第3話 「黒猫は恩を知らない(嘘)」
黒猫の骨折が治るまで、三日かかった。
その間、俺とギンはEランクの瘴獣討伐依頼を四件こなした。
一件目、森外周の蟲型三体。所要時間四十分。
二件目、街道沿いの泥蜥蜴型二体。所要時間二十五分。
三件目、水場に湧いた蛭型五体。所要時間一時間。
四件目、廃屋の蟲型四体。所要時間三十分。
戦闘はすべてギンがやった。
俺がやったのは、依頼書の条件確認、移動ルートの選定、戦闘前の地形把握、撤退経路の確保、そして報告書の作成だ。
四件で稼いだ報酬は銀貨十四枚。
だが重要なのは、金額じゃない。
「ハルさん、四件連続で報告書の不備がゼロですね」
ギルドの受付嬢リノが、少し驚いた顔で言った。
「Eランク冒険者で、ここまで精度が高い方は珍しいです。討伐証明の瘴核の保存状態も完璧ですし」
「前のパーティーで、書類仕事は全部やってたからな」
「なるほど……それで荷物持ち、ですか」
リノの声に、微かな含みがあった。
理不尽な追放劇を察しているようだが、それ以上は踏み込んでこない。有難い配慮だ。
「同行魔獣の実績記録も順調です。このペースなら三十日を待たずに、本承認が出せるかもしれません」
「助かる」
「あ、それと」
リノが声を落とした。
「Eランク依頼を複数受注される場合、動線が近い依頼をまとめて申請すると移動時間が減ります。受付の方で隣接エリアの依頼を抽出できますので、お申しつけください」
「……それは公式サービスか?」
「いえ、私が個人的に。Eランクの方は見落としがちなので」
この受付嬢、優秀だ。
前世で同僚にいたら、間違いなく年間最優秀サポート賞に推薦している。
「ありがとう。次からそうさせてもらう」
「はい。応援しています、ハルさん」
ギルドを出ると、ギンが不満げに俺の袖を引っ張った。
「主さま。あのリノって人、主さまのこと『ハルさん』って呼んでる」
「受付の業務だろ」
「ギン以外が主さまの名前呼ぶの、あんまり好きじゃない」
「……我慢しろ」
「ぅー」
銀の尻尾が、隠しきれずにスカートの下で膨らんでいる。
嫉妬というより、強烈な縄張り意識だ。狼だから仕方ないのだろうか。
*
三日目の夕方。
市場裏の路地を覗くと、黒猫はまだそこにいた。
添え木はそのまま。
干し肉は毎日置き換えているが、翌朝にはいつも無くなっている。食べてはいるのだ。
だが俺が来ると、相変わらず低く唸る。
「お前、意地っ張りだな」
黒猫は答えない。
金と碧、左右非対称の目で睨んでくるだけだ。
「添え木、そろそろ外していいはずだ。見せてくれるか」
手を伸ばした瞬間、鋭い爪が飛んできた。
右手の甲に、三本の赤い線が走る。
「……はいはい」
俺は痛む手で干し肉だけを置き、距離を取った。
「主さま、毎日引っ掻かれてる」
ギンが不機嫌そうに言う。
「あの黒いの、恩知らず。嫌い」
「まだ警戒してるだけだ。猫はそういう生き物なんだよ」
「ギンは助けてもらってすぐ懐いた」
「お前が特殊なんだ」
「特殊じゃない。当たり前。助けてくれた人のそばにいるのは、当たり前」
ギンの価値観はいつも真っ直ぐすぎて、時々、少しだけ息が詰まる。
*
四日目の朝。
依頼に向かう途中、ふいにギンの足が止まった。
「主さま。匂い」
「瘴獣か?」
「ううん。あの黒いのと同じ匂い。でも――血も混じってる」
市場の方角からだった。
俺たちは走った。
市場広場の中央に、人だかりができていた。
その輪の中心で、衛兵が二人、木の棒を振り上げている。
足元に黒い毛並みが見えた。
黒猫だ。
添え木が外れて、市場に迷い込んだらしい。
右前脚はまだ完治しておらず、痛々しく引き摺っている。
「野良の魔物だ! テイムされてないぞ!」
「危ない、離れろ!」
「駆除しろ! 街中に放すな!」
怒号が飛ぶ。
衛兵の棒が振り下ろされる寸前、黒猫が必死に横へ跳んだ。
だが脚が利かず、無様に転がる。
次の一撃が来る――。
俺は人垣を力任せに押し分け、黒猫の前に立ちふさがった。
「待ってくれ。この猫は俺の同行魔獣だ」
衛兵が怪訝な顔で棒を止める。
「同行魔獣だと? テイムの証の首輪がないが」
「テイム契約なしの仮承認を受けている。ギルドへの申請は提出済みだ。受理番号はE-0732。不服ならギルドに確認してくれ」
嘘は言っていない。
ただ、受理番号『E-0732』で届け出たのはギンだけだ。この黒猫は含まれていない。
だが、衛兵がギルドに照会している間、時間は確実に稼げる。
「ギン。黒猫を」
「……分かった」
ギンが黒猫を抱き上げる。
黒猫がパニックを起こして暴れようとした瞬間、ギンが喉の奥で低く唸った。
魔獣同士の、言葉にならない威圧。
上位種であるギンのプレッシャーに、黒猫が一瞬で大人しくなった。
「……主さま、この子すごく怒ってる。でも、怖がってる方が大きい」
「分かってる。宿に連れて帰ろう」
衛兵が照会から戻ってくる前に、市場を離れる。
足早に。しかし堂々と。
逃げるように歩くと逆に怪しまれる。前世の経費精算で解釈の幅を最大限に活用した時に学んだ教訓だ。
*
宿の部屋。
ギンが黒猫をベッドに下ろすと、黒猫はすぐに部屋の隅へと逃げた。
毛を逆立てて、シャーと激しく威嚇する。
「主さま、やっぱりこいつ恩知らず」
「違う。怖いんだ」
俺はベッドの反対側に座り、黒猫とあえて距離を取った。
「お前が怖いんじゃなくて、人間が怖いんだろ。さっき棒で叩かれそうになった。もしかしたら、前にも酷い目に遭ってるのかもしれないな」
黒猫の威嚇が、ピタリと止まった。
聞こえているのだ。魔獣には知性があり、言葉を理解する。
「お前を無理に捕まえる気はない。脚が治ったら、出て行きたきゃ出て行け。窓は開けておく」
黒猫の左右非対称が、じっとこちらを見つめていた。
長い沈黙。
やがて黒猫は、ほんの少しだけ逆立てていた毛を寝かせた。
「主さま、あの子ちょっとだけ落ち着いた」
「ああ。今日はこのままにしておこう」
「……ギンのベッドの上にいるのは、ちょっとだけ嫌」
「お前のベッドは向こうだ」
「主さまのベッドがギンのベッド」
「違う」
「違わない」
この議論は毎晩やっている。そして毎晩、俺が負けている。
*
翌朝。
目を覚ますと、ギンが右側で俺の腕を力強く抱いて寝ていた。
毎朝のことだ。もはや諦めている。
問題は、左側だった。
黒い毛並みが、俺の左手の上に丸くなっていた。
あの黒猫が、俺の手を枕にして眠っている。
「…………」
窓は開けておいた。
いつでも出て行けるようにしておいた。
なのに、こいつは。
気配を感じたのか、黒猫の目が薄く開いた。
左右非対称が俺を見る。
一瞬、固まった。
次の瞬間、黒猫は飛び起きて窓際まで跳び退いた。
毛を逆立てて、耳を伏せて。
「べっ、別に、あんたの手が温かかっただけだから……!」
声が聞こえた。
少女の声だった。
窓際に立っていたのは、黒猫ではなかった。
黒いショートヘア。
左右非対称の瞳――金と碧。
猫の耳が二つ、頭の上で怒ったように伏せている。
黒い尻尾が、ぶわっと膨らんでいる。
――そして、またしても全裸だった。
「……また裸か」
「なっ……! 見るなっ、変態!」
「見てない。目を瞑ってる」
実際には瞑っていなかったが、慌てて瞑った。
その騒ぎで、右側で寝ていたギンがむくりと起き上がった。
金色の目が、窓際の黒髪の少女を冷たく捉える。
重苦しい沈黙が落ちた。
「…………誰」
ギンの声が、今まで聞いたことがないほど低かった。
「主さまのベッドで、誰」
「ギン、落ち着け。これは昨日保護した黒猫で」
「知ってる。匂いで分かる。分かるけど」
鋭い銀の爪が、掛け布団をブスリと貫いた。
「主さまの左手で寝てた。ギンの隣で。ギンの主さまの隣で」
「あ、あんたこそ何よ! 勝手に抱きついて寝てるくせに!」
「ギンは主さまの最初。あんたは後から来た泥棒猫」
「泥棒猫って……猫は合ってるけど泥棒じゃないわよ!」
朝から修羅場だった。
前世の部署間抗争を思い出す。
あの時は第一会議室の予約枠が原因だったが、今回はベッドの左手。
本質は同じだ。リソースの奪い合いである。
「二人とも」
俺は目を瞑ったまま、社畜時代に培ったフラットな声で言った。
「まず服を着ろ。話はそれからだ」
「「…………」」
二つの沈黙が、なぜか同時に重なった。
先に折れたのは、黒髪の少女だった。
「……あんた、名前は」
「ハル。お前は?」
「…………クロ」
「黒いからクロ?」
「悪い!?」
「いや。うちのギンも銀だからギンだ」
「どいつもこいつも適当ね……」
クロが渋々と、ギンの予備の服に袖を通した。
ギンより背が高いせいか、少しだけ窮屈そうだ。
「一つ聞いていいか、クロ」
「……何よ」
「お前、出て行けたのに残った。なんでだ」
クロの猫耳が、ぴくりと跳ねた。
左右非対称が、すっと逸れる。
「……別に。窓際が寒かっただけ」
「手を枕にしてたのも?」
「たまたま転がっただけ! 深い意味なんかないわよ!」
「そうか」
それ以上は踏み込まなかった。
猫は追い詰めると逃げる。
犬と違って、自分から歩み寄ってくるまで待つしかない。
「クロ。お前がこの先どうするかは、お前が決めろ。ただ、脚が完治するまでは面倒を見る。それだけだ」
「……勝手にすれば」
「勝手にする」
クロがそっぽを向いた。
だが、部屋から出て行こうとはしなかった。
ギンが俺の袖を、強く引いた。
「主さま。あの猫、絶対に居座る気」
「まだ分からないだろ」
「ギンには分かる。同じだから」
「同じ?」
「助けられて、忘れられなくなったの。同じ匂いがする」
ギンの金色の目は、怒っているようで、どこかひどく怯えていた。
「主さまは優しいから、また助ける。ギンは知ってる。止められないのも知ってる」
「……ギン」
「だからギンは、一番近くにいる。ぜったい。誰が来ても、ギンが一番最初」
俺の腕を抱え込む力が、少しだけ強くなった。
「ギンは最初で、最後まで隣にいるから」
その声に含まれた重すぎる覚悟に、適当な言葉は返せなかった。
「ああ。お前が最初だ、ギン」
銀の尻尾が、小さく、けれど嬉しそうに揺れた。
窓際で、黒い尻尾も――ほんの少しだけ揺れた。
本人は絶対に認めないだろうが。
*
その日の午後、ギルドで同行魔獣の追加届を出した。
「二体目……ですか」
リノが目を丸くして瞬かせた。
「テイム契約なしの同行魔獣が二体。前例がないです、ハルさん」
「前例がないのと、規約違反は別だろう?」
「……ですね。第七章第三項、複数の同行を禁じる条文はありません」
リノが呆れたように苦笑した。
「またですか。規約の穴を突くのが本当にお好きですね」
「穴じゃない。正しい読み方をして、リスクヘッジをしてるだけだ」
「……冒険者ギルドの規約でリスクヘッジをする方は、私の知る限りあなたが初めてです」
書類を受理してもらう。
ギンの横に、クロの名前が並んだ。
ギルドを出ると、クロが微妙な顔で壁にもたれていた。
「……あんた、あたしの分まで届け出したの」
「お前が街中で捕まったら、今度はもう庇えない。書類があれば公的に守れる」
「別に守ってなんて頼んでない」
「頼まれなくてもやる。パーティーの経費管理と同じだ。事前に手を打つのが俺の仕事だ」
クロが口を開きかけて、閉じた。
猫耳がぺたんと伏せる。
「……あんたさ」
「ん?」
「なんでそこまでするの。あたしのこと、何も知らないでしょ」
「知らない。でも、目の前で怪我してる奴を放っておけない。それだけだ」
「それだけって……本当に、馬鹿じゃないの」
「よく言われるよ」
クロが小さく舌打ちした。
だが、その足は真っ直ぐ宿の方へと向かっていた。
俺から離れていく方角ではなく。
「……三日だけよ。脚が完全に治ったら出て行くから」
「ああ。好きにしろ」
「好きにするわよ。猫だもの」
ギンが俺の右袖を強く掴んで歩く。
クロが俺の左側を、一歩だけ距離を開けて歩く。
右に直球の銀。左にツンデレの黒。
――パーティーの人員管理、前世より圧倒的に難易度が高い気がする。
三日後、案の定クロは出て行かなかった。
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