第25話 「狐の窮地」
キサが拠点に滞在して三日目の朝、食卓に一枚の紙が置かれていた。
エルデ商業区の主要商会の取引関係図。どの商会がどの商会と繋がり、資金の流れがどう動いているか。ギルドへの納品ルートまで矢印で書かれている。
「……これは」
「お役に立つかと思いまして。あなたの装備の仕入れ先、二割ほど高く買わされていますわよ」
キサが長椅子に横になったまま言った。脇腹の傷はツルの浄化で塞がりつつあるが、まだ完治していない。それでも寝たきりとは程遠い動きをしている。
「どうやって調べた。三日間ほぼ寝てただろ」
「商会時代の伝手ですわ。手紙を二通出しただけ。返事は今朝届きましたの」
手紙を二通。寝たまま。三日で街の商業構造を把握した。情報屋の能力が桁違いだった。
「それと、ギルドの人事について少し。現在の支部長は穏健派ですが、副支部長がテイマーギルドの強硬派と繋がりがあります。リノさんという受付嬢があなたを支援していることは上層部も把握していて、彼女への圧力が今後強まる可能性が高い」
「リノのことまで」
「情報は繋がっていますの。一つ引けば芋蔓式に出てきますわ」
キッチンからツルが朝食を運んできた。六人分の皿を並べながら、キサが置いた紙をちらりと見た。
「キサさま、朝食前にお仕事ですか」
「お仕事ではありませんわ。ご恩のお返しの一環ですの」
「お返しでしたら、お身体を休めることが一番ですのに」
「それは献身の方の理屈ですわね。わたくしは情報でお返ししますの」
穏やかな微笑みと穏やかな微笑みがぶつかった。温度は同じ。だが質が違う。ツルの献身とキサの情報。どちらが主人の役に立つかという、静かな冷戦が食卓の上で始まっていた。
クロが二階から降りてきて、紙を一瞥した。
「あたしが昨日屋根の上から見た商会の動き、もう書いてあるわね」
「あら、あなたも観察なさっていましたの? 猫の目は暗がりに強いですものね」
「情報網を被せてきたつもり?」
「被せたのではありませんわ。先に敷いただけですの」
クロの目が細くなった。キサの目も細くなった。情報屋と元野良猫の観察者。領域が重なっている。クロにとって、キサは初めて自分の得意分野を侵す存在だった。
ギンは朝食の間もハルとキサの間に座っていた。文字通り、椅子を割り込ませて。
「主さま、パン取って」
「自分の前にあるだろ」
「主さまの手から食べたいの」
それはキサへの牽制だ。ギンは本能的に狐を警戒している。犬と狐。数千年の因縁が遺伝子に刻まれているのかもしれない。
アカだけが違った。
「キサとやら。おぬしの尻尾、もふもふじゃな」
食卓の下で、アカがキサの一本だけ出した尾に手を伸ばしていた。
「おさわりはお断りしますわ」
「けちじゃ! 一本しか出しておらぬのにけちじゃ! 全部出せ!」
「全部出したら大変なことになりますの」
「何が大変なのじゃ」
「この家が毛だらけになりますわ」
アカが想像して、少し考えて、「それは確かに大変じゃな」と納得した。納得するのかそこで。
◇
四日目の夕方だった。
Cランクの依頼を一件片付けて拠点に戻ると、キサが居間で座っていた。寝ているところしか見ていなかったから、起き上がって座っている姿は初めてだ。背筋が真っ直ぐで、座り方に品がある。
だが顔色が悪かった。傷のせいではない。
「キサ、何かあったのか」
「情報が入りましたの」
声が平坦だった。感情を殺している声。
「テイマーギルドの強硬派が動いています。わたくしの正体が、エルデに潜む妖狐だという情報がギルド上層部に届いた。情報源はおそらく、わたくしを追ってきた追手の報告」
「追手は振り切ったんじゃなかったのか」
「追手は振り切りました。ですが追手が本部に帰れば報告は上がる。わたくしがエルデ方面に逃げたことは把握されていたでしょう。そこに『テイムなしの冒険者の拠点に妖狐がいる』という情報が加われば、答え合わせは簡単ですわ」
キサが紙を一枚差し出した。商会の伝手から届いた速報だという。
内容は短かった。ギルド掲示板に、明朝付けで特別依頼が出される。「エルデ市街に潜伏する妖狐の危険排除」。討伐対象。報酬は金貨五枚。
「討伐対象って、お前のことか」
「ええ。妖狐はこの国では『人を化かす危険な魔物』として分類されています。テイムされていない妖狐は野生の危険魔獣と同じ扱い。討伐依頼を出すのに特別な理由は要りません」
キサの声に震えはなかった。淡々としていた。慣れている。追われることに慣れている。三十年間、そうやって生きてきたのだ。
「わたくしは明朝までにここを出ます。これ以上ご迷惑をおかけするわけには——」
「出るな」
キサの言葉を遮った。
「出てどうする。追手に見つかって、今度は振り切れなかったらどうなる」
「それは、わたくしの問題ですわ」
「うちの門の前で血を流して倒れてた時点で、俺の問題にもなってる」
キサの金色の目が揺れた。計算が追いつかない顔だ。
「明日、俺がギルドに行く」
◇
翌朝。
ギルドの掲示板に、予告通り依頼が貼り出されていた。「妖狐の危険排除——エルデ市街に潜伏する未テイムの妖狐一体。推定Bランク以上。討伐または捕縛。報酬金貨五枚」。
掲示板の前に冒険者が集まっている。金貨五枚は大きい。だが「妖狐」の二文字に、別の反応も出ていた。
「妖狐って、人に化けるやつだろ」
「化かされたら終わりだぞ」
「金貨五枚か……でもなあ」
俺はカウンターに向かった。リノが立っている。俺の顔を見た瞬間、リノの表情が引き締まった。昨日のうちに事情を把握しているのだろう。
「ハルさん」
「同行魔獣の追加届を出す。五体目だ」
カウンター周辺の空気が変わった。冒険者たちの視線が集まる。
リノが書類を棚から出しかけた。その手を、隣に立っていた職員が止めた。
見覚えのない男だった。ギルドの制服を着ているが、リノとは所属が違う。襟章の色がテイマーギルドの関連部署を示している。
「その届けは受理できません」
男の声は事務的だった。
「対象は討伐依頼が出された危険魔獣です。討伐対象の魔獣を同行魔獣として登録することは、依頼との利益相反に——」
「規約第十七条第三項」
俺は男の言葉を遮った。
「同行魔獣の登録申請は、申請者がCランク以上の冒険者であり、対象魔獣が申請者の管理下にある場合、種族・ランクを問わず受理しなければならない。登録条件に種族制限はない。確認済みだ」
男の目が細くなった。
「管理下にあるという証明は」
「三日間、俺の拠点で保護している。傷の治療も行った。他の同行魔獣四体との共同生活も成立している。管理の実態は十分だ」
「しかし、討伐依頼が——」
「討伐依頼の発行日は今朝。同行魔獣の管理開始は四日前。時系列上、管理が先だ。後から出た討伐依頼で既存の管理関係を否定する規定はない」
男が黙った。規約上、反論の余地がない。だが引き下がる気配もなかった。
「リノさん。書類を」
「はい」
リノが書類をカウンターに広げた。ペンを取る手は安定している。だが隣の男がリノを睨んでいた。後でリノに圧力がかかるだろう。それは分かっていた。
だが規約論破だけでは空気は変わらない。
カウンター周辺の冒険者たちの目が、俺の後ろに立つキサを見ている。キサは一本の尾だけを出して、俺の後ろに立っていた。顔には仮面の微笑みを貼り付けている。だが尾の先が僅かに震えているのが見えた。
「妖狐だぞ」
冒険者の一人が言った。
「人を化かす魔物じゃねえか。そいつに操られてんだろ」
「Cランクの冒険者が妖狐に騙されてるとしたら、笑えねえな」
「魔獣四体どころか五体って、異常だろ。テイムなしでそんなことが——」
空気が冷たい。アカの時とは質が違う。アカは竜だったが、竜は人を化かさない。妖狐は違う。人の姿に化け、人を欺く魔物。その印象が、この場の全員にある。
キサの微笑みが、ほんの僅かに歪んだ。
その時、銀色の影が動いた。
ギンがキサの前に立った。
俺とキサの間に割り込むのではなく、キサの前に。冒険者たちとキサの間に、銀色の壁を作るように。
「キサは主さまが助けた」
ギンの声は静かだった。いつもの甘えた声ではない。低く、はっきりとした声。
「主さまが助けた子を追い出すなら、ギンが怒る」
銀の尾が膨らんでいる。だが威嚇ではなかった。守っている。三日間ずっと警戒していた相手を、今、守っている。
クロがギンの隣に並んだ。
何も言わなかった。腕を組んで、冒険者たちを見据えた。猫の赤い目が、暗がりで光るように細く光っている。無言の圧が、言葉より重い。
ツルがキサの背中に手を添えた。
白い指が、キサの肩甲骨の間に静かに触れている。浄化の温もりが伝わっているのか、キサの尾の震えが止まった。
「わたくしたちの仲間に手を出されるのでしたら」
ツルの穏やかな声。だがその奥にある白鶴の気配は、この場の誰もが感じ取った。
アカが俺の肩から飛び降りて、キサの前に仁王立ちした。
「妾の仲間に手を出すなら焼くぞ」
喉の奥で小さな炎が光った。Aランク推定の竜のブレス。冒険者たちの顔が引き攣った。
四人がキサの前に壁を作っていた。
キサの金色の目が、四人の背中を見ていた。仮面の微笑みはもうなかった。素の顔が露出している。唇が開きかけて、閉じて、また開いた。言葉を探しているが見つからない。
計算で生きてきた。情報で生きてきた。人を信じたら死ぬ世界で、誰も信じずに三十年逃げ続けてきた。
この光景は、キサの計算式のどこにもなかった。
ギルドの空気が変わった。冒険者たちの敵意が消えたわけではない。だが四体の上位魔獣が一人の妖狐を守るために並んでいる光景は、理屈を超えた説得力を持っていた。
リノがペンを走らせる音だけが、カウンターに響いていた。
「登録完了です。同行魔獣五体目、妖狐族、名前はキサ。正式に受理しました」
リノの声は事務的だったが、唇の端が僅かに上がっていた。
隣の男は何も言わなかった。言えなかった。
◇
ギルドを出た。
通りを歩き始めた時、キサが立ち止まった。
四人が前を歩いている。ギンが俺の右腕、アカが肩の上、クロが三歩後ろ、ツルが最後尾。いつもの隊列。キサだけが、その列に入れずに立ち止まっていた。
振り返った。
キサの仮面が割れていた。
金色の目が揺れている。唇が震えている。整った顔が歪んで、それを直そうとして、直しきれない。
「……なぜ」
声が掠れていた。
「わたくしはあなた方を利用しようとしていたのに」
「知ってる。懐から住所を書いた紙が出てきた時に分かった」
「分かっていて、助けたのですか。分かっていて、ギルドで庇ったのですか」
「目の前で血を流してる奴を見捨てる理由にはならない。ギルドで追い出される奴を黙って見てる理由にもならない。それだけだ」
キサの目から涙がこぼれた。
一滴。二滴。止まらなくなった。
九尾が全て現れた。一本だけ出していた白い尾が、隠していた残りの八本と共に広がった。通りを歩く住民が驚いて足を止めた。だがキサにはそれを隠す余裕がなかった。
三十年分の仮面が、崩れていた。
「わたくしは……ずっと一人で」
声が途切れた。
ギンが戻ってきた。キサの前に立って、銀の耳を伏せて、手を差し出した。
「ギンも一人だった。主さまに助けてもらうまで、ずっと一人だった。だから分かるよ」
クロが振り返らずに言った。
「さっさと来なさい。置いていかないから」
ツルが静かにキサの肩に手を置いた。
「お帰りなさいませ」
アカが俺の肩の上から叫んだ。
「泣くなら歩きながら泣け! 夕飯に遅れるぞ!」
キサが涙を流したまま、小さく笑った。計算のない笑顔だった。
五度目の熱が、胸の中ではっきりと灯っていた。
ギンの手を取って、キサが歩き出した。九尾が揺れている。隠す気がなくなったのか、隠せなくなったのか。
六人になった。
拠点までの帰り道が、いつもよりずっと長く感じた。
悪くなかった。




