の中に埋もれて、赤い髪だけが毛の海から突き出ている。尻尾が千切れそうなほど揺れていた。角の根元が真っ赤だ。幸福の色。
「アカさま、引っ張らないでくださいまし」
「引っ張っておらぬ! 埋まっておるだけじゃ!」
「埋まっても引っ張らないでください」
ギンが庭の反対側から走ってきた。
「ギンの尻尾の方がもふもふ! アカ、こっち来て! ギンのも触って!」
「ギンのはもう飽きたのじゃ!」
「飽きるなーーー!」
ギンが猛然と九尾の中に突入した。銀と白の毛が絡まってカオスになった。
「ちょっと、犬、入ってこないでくださいまし!」
「犬じゃない狼!」
「狼でも入らないでください! 毛が絡まりますわ!」
「妾のもふもふタイムを邪魔するなー!」
クロが屋根裏のハンモックから庭を見下ろしていた。
「……動物園かしら」
ツルが縁側でお茶を飲みながら微笑んでいた。
「賑やかですね」
「ツルさんは参加しないの」
「わたくしは羽毛ですので。もふもふとは少し違いますわ」
「十分もふもふだと思うけど」
「あら。ありがとうございます、クロさん」
クロが耳を赤くしてハンモックに引っ込んだ。
◇
夕方。
全員が居間でくつろいでいる時間に、俺は書庫に入った。
ゼノのメモを読み返すふりをしながら、実際には何も読んでいなかった。
頭の中にあるのは、五人のことだ。
ギンの「ぜったい離さない」。クロの「離さないで」。ツルの「好きだからそばにいたい」。アカの「妾のもの」。キサの「計算抜きで楽しい」。
五人の感情に気づいていないふりはできない。
俺はそこまで鈍くない。前世で三十二年間、人間の感情を読んで営業をしてきた。好意の匂いくらい分かる。
分かった上で、踏み込めない。
前世のことを思い出す。
社会人三年目で付き合った女性がいた。三年続いた。俺がブラック企業で潰れかけている間に、彼女は離れていった。責める気はない。あの状況で隣にいてくれというのは酷だった。
だが「もう無理」と言われた夜の感覚は消えていない。
人に信頼されて、応えようとして、応えきれなくて、失望させる。
あの五人の期待に応えられるのか。応えていいのか。
俺は魔力ゼロで、スキルなしで、ステータスは全部D。段取りだけが取り柄の元社畜。あいつらが求めているものを、本当に返せるのか。
恩刻がある。ゼノが言った。純粋な善意で助けたから、恩が刻まれた。忘れられなくなった。
だがそれは恋愛感情ではない。恩刻は恋にさせる力を持たない。あいつらの好意は、あいつら自身の自由意志だ。
自由意志で俺を選んでいるなら、俺はそれに応える義務がある。
義務? 違う。義務じゃない。
応えたいと思っている。
それが怖い。
「……好意に気づいてる。でも踏み込めない。俺が応えていいのか」
声に出してしまった。書庫には誰もいない。
いないはずだった。
「主さま」
振り返ると、ギンが書庫の入り口に立っていた。
銀の耳が少し伏せている。俺の独り言が聞こえたかどうかは分からない。狼の耳なら聞こえたかもしれない。
「難しい顔してる」
ギンが近づいてきた。いつもの突撃ではなく、ゆっくりとした足取りで。
「何でもない」
「嘘」
即答だった。
「ギンの鼻は誤魔化せないって言ったでしょ。主さまが悩んでる時、汗の匂いが変わるの。さっきからずっと変わってた」
犬の鼻が恨めしい。
「でもいい。主さまが話したくないなら、聞かない」
ギンが俺の隣に座った。椅子ではなく、床に。俺の足元に。背中を棚にもたれて、銀の尾を膝の上に載せた。
「主さまが話したくなったら聞く。それまでギンは隣にいる」
何も聞かない。何も求めない。ただ隣にいる。
ギンの手が、俺の手に重なった。
小さくて温かい手。瘴獣を一撃で裂く爪を持つ手が、こんなにも柔らかい。
「……ギン」
「ん」
「ありがとう」
「何が」
「隣にいてくれて」
ギンの尾が小さく揺れた。
「当たり前だよ。ギンは主さまの最初。最初で、最後までいるの」
その声には力みがなかった。いつもの「ぜったい」や「離さない」とは違う。静かな確信だけがある。
手を握り返した。
答えはまだ出ない。踏み込む覚悟はまだできない。
だが、この手を離す気はなかった。
◇




