第21話 「学者の来訪」
古文書を見つけた翌日、俺はギルドでリノに相談した。
「古代共通語で書かれた文書が書庫にあった。読める人間を探してるんだが、心当たりはないか」
リノがペンを止めた。
「古代共通語の専門家は少ないです。この街にはいません。近隣の街にも、大学都市まで行かないと……」
そこで言葉を切って、何かを思い出したように視線を上に向けた。
「一人だけ、心当たりがあります。ただ、少し変わった方で」
「変わった、というのは」
「偏屈です。以前ギルドに所属していた研究者なんですが、学術的見解の相違で……要するに追い出された方です。今はこの街の外れに住んでいるはずですが、人嫌いなので引き受けてくれるかどうか」
「古文書を見せると言えば来るか」
「……来ると思います。あの方にとって古文書は食事より大事みたいなので」
リノが苦笑しながら紹介状を書いてくれた。
「お名前はゼノさんと言います。それと……もしかしたら、ハルさんの家のことをご存知かもしれません」
「どういう意味だ」
「フィンさん——あの家の前の持ち主の師匠だったという話を、昔の記録で見たことがあります」
フィンの師匠。
あの書庫を作った弟子と、古代共通語を読める師匠。繋がった。
◇
三日後の朝だった。
拠点の門が叩かれた。控えめな音ではなく、硬い杖で木戸を突くような乱暴な叩き方だった。
開けると、男が立っていた。
四十代。髪は寝癖なのか地毛なのか分からない角度で跳ねていて、左の襟が内側に折れたまま放置されている。分厚い眼鏡の奥の目は鋭いが、焦点が合っているのかいないのかよく分からない。両手の指先がインクで青黒く染まっている。肩に掛けた鞄から紙束がはみ出していた。
「ゼノと申す。古文書があると聞いてきた。見せてもらえるかね」
挨拶の前に要件が来た。リノの言う通り偏屈らしい。
「ハルだ。どうぞ」
「ああ、うん。君がテイムなしの。リノから聞いている。興味深い事例だが、それは後でいい。古文書を」
玄関を上がる前に靴を脱ぐ文化がないのか、土足で入ろうとしたのをツルが静かに止めた。
「お履き物はこちらに」
「ああ、すまない。人の家に入るのが久しぶりでね」
ゼノは書庫の場所を聞く前に、自分で廊下の匂いを嗅いで方角を当てた。
「紙とインクと革の匂いがする。奥の右だな」
鼻が良いのか習性なのか。書庫の扉を開けた瞬間、ゼノの足が止まった。
眼鏡の奥の目が見開かれていた。
棚の配置を見ている。壁に沿って並んだ古い本の背表紙を、一冊ずつ目で追っている。右手が無意識に持ち上がり、指先が空中で棚をなぞった。
「……フィン」
声が変わっていた。さっきまでの素っ気ない口調ではなく、喉の奥から絞り出すような声だった。
「あいつ、ここまで続けていたのか」
ゼノが棚の前に立った。背表紙に触れず、数センチの距離で指を止めている。触れたら壊れると思っているのか、それとも別の理由か。
「フィンの師匠だと聞いている」
「ああ。私が師で、フィンが弟子だった。二十年以上前の話だ」
ゼノは棚の前に腰を下ろした。床に直接座って、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「私はかつてギルドの学術部門に所属していた。研究テーマは人間と魔獣の共存可能性。テイムに代わる魔獣との関係構築の方法を探していた。だが、ギルドの主流派には受け入れられなかった」
「危険思想として追放された、とリノから聞いている」
「そう表現されるだろうな。テイムは魔獣の意思を上書きする技術だ。それが唯一の正解だとギルドは考えている。意思を尊重したまま共存する方法があると主張した私は、テイムの否定者と見なされた」
ゼノが眼鏡をかけ直した。
「追放された後、私は街の外れに引き籠もった。フィンはこの家で研究を引き継いでくれていた。だが私が追放された後、フィンにもギルドから圧力がかかった。師弟関係を理由に、な。直接会えなくなった。手紙のやり取りもいつしか途絶えた」
ゼノの視線が棚の一角に止まった。フィンの筆跡で書かれたらしい研究ノートが何冊も並んでいる。
「十年前に、フィンが病で死んだと人伝に聞いた。この家がどうなったかは知らなかった。書庫が残っているとは、まして研究がここまで進んでいたとは……」
声が途切れた。眼鏡を外して、目頭を押さえる。二度目だった。
俺は棚の裏から見つけた古文書を差し出した。
「これを読んでほしい」
ゼノが古文書を受け取った。表紙の紋章を見た瞬間、指が震えた。
「……これはフィンの字ではない。もっと古い。少なくとも三百年は遡る。フィンがどこかから入手して、ここに保管していたのだろう」
頁を開いた。古代共通語の文字列を目で追いながら、ゼノの口が小さく動く。黙読ではなく、音を確認している。一頁、二頁、三頁。時間が経つにつれて、頁をめくる手の速度が上がっていった。
七頁目でゼノの手が止まった。
「これは……恩刻の記録だ」
「恩刻」
「太古に存在したとされる法則。文献上でしか確認されていなかった概念だ。私の研究はこの法則の存在を前提にしていたが、実物の記録を見たのは初めてだ。フィンはこれを見つけていたのか……私に知らせることもできずに」
ゼノが古文書を膝の上に置いて、こちらを向いた。学者の目に戻っている。だがその奥に、弟子への感情が残っていた。
「恩刻とは、純粋な善意で魔獣を救った際に、救われた魔獣の魂に刻まれる印のことだ。救われた側は恩を忘れられなくなる。だが、それだけだ。行動を操る力はない。感情を書き換える力もない。ただ、恩が刻まれ、忘れられなくなる」
「テイムとは違うのか」
「正反対だ」
ゼノの声に力が入った。
「テイムは魔獣の意思を上書きする。命令に従わせる。逆らえば罰がある。恩刻にはそのどちらもない。意思を尊重する。従うも離れるも魔獣の自由だ。恩が刻まれても、それに応えるかどうかは本人が決める」
俺は居間の方に目をやった。ギンとアカの言い争う声が薄く聞こえている。クロの「うるさい」が挟まって、ツルの「まあまあ」が続く。いつもの音だった。
「俺がやったことと同じか」
「……同じだろうな」
ゼノが俺をじっと見た。眼鏡の奥の目は鋭かったが、敵意はなかった。
「君のことはリノから聞いていた。テイムなしで魔獣を四体連れている冒険者。魔力がゼロ。スキルもゼロ。だが魔獣が自らの意思で傍にいる。まさか恩刻の体現者だとは思わなかったが」
「体現者って大げさだ。俺はただ助けただけだ」
「"ただ助けただけ"が恩刻の本質だ」
ゼノが古文書の一節を指でなぞった。
「この記録にはこう書いてある。見返りを求めぬ善意のみが、この法則を起動する。打算があれば刻まれない。義務感でも刻まれない。純粋に、ただ目の前の命を助けたいと思った時にだけ、恩は刻まれる」
俺は黙った。
大げさだと思う。ギンを助けた時も、クロの傷を治した時も、ツルの翼を包帯した時も、アカの瘴気を剥がした時も、理屈なんか考えていなかった。目の前で苦しんでいる奴がいたから手を伸ばした。それだけだ。
だがゼノは「それだけ」に意味を見出している。二十年以上の研究が、この古文書と、この家と、俺たちに繋がったのだ。
「ゼノ。この書庫の本は全部残してある。読めない文字が多いが、捨てる気はない」
「……ありがたい」
ゼノの声が小さくなった。眼鏡を外して、また目頭を押さえた。
「フィンの研究が残っていた。それだけで、ここに来た甲斐があった」
古文書の最後の頁を開いた時、ゼノの手が止まった。
さっきまでとは違う止まり方だった。頁をめくる途中で凍りついたように動かなくなり、眼鏡の奥の目が細くなった。
「この記録には続きがある」
「続き?」
「恩刻の対極に位置するもの。恩讐の王」
声が低くなっていた。
「恩義を裏切られた者たちの怨念が凝縮した存在。恩を刻まれた者が裏切りを受けた時、恩は反転する。反転した恩が一定量を超えると、それは一つの意思を持つ。記録ではそう書かれている」
書庫の空気が重くなった気がした。
「それが今、どこかにいるのか」
「分からない。この記録は三百年以上前のものだ。当時の話なのか、未来への警告なのか、まだ読み解けていない部分がある」
ゼノが古文書を静かに閉じた。
「だが、これは今すぐの話ではない。まずはこの書庫の文書を全て調べる必要がある。フィンが何を見つけていたのか、それを知らなければ先へは進めない」
「時間がかかるか」
「かかる。だが、急ぐ理由がなければ急がない方がいい。中途半端な知識は判断を誤らせる」
ゼノが立ち上がった。膝の埃を払い、鞄を肩に掛け直す。
「定期的にここへ来てもいいかね。書庫を使わせてもらえるなら、研究を再開したい。フィンが遺したものを、私が引き継ぐ」
「好きに使ってくれ。飯時に来ればツルが食わせてくれる」
「食事つきか。それは助かる。一人暮らしが長いと、食事の質が落ちてね」
玄関で靴を履きながら、ゼノが振り返った。
「ハル君」
「何だ」
「君の周りに集まった魔獣たちは、恩刻によって傍にいるのかもしれない。だが、それは君を縛る鎖ではない。彼女たちが自分の意思でいることを忘れないでほしい」
「当たり前だ。忘れるわけがない」
「そうか」
ゼノが小さく笑った。初めて見る表情だった。偏屈な学者の顔の下に、別の顔があった。
「フィンに見せたかったな、君たちのことを」
門を出ていくゼノの背中を見送った。乱れた髪とインクだらけの指。偏屈で人嫌いで、だが弟子の研究が残っていたことに泣いた人だ。
書庫に戻ると、ツルが古文書を胸に抱いて待っていた。
「ゼノさまは、また来てくださいますか」
「ああ。定期的に来ると言っていた」
「よかった」
ツルが古文書の表紙をそっと撫でた。
「フィンさまという方が遺されたもの……大切にしなければなりませんね」
居間でアカが叫んだ。
「おぬしは妾の専用席なのじゃから、早く来い!」
「椅子なら昨日買っただろ」
「あの椅子は低いのじゃ! おぬしと同じ高さがよい!」
日常が戻ってくる。
その足元に、三百年前の法則と、まだ見えない影が静かに横たわっている。




