第28話 「キサの帳簿」
キサが拠点の財務を掌握するまで、一週間もかからなかった。
朝食の後、居間の木板の前にキサが立っていた。俺が書いていた収支表の横に、新しい紙が三枚貼られている。
「ハルさま。少しお時間をいただけますか」
「何だ」
「こちらをご覧くださいませ」
一枚目。装備の消耗品費の月間推移グラフ。折れ線が右肩上がりに伸びている。
「現在の仕入れ先は東通りの武具店ですわね。品質は悪くありませんが、価格が市場の相場より一割五分高い。南通りの問屋から直接仕入れれば、同品質で一割五分落とせます」
「南通りの問屋なんてあったか」
「表通りには出していませんの。裏の卸売り専門ですわ。商会時代の伝手で紹介が取れました」
二枚目。食費の内訳と最適化案。
「ツルさまの食材調達は素晴らしいですが、香辛料だけは市場の小売りで買っていらっしゃいます。月に銅貨四十枚ほど。これを南区の香辛料商から纏め買いすると三割引きになります。月の節約額は銅貨十二枚」
「銅貨十二枚か。小さいな」
「小さいですわね。ですが年間にすると銀貨一枚半。五年で銀貨七枚半。装備の買い替え一回分ですわ」
長期で見る目がある。前世の経理部にいたら重宝されたタイプだ。
三枚目。月間収支の予測と、三ヶ月後までの装備更新スケジュール。
「ギンさまの爪の研ぎ代が来月から上がります。研ぎ師が材料費の値上げを予告していますの。今月中に三回分をまとめて前払いすれば据え置き価格で通せます」
俺は三枚の紙を順に見た。数字の精度、分析の切り口、提案の実行可能性。全部正確だ。
「月間経費の削減率は」
「現状から二割減。年間にすると銀貨百枚以上の差になりますわ」
「百枚……」
目を瞑って計算した。俺の収支管理で見落としていた無駄が、確かにある。装備の仕入れ先を変える発想はなかった。前世の営業時代は仕入れは別部署の仕事だったから、その視点が抜けていた。
「……俺より数字に強い奴が来るとは思わなかった」
素直に認めた。悔しいが事実だ。
キサが目を細めた。仮面の笑みではなく、誇らしさが混じった笑み。
「情報屋時代は帳簿を操作するのが仕事でしたの。数字を正しく使うのは、操作するより楽しいですわ」
一拍置いて、キサの声が少しだけ柔らかくなった。
「計算抜きで楽しい。こんなこと、初めてですわ」
計算抜き。キサがその言葉を使うのは二度目だ。前回は月明かりの下で九尾を出した夜だった。
「キサ。財務管理は正式にお前に任せる。木板の収支表はお前の管轄だ」
「よろしいのですか」
「俺がやるより正確で速い。得意な奴がやるのが一番効率がいい」
「……ありがとうございます、ハルさま」
キサが小さく頭を下げた。狐耳がぴくりと動いた。嬉しいのだ。尾の先が揺れている。
◇
キサの財務掌握と並行して、拠点の運営体制が整い始めていた。
ツルが料理と生活管理。毎日の食事、洗濯、掃除、装備の手入れ。ツルの領域は揺るがない。台所に立つツルの背中には「ここは譲りません」と書いてある。
キサが財務と情報収集。帳簿、仕入れ、外部との交渉、街の動向把握。キサは台所には近づかない。代わりに木板の前が定位置になった。
俺が全体の指揮と依頼管理。作戦立案、フォーメーション、スケジュール。
三本の柱が立ったことで、パーティーの回転が一段上がった。依頼の選定はキサの市場分析で精度が上がり、装備の維持はコスト削減で余裕ができ、食事はツルの腕で全員の体調が安定している。
「ハルさま、来月の依頼計画ですが」
昼食後、キサが紙を広げた。
「現在のAランク昇格審査待ちの間に、Cランク依頼を消化しておくのが合理的ですわ。審査が通った直後にAランク依頼を受けられるよう、実績を上積みしておきたい」
「同感だ。依頼の候補は」
「三件ほど選びました。報酬効率と移動距離を最適化して——」
横からギンが顔を出した。
「キサと主さま、最近二人で紙ばっかり見てる」
「仕事の話だ」
「仕事なのは分かるけど。ギンも混ぜて」
「ギンは数字が苦手だろう」
「苦手だけど混ざりたいの。主さまの隣にいたいの」
キサが微笑んだ。
「あら。では隣にどうぞ。数字の説明もして差し上げますわ」
「いらない。ギンは主さまの隣にいればいいの」
「あらあら」
アカが二階から降りてきた。
「おぬし達、また紙を見ておるのか。紙より訓練じゃ。妾のブレスを見よ」
「アカ、屋内でブレスを吐くな」
「吐かぬ。吐かぬが、庭で的を焼くのは許せ」
「午後の依頼の後でな」
「約束じゃぞ」
クロが窓枠から動かない。
「あんたたちの会議、いつも同じ場所でやるわよね。たまには屋根の上でやったら」
「屋根の上で帳簿は広げられない」
「つまんない正論ね」
ツルがお茶を六人分並べた。今度は全員同じ大きさの湯呑みだ。リノの時だけ小さかった件は、もう誰も触れない。
◇
夕方。依頼から戻った後、キサが居間で一人になっていた。
紙を広げている。いつもの帳簿ではなく、別の書面だ。
「キサ」
声をかけると、キサの手が一瞬止まった。紙を裏返そうとして、やめた。隠しても無駄だと判断したのだろう。策士の合理性だ。
「……同族の情報を整理していましたの」
紙の上には、名前と場所のリストが書かれていた。テイムされた妖狐たちの所在地。キサが長年かけて集めた情報だ。
「六匹の居場所が分かっています。うち三匹は辺境の領主に使役されていて、接触が困難。二匹は行方不明」
キサの指が、リストの一番上の名前で止まった。
「残り一匹が、この街にいますの」
「エルデに?」
「テイマーギルドの管轄下です。幹部直属の使役魔獣として登録されている」
キサの金色の目が俺を見た。平坦な声だったが、瞳の奥に炎があった。
「その幹部の名前は、グレイヴ」
空気が変わった。
昨日、ギルドの奥の部屋から冷たい視線を送っていた男。テイマーギルドの幹部。俺たちのAランク審査を担当する人間。
「グレイヴが妖狐をテイムしてるのか」
「ええ。三十年前の大規模討伐で捕獲された個体の一匹ですわ。名前は……もちろん、つけられていません。テイム獣ですから」
キサの声が僅かに震えた。一瞬だけ。すぐに策士の仮面が戻る。
「同族の解放は、わたくしの本来の目的です。この街に来た理由も、元はそれでした。ですが」
キサが紙をゆっくり畳んだ。
「今は、それだけではありませんの。ここにいる理由が増えました。だから急ぎません。ハルさまのパーティーに迷惑をかけるつもりもありません」
「迷惑とは思わない」
「……そう言ってくださると思いましたわ」
キサが少しだけ笑った。計算ではない笑顔。最近、この顔を見る回数が増えている。
「ただ、いずれ動く必要が出てきます。グレイヴとの審査が終わり、こちらの立場が固まってから。焦れば足元を掬われますわ」
「ああ。段取りを組んでからだ」
「段取り、ですわね。ハルさまらしい」
◇
夜。
全員が寝静まった後、書庫に灯りが漏れていた。
扉を開けると、キサが棚の前に座っていた。膝の上にゼノが置いていった研究ノートがある。古代共通語で書かれたフィンのメモの間に、ゼノが現代語で注釈を加えたページだ。
「キサ。何を読んでる」
「ゼノさまの注釈ですわ。恩刻の法則について書かれた部分の……続きを探していました」
キサが開いているページを指した。ゼノの筆跡で「テイム術と恩刻の構造比較」と書かれている。その下に走り書きの一文。
『テイムは魔核への強制干渉。恩刻は魂への自然刻印。両者は対極。ならば恩刻の理解がテイムの解除につながる可能性は? 要検証』
「テイムの解除方法……ここに書いてあるかもしれませんわね」
キサの金色の目が光っていた。情報屋の目だ。糸口を見つけた時の、鋭い輝き。
「キサ」
「はい」
「ゼノに聞いてからにしろ。中途半端な知識は危ない」
キサの手が止まった。
「これはゼノの研究だ。ゼノが二十年以上かけて積み上げてきたものだ。俺たちが断片だけ読んで勝手に解釈したら、間違った結論に辿り着く」
「……分かっていますわ。ですが」
「分かってるなら閉じろ。ゼノの次の訪問は明後日だ。その時に直接聞く。お前も同席しろ」
キサが数秒間、俺を見つめた。感情の読めない金色の瞳。策士が計算している時の目だ。
だが、ゆっくりとノートを閉じた。
「……ハルさまのおっしゃる通りですわね。急いては事を仕損じる」
「それでいい。同族の解放は約束する。だが順番を間違えるな」
キサの瞳の奥で、何かが揺れた。
「約束、ですか」
「ああ。パーティーの仲間の願いを放っておくわけがない。ただ、段取りは俺に任せろ」
キサが目を伏せた。長い黒髪が顔にかかる。
「……三十年、一人で探してきましたの。誰かに任せるということが、どういうことか、まだうまく分かりません」
「分からなくていい。一人で抱えるな。それだけだ」
クロに言った台詞と同じだ。一人で突っ込むな。俺が走る羽目になる。
キサが小さく笑った。
棚にノートを戻して、キサが立ち上がった。
「明後日、ゼノさまに同席させていただきますわ。それまでは、帳簿に専念します」
「ああ。頼む」
書庫を出る前に、キサが振り返った。
「ハルさま」
「何だ」
「約束、忘れませんわよ」
一尾が月明かりの中で揺れた。
忘れるわけがない。段取りの鬼は、約束も段取りに入れる。
◇




