第24話 「策士の目覚め」
女が目を覚ましたのは、翌朝の陽が居間の窓から差し込んだ頃だった。
俺は長椅子の傍の椅子に座って待っていた。昨夜のうちにツルが包帯を替え、傷口に薬草の湿布を当てている。ギンは居間の入り口に陣取り、一晩中そこから動かなかった。警戒を解いていない。
女のまつ毛が震えた。
薄い唇が微かに動いて、それからゆっくりと目が開く。
金色の瞳だった。
アカの金とは違う。もっと深くて、底の見えない金色。切れ長の目が天井を捉えて、次に俺を捉えて、次に自分の体に巻かれた包帯を捉えた。
乱れた黒髪の間から、尖った耳が覗いている。昨夜は九本あった尾が一本だけになっていた。残りは隠しているのだろう。意識があるうちは制御できるということだ。
女が上体を起こした。脇腹の傷に顔をしかめたが、声は出さなかった。痛みに慣れている動き方だ。
居間を見回した。天井、壁、家具、窓の位置。出口の数を確認している。俺の位置、入り口のギンの位置、奥のキッチンから漂う朝食の匂い。情報を一度に処理する目つきだった。
「……予定と違いますわね」
第一声がそれだった。
声は低く、落ち着いている。だが「予定」という言葉に、計算が崩れた苛立ちが滲んでいた。
「予定では、どうなるはずだったんだ」
「自力でこちらの門を叩いて、名乗って、交渉のテーブルにつくはずでしたわ。血まみれで倒れて、手当てされて、恩を受けるなんて」
最後の「恩を受ける」で、金色の目が揺れた。一瞬だったが、確かに揺れた。
「名前は」
「キサと申します。九尾の妖狐の末裔ですわ。もっとも、今は見ての通りの有様ですけれど」
キサが一本だけ出した尾を軽く振った。白い毛先が長椅子の上で揺れる。
「助けてもらったこと、感謝しますわ。ですが先にお伝えしておきます。わたくしは善意でここに来たわけではありません」
正直だ。あるいは、正直に見せることが計算のうちなのか。
「知ってる」
俺は懐から紙片を出した。昨夜拾ったもの。俺の名前と、この拠点の住所が書かれた紙。
キサの金色の目が紙片を見て、ほんの僅かに細くなった。
「……あら、落としてました? 不覚ですわね」
「偶然倒れたんじゃなくて、最初からここに来るつもりだった。そこまでは分かってる。聞きたいのは理由だ」
キサが姿勢を正した。脇腹の痛みを押し殺して、背筋を伸ばす。策士が交渉のテーブルにつく姿勢だった。
◇
「わたくしは人間社会に潜んで暮らしていました。とある街で商会の裏方をしながら、情報を売り買いする仕事を。妖狐の能力は幻術と情報操作に向いていますの。人の姿に化けるのも得意ですわ」
キサの口調は淀みない。事実を並べる速度が速い。だが、時折視線が俺の表情を確認している。反応を計っている。
「テイムなしで魔獣を四体連れた冒険者がいる。その噂は二月ほど前から、近隣の街の商人の間で流れ始めました。わたくしの耳にも入った。興味を持った理由は一つ。テイムを使わずに魔獣が自ら従う方法があるなら、それは同族を助ける手段になると思ったからですわ」
「同族」
「わたくしの一族、妖狐は三十年前にテイマーギルドの大規模討伐を受けました。殺された者もいますが、多くはテイムされて各地に散らされた。テイマーの道具として使われている同族が、今も何匹もいます」
キサの声は平坦だった。感情を挟まない話し方。だが一本だけ出した尾の先が、わずかに震えていた。
「わたくしは幼かったので逃げ延びた。以来、人間に化けて、情報を集めて、同族の居場所を探してきました。テイムを解除する方法をずっと探していた。だが見つからない。テイムは魔核に直接干渉する術ですから、外部から解除する手段は存在しないと、どの文献にも書いてある」
「それで俺に目をつけた」
「ええ。テイムを使わずに魔獣が従うなら、それは別の法則が働いているということ。その法則を理解できれば、テイムに対抗する糸口になるかもしれない。そう考えて、接触を試みました」
キサが目を伏せた。
「ですが、エルデに向かう途中でテイマーギルドの追手に見つかりました。妖狐が人間に化けて商会に潜り込んでいたことが、どこかで漏れたようです。三人のテイマーと、テイムされた魔獣が二体。振り切りましたが、この有様ですわ」
包帯の巻かれた左腕を見下ろした。クロが言った通り、傷はテイムされた魔獣の爪によるものだった。
俺はしばらく黙っていた。
キサの話を整理する。情報屋。商会の裏方。同族の解放が目的。テイムの対抗策を探している。俺の方法を知りたかった。追手に襲われて辿り着いた。
筋は通っている。だが、一つだけ。
「で、俺に何を求めてる」
「あなたの方法を知りたかった。テイムを使わずに魔獣を従える術があるなら、それを理解して、同族を解放する手立てにしたいと考えていました」
「方法なんてない」
キサの目が止まった。
「俺にスキルはない。魔力もゼロだ。テイムの知識もない。あいつらが傍にいるのは、俺が助けたからだ。ただ助けただけ。それ以上の方法は何もない」
沈黙が落ちた。
キサの金色の瞳が俺の目を覗き込んでいる。嘘を探している。交渉相手の手札を読もうとする目だ。情報屋として何年もそうしてきたのだろう。
だが、探しているものが見つからないのが分かった。
キサの表情が変わった。困惑。初めて見る種類の困惑が、整った顔に浮かんでいた。
「……嘘がない」
呟くような声だった。策士の口調が一瞬崩れて、素の声が漏れた。
「嘘がない。本当に、ただ助けただけ。計算も打算も、何もない。……困りましたわね」
キサが右手で額を押さえた。
「こういう方は計算できませんの。手札が読めない相手は扱いようがありますけれど、手札がそもそも存在しない方は、対処のしようがありませんわ」
「褒められてるのか」
「困っていますの」
本当に困っている顔だった。計算で生きてきた狐が、計算の外にある人間に出会った顔。
居間の入り口から、銀色の影が飛び込んできた。
「主さまに変な計算しないで!」
ギンだった。一晩中入り口で見張っていたのに、我慢の限界が来たらしい。銀の尾が膨らんで、耳が逆立っている。
キサがギンを見た。金色の目が銀色の少女を上から下まで一瞬で観察する。フェンリル血統。上位魔獣。戦闘力は自分の比ではない。だが情報屋の顔は一瞬で仮面を被り直した。
「あら」
唇の端が僅かに上がった。
「犬は忠実で結構ですこと」
ギンの尾が爆発的に膨らんだ。
「犬じゃない! 狼!」
「あら、失礼。見分けがつきませんでしたわ」
「見分けつくでしょ! 全然違うでしょ!」
クロが廊下から顔を出した。
「朝から何の騒ぎ」
「狐が主さまに計算してる!」
「何それ」
アカが二階から降りてきた。目を擦りながら。
「うるさいのじゃ。妾はまだ眠い……おお、昨日の狐、起きたか」
「アカ、この狐主さまに計算——」
「計算? 算術か? 妾は数字は苦手じゃ」
ツルがキッチンからお盆を持って現れた。
「皆さま、朝食の支度ができております。お客さまの分もございますので」
キサがツルを見た。白い髪、青い目、穏やかな微笑み。聖獣級の白鶴。お盆の上には六人分の朝食が並んでいる。
「……お客さま扱いですの」
「倒れていらしたのですから、まずはお食事を。お話はそれからでも」
ツルの穏やかさの奥にある強さを、キサの目は見抜いていた。この白鶴は自分より格上だと。だが表情には出さない。
「では、お言葉に甘えますわ」
長椅子から立ち上がった。脇腹に手を当てて、痛みを隠しきれずに一瞬だけ顔を歪めた。だがすぐに背筋を伸ばして、食卓に向かう。
六人分の朝食。椅子は五脚。
「あ」
ツルが小さく声を上げた。
「椅子がまた足りませんわね」
キサが椅子のない食卓を見て、それから俺を見た。
「ふふ、膝の上は空いていますの?」
「空いてない」
アカが俺の肩の上から即答した。
「てっぺんは妾の場所じゃ」
――――




