第26話 「五人目の尾」
キサが正式に加入して最初の朝、俺はギルドで六枚目の書類にサインした。
リノがカウンターの向こうで書類を受け取りながら、深いため息をついた。
「五体目……」
「規約に上限はない」
「もう確認しません。分かっています」
リノのペンが書類の上を走る。手つきは相変わらず正確だが、目が少し遠くなっていた。
「ハルさん。一つだけ聞いてもいいですか」
「何だ」
「六体目の予定は」
「ない」
「本当ですか」
「本当だ」
「前回もそうおっしゃいました」
否定できなかった。
◇
拠点に戻ると、キサが居間の長椅子に座っていた。傷はほぼ塞がっている。ツルの浄化のおかげで回復は早かった。
九尾のうち一尾だけを出して、残りは隠している。人型で暮らす分には一尾で十分らしく、見た目は黒髪に狐耳と白い尾一本の美女だ。
「全て出すと街の方々が怖がりますので。九本の尾を持つ魔物が歩いていたら、討伐依頼が追加されてしまいますわ」
「昨日追加されかけたばかりだからな」
「ええ。一本で慎ましく参りますわ」
アカが階段を駆け下りてきた。
「キサ! 全部出せ! 昨日通りで見た時、もふもふだったのじゃ! 触らせよ!」
「お断りしますわ」
「けちじゃ! 九本もあるのに一本も触らせぬとは何事じゃ!」
「大切な尾ですの。誰にでも触らせるものではありませんわ」
ギンが割り込んだ。
「ギンの尻尾の方がもふもふだもん! アカ、ギンの触って!」
「ギンのはもう触ったのじゃ。新しいのが触りたいのじゃ!」
「新しいって何! ギンの尻尾だって毎日生え変わって新しいよ!」
「それは嘘じゃろ」
「嘘じゃないもん!」
クロが二階から降りてきて、食卓に座った。欠伸をしながら一言。
「尻尾の話はもういい」
ツルがお茶を六人分並べながら微笑んだ。六つ目の湯呑みが自然に加わっている。いつ買い足したのかは聞かない方がいい。
◇
キサの拠点での立ち位置は、三日で決まった。
家事はしない。料理もしない。初日にツルの台所に入ろうとして、「お気持ちだけで結構ですわ」と穏やかに追い出された。ツルの台所は聖域だ。キサはそれを一瞬で理解して、二度と近づかなかった。
代わりに、財務管理を始めた。
居間の木板。俺が依頼管理、収支表、フォーメーション図、買い出しリストを書いていた板を、キサが朝食後にじっと見つめていた。
「ハルさま」
「何だ」
「この収支表、経費の計算が甘いですわね」
指先が数字を指す。
「装備の消耗品費、月あたりの換算が実際の使用量と乖離しています。ツルさまの薬草は自家採取分を原価ゼロで計上していますけれど、採取にかかる時間を労働コストとして計算すると銀貨二枚相当。それからアカさまのブレス訓練で消費する的の石板、月に十二枚は使っていますわよね。一枚銅貨三枚として、月に銅貨三十六枚。これが計上されていません」
数字を追って確認した。
「……合ってる」
「もちろんですわ」
「合ってるのが悔しい」
キサが小さく笑った。仮面の笑みではなく、得意げな笑み。策士が自分の能力を認められた時の顔だ。
「よろしければ、財務管理はわたくしが引き受けますわ。情報屋時代に帳簿は嫌というほどつけましたの」
翌日から、木板の収支表がキサの筆跡に変わった。数字の精度が二段階上がった。月間の収支予測まで書き込まれていて、三ヶ月後の装備更新時期と必要経費が矢印で示されている。
ツルが料理と生活管理。キサが財務と情報収集。俺が全体の指揮と依頼管理。三つの柱が立って、パーティーの運営効率が目に見えて上がった。
戦闘面でも穴が埋まった。
キサの幻術は、敵の視覚と嗅覚を一時的に狂わせる。結界は物理攻撃を三発まで受け止める。どちらも直接戦闘力ではないが、パーティーに足りなかった「妨害・広域支援」の枠をぴたりと埋めた。
ギンが正面を受け、クロが遊撃し、アカがブレスで焼き、ツルが回復する。その全体をキサの幻術と結界が包み込む。そして俺が指揮を取る。
六人目の椅子は、もう食卓に置いてある。
◇
問題は夜だった。
寝室は二階に四部屋。俺、ギン、クロ、ツルとアカの相部屋。キサが加入して部屋が一つ足りなくなった。
「キサ、空いてる部屋がないから、今日はとりあえず居間の長椅子で——」
「それには及びませんわ」
キサがするりと二階に上がり、俺の部屋の隣の廊下に布団を敷いた。壁を背にして、一尾を膝の上に載せ、優雅に座っている。
「同盟の一環として、同居は合理的ですわ。有事の際に最も近い位置にいることが、お互いの安全に——」
「同盟なんかない!」
ギンが階段を駆け上がってきた。
「主さまの隣はギンの場所!」
「あら。では恋愛的な意味でよろしくて?」
ギンが真っ赤になった。
「それはもっとダメ!」
「合理性も恋愛もダメとなると、何ならよろしいのかしら」
「ギンが隣で寝るの! 狐は入るな!」
アカが自分の部屋のドアから顔を出した。
「妾の定位置はおぬしのてっぺんじゃ! 狐が割り込むなら焼くぞ!」
「まあ怖い。竜のお嬢さまは過激ですこと」
「お嬢さまではない! 妾は妾じゃ!」
クロが自室のドアを開けて、廊下を一瞥した。
「毎回同じ展開……」
ツルが階段の途中で立ち止まり、シーツの束を抱えたまま言った。
「お布団は人数分ございますので、順番に——」
「順番?」
キサの金色の目が光った。
「わたくし、順番待ちはしませんの」
「待ちなさいよ」
「待ちません」
「待て」
「待たぬのじゃ! 妾も待たぬ!」
「全員待ってください」
廊下が騒がしくなった。六人が暮らすには部屋が足りない。だが椅子と同じだ。明日買い足せばいい。今夜はとりあえず全員がハルの部屋の前の廊下に布団を並べて寝ることになった。
最も窮屈なのは俺だった。右にギン、左にアカ、足元にクロが丸くなり、頭の上でツルが正座して見守り、少し離れた位置でキサが一尾を抱いて目を閉じている。
眠れるわけがない。
◇
深夜。
全員が寝静まった後、気配がした。廊下の布団から誰かが抜け出す音。
薄目を開けると、キサがいなかった。
ギンの腕を静かに外して起き上がった。ギンの耳がぴくりと動いたが、寝返りを打っただけで起きなかった。
階段を降りて、庭に出た。
月明かりが庭を白く照らしている。修繕した石壁、ギンとアカが走り回る庭、洗濯物の竿。その奥、庭の隅の古い木の下に、キサが座っていた。
九尾が全て出ていた。
白い尾が扇のように広がっている。月光を受けて銀白色に透けて、風が吹くたびに毛先が揺れる。一本一本が長く、柔らかく、夜の闇の中で淡い光を放っていた。
綺麗だった。
隣に座った。草の上に腰を下ろす。キサは振り向かなかった。
「眠れないのか」
「……少し、考え事をしていましたの」
声が違った。昼間の策士の声でも、仮面の声でもない。静かで、小さな声。
「あなたに助けられた時、胸に何かが刻まれた気がしましたの」
キサが胸の上に手を置いた。
「温かくて、消えない。ギンさまやクロさまやツルさまやアカさまが、あなたの傍にいる理由が、少しだけ分かった気がします。でも、これが何なのか、わたくしには分かりませんの」
恩刻。
ゼノが名前をつけた法則。純粋な善意で魔獣を救うと、魂に恩が刻まれる。忘れられなくなる。だがそれだけだ。行動を強制する力はない。
キサには、まだその名前を教えていない。ゼノの研究が途中だ。中途半端な知識は判断を誤らせる。ゼノの言葉が頭にある。
「俺にも分からない」
嘘ではない。名前は知っていても、それが何なのか、本当には分かっていない。
「でも、悪いものじゃないと思う」
キサが横を向いた。金色の目が俺を見ている。月光で瞳の奥まで透けて見えた。
「……そうですわね」
小さく笑った。
計算のない笑顔だった。情報屋の仮面でも、策士の余裕でもなく、ただ「嬉しい」が顔に出た笑顔。
「悪いものでは、ないですわね」
九尾が揺れた。月光に透けて白く光る。風がなくても揺れていた。尾は感情に正直だ。隠していないから、全部見えている。
しばらく二人で黙って座っていた。月が傾くまで。
この時間に計算はいらなかった。




