第23話 「狐の影」
Cランク昇格の実技試験は、あっけなく終わった。
Cランクの牛型瘴獣。体長二歩半、突進が主武器。ギンが正面を受け流し、クロが横腹を裂き、アカのブレスが止めを刺した。ツルは回復の出番すらなかった。所要時間、十四秒。審査員が二度確認した。
これで正式にCランク。依頼の幅が広がり、報酬の桁が変わる。だが俺が気にしていたのは、別のことだった。
ギルドのカウンターでリノに声をかけた。
「前に言ってた件、その後どうなった。俺の情報を探ってる人間の話」
「はい。実は問い合わせがさらに増えています。近隣三つの街のギルドから、ハルさんのパーティー構成と活動履歴の照会がありました。これは通常の業務照会なので問題ありませんが……」
リノがペンを止めて、声を落とした。
「それとは別に、身元の確認が取れない問い合わせが二件。どちらも同じ内容で、ハルさんが魔獣を従える『方法』を知りたいと」
「返答は」
「規定通り、個人情報は非開示で対応しています。ですが、ギルドの窓口を通さず直接接触してくる可能性もあります。お気をつけて」
リノの目は真剣だった。
「分かった。ありがとう」
ギルドを出た。通りを歩きながら考える。方法を知りたい。それは恩刻のことを指しているのか、それとも単にテイムなしで魔獣を連れる技術を求めているのか。どちらにせよ、恩刻の存在を外部に公開する段階ではない。ゼノの研究もまだ途中だ。
今は通常業務を続ける。それが一番確実だ。
◇
Cランク最初の依頼を二件片付けて、拠点への帰路についたのは日が落ちてからだった。
街灯の少ない通りを五人で歩く。ギンが俺の右腕、アカが肩の上、クロが三歩後ろ、ツルが最後尾。いつもの隊列だ。
ギンの耳がぴくりと動いた。
足が止まる。銀の尾が太くなった。鼻がひくつく。一度、二度、三度。
「主さま」
声が低い。戦闘前の声だ。
「血の匂い。それと……獣。でも瘴獣じゃない」
クロの耳も同時に動いていた。
「あたしも分かる。生きてる匂い。弱ってるけど、瘴気はない」
拠点はもう見えている。石造りの門、修繕した屋根、庭の柵。だが門の前に、何かがある。
暗がりの中に、人の形が倒れていた。
駆け寄った。
女だった。黒髪が地面に広がっている。着物に似た衣装が左袖から脇腹にかけて裂けていて、布の下から血が滲んでいる。左腕は手首から先が赤黒く染まっていた。呼吸は浅い。意識が朦朧としているのか、目が半開きのまま焦点が合っていない。
だが俺の目が止まったのは傷ではなかった。
倒れた体の下から、白いものが覗いている。一本ではない。二本、三本。数えきれない。月光を受けて銀白色に光る、ふさふさとした尾。
九本。
ギンの全身の毛が逆立った。
「……狐」
低い、唸るような声。本能の警戒だ。ギンの銀の尾が倍近くまで膨らんでいる。
「ギン。落ち着け」
「でも主さま、狐は——」
「分かってる。だが今は怪我人だ」
膝をついた。
手順は体が覚えている。何度もやった。ギンの時、クロの時、ツルの時、アカの時。目の前に傷ついた生き物がいたら、まず止血。次に傷口の洗浄。考えるのはその後だ。
腰の革袋から包帯と清潔な布を出した。左腕の傷を確認する。切り傷が三本。深いが腱は無事だ。何かの刃物ではなく、爪で裂かれたような傷跡。脇腹の方は打撲に近い。肋骨が折れているかもしれないが、内臓に達している様子はない。
「ツル」
「はい」
ツルが隣に膝をついた。白い手を女の脇腹の上にかざす。淡い光が傷口を包む。浄化の力が雑菌を洗い流し、腫れを抑える。
「骨に罅が一本。内臓の損傷はありません。出血量が多いですが、今止血すれば命に別状はないかと」
「頼む」
俺が左腕の止血を終え、ツルが脇腹の浄化を続ける。女の呼吸が少しだけ安定した。
その間もギンは毛を逆立てたまま周囲を警戒していた。クロが屋根に飛び上がり、周辺を見渡している。
「追手の気配はないわ。少なくとも今は」
「追手がいたのか」
「この傷、獣の爪だけど、瘴獣のものじゃない。テイムされた魔獣の爪よ。揃い方が人工的」
クロの目が鋭い。虐待された過去を持つクロは、人間が魔獣に付けさせた傷跡を見分けられる。
テイムされた魔獣に襲われた。つまり追手は人間だ。
「中に運ぶ」
女を抱え上げた。見た目より軽い。九本の尾が腕の上で広がった。月光に透ける白い毛並みが、驚くほど柔らかかった。
拠点のドアをツルが開けた。居間の長椅子に横たえ、毛布をかける。ツルが引き続き浄化を当てる。
俺が女の傷口に新しい包帯を巻いている時だった。
胸の奥で、熱が灯った。
五度目。
ギンの時と同じ熱。クロの時と、ツルの時と、アカの時と。
あの、静かで確かな熱。
「主さま、また拾った……」
ギンが居間の入り口に立って、銀の耳を垂らしていた。声に三割の諦めと七割の不満が混じっている。
「拾ってない」
「パターン入ったわね」
クロが窓枠に腰かけながら言った。
「妾の時と同じではないか。傷ついて倒れておるところをおぬしが助ける。もはや様式じゃ」
アカが俺の肩の上から女の顔を覗き込んでいる。
ツルが女の額の汗を拭きながら、静かに言った。
「今度の方は、随分と綺麗な尾ですね」
九本の尾が長椅子からはみ出して、床に広がっている。白い毛先が月明かりに銀色を帯びて、たしかに綺麗だった。
「ギン、そんな顔するな。まだ何も分かってない」
「分かってるよ。主さまはまた助けたの。そしたらまたこうなるの」
「こうなるって何だ」
「増えるの」
否定できなかった。
◇
女の容態が安定したのを確認して、居間を出た。
汚れた包帯を片付けている時、気づいた。
女を長椅子に横たえた際に、懐から何かが落ちていた。小さな紙片が床に転がっている。
拾い上げた。
紙は上質だった。商人が使うような、薄くて丈夫な上等の紙。折り目が三つ。開くと、文字が書かれていた。
インクは新しい。書体は整っていて、教養のある者の筆跡だ。
書かれていたのは二行。
一行目。俺の名前。
二行目。この拠点の住所。
この女は、偶然ここに辿り着いたのではない。
俺を知っている。この家を知っている。最初から、ここに来るつもりだった。
紙片を懐に入れた。居間に戻り、眠っている女の顔を見た。
切れ長の目は閉じている。黒い髪が長椅子の縁から垂れ、九本の尾が毛布の下から溢れている。呼吸は穏やかだ。ツルの浄化が効いている。
何者で、何の目的で、俺のところに来たのか。
それは明日、本人の口から聞く。
◇




