第20話 「竜と日常」
アカが拠点に来て最初の朝、風呂が爆発した。
正確には爆発ではない。アカが湯船に浸かった瞬間、体温で水が沸騰したのだ。蓋が天井に飛んで、浴室の窓から蒸気が噴き出して、廊下にいた俺のところまで熱波が届いた。
「アカ。風呂の温度は人肌よりちょっと上だ。沸騰させるな」
「妾は竜じゃぞ。この程度の熱さが心地よいのじゃ」
「お前の後に入る人間のことを考えろ」
「おぬしも一緒に入ればよい。妾は構わぬ」
「俺は構う」
ツルが無言で井戸から水を汲んできて、湯船に足した。20杯足してようやく人が入れる温度に下がった。
次の被害は台所だ。焦げた。
ツルの料理を手伝いたいと言い出したアカに、玉葱の皮剥きを任せた。刃物は危ないので手で剥け、と言ったら、剥く代わりにブレスで外皮を焼き飛ばそうとした。玉葱は炭になり、まな板の表面が黒く焦げ、隣に置いてあった干し肉が燻製を通り越して灰になった。
「火力の加減ができないなら台所に入るな」
「妾は手伝おうとしたのじゃ!」
「気持ちは受け取った。結果は受け取れない」
アカが頬を膨らませて出ていった。刺々しい尻尾が不満そうに左右に振れている。
次はベッド。燃えかけた。
「柔らかすぎるのじゃ。竜は岩の上で眠る。こんなふわふわしたものでは落ち着かぬ」
寝返りを打った際に体温が上がり、シーツの端が焦げたらしい。ツルが浄化の風で消し止めたから延焼はなかったが、シーツは使い物にならなくなった。
「石板を一枚、ベッドの上に敷く。それでいいか」
「……まあ、おぬしがそう言うなら」
石板をどこから調達するかは後で考える。とりあえず今夜は床に毛布を二枚敷いて、その上に石を並べた簡易寝床を作った。アカは不満そうだったが、丸くなったら三秒で寝た。竜の幼体は燃費が悪い分、よく眠る。
庭では別の騒動が起きていた。
「ここはギンの庭! ギンが一番最初に走った!」
「妾の方が強い。強い者が支配するのは自然の理じゃ。ならば妾のものじゃ!」
「強いかどうかは戦ってみないと分からないよ!!」
「ほう、それは宣戦布告とみなしてよいのかのぉ!!」
屋根の上からクロの声が降ってきた。
「うるさい」
それだけ言って、クロは瓦の上で丸くなった。猫の姿ではなく人型のまま屋根で昼寝をするのは相変わらずだ。
「クロの言う通りだ。少し騒がしいぞ。あとくだらない理由で仲間同士戦ったら、追い出すからな」
「主さまがそう言うなら、ギン、我慢する!!」
「……まぁ戦わずとも分かるからの!」
ツルが縁側にお茶を五杯並べて微笑んだ。
「庭は皆さまのものですよ。はい、お茶が入りました」
アカとギンが同時にお茶を受け取って、同時に口をつけて、同時に「熱い」と声を上げて、お互いの顔を見て黙った。
つかの間の休戦だった。
◇
翌日から、アカの火力制御の訓練を始めた。
庭の隅に木の板を立てて的にする。距離は十歩。的の大きさは一歩四方。ルールは単純で、的だけを焼くこと。周囲を焦がさない。それだけ。
「竜のブレスにそのような小細工は不要じゃ!」
「小細工じゃない。技術だ。やれ」
アカが口を開けた。喉の奥に光が集まる。
的が消し飛んだ。
的の左右二歩分の地面が黒く焦げ、後ろにあった石壁に焼き跡がついた。的の周囲三歩が焦土になっている。
「当たったじゃろう」
「的の三倍焼いてどうする。味方がいたら死んでる」
二回目。的を新しく立て直す。
今度はアカが小さく吐こうとした。だが加減が分からず、ほぼ無音の熱風しか出ない。的には焦げ目すらつかない。
「全力か無力かの二択しかないのか」
「竜に中間はない!」
「なければ作れ。竜なら簡単だろ」
三回目。的ごと地面が抉れた。四回目。熱風のみ。五回目。的の右半分だけ焼けて、左半分は無傷。惜しいが制御とは言えない。
六回目。七回目。八回目。
庭の半分が焦げ野原になった。
アカが膝に手をついて息を切らしていた。ブレスは体力を消耗する。幼体ならなおさらだ。額の角の根元が赤くなっている。悔しさの色。
「妾は……役立たずか」
小さな声だった。尊大な口調が崩れて、ただの子供の声になっている。金色の目が地面を向いていた。
俺はアカの前にしゃがんで、頭に手を置いた。角の間を指先で撫でる。朝、寝起きにやったのと同じ動作だ。アカの肩がびくりと跳ねて、それからゆっくり力が抜けた。
「役立たずなわけないだろ」
「でも、当たらぬ」
「当たらないのは今日だけの話だ。お前の火力はこのパーティーに足りなかったピースだ。遠距離攻撃と広域制圧。正に俺達パーティーの課題解決の鍵。お前がいれば、百人力だ」
アカが顔を上げた。金色の目が揺れている。
「本当か」
「嘘は言わない」
「……本当に、妾は必要か」
「絶対に必要だ」
アカの目が潤んだ。だがやはり泣かなかった。唇を引き結んで、拳を握って、顎を上げる。
「……もう一回やる」
「ああ。何度でも付き合う」
九回目。的の右端が少しだけはみ出したが、ほぼ的の範囲内に収まった。完璧ではない。だが、さっきまでとは明らかに違った。
「今のは良かった。感覚を覚えておけ」
「覚えた。妾は竜じゃ。一度覚えたことは忘れぬ」
角の根元はまだ赤いが、さっきとは理由が違った。褒められたのが恥ずかしいのだ。尻尾が小さく揺れている。
◇
夕方。
ツルが夕食を仕上げる頃、居間の食卓にひとつ問題が発生した。
椅子が足りない。
四人分の椅子に五人が座ることはできない。拠点を整えた時点では四人だったのだから当然だ。
「明日買い足す。今日は——」
言い終わる前に、アカが俺の膝の上に座った。当然のように。
「これでよいではないか」
「よくない」
「妾は軽いから問題ない」
「そういう問題じゃない」
確かに軽い。竜の幼体は見た目より骨密度が低いらしく、同じ体格の人間の子供より軽い。だがそういう問題ではない。
「ギンも膝に座る!」
ギンが立ち上がった。銀の尾が張り切って揺れている。
「二人乗ったら椅子が壊れる」
「ギンも軽い!」
「妾よりは全然重いじゃろ」
「軽いの!!!」
クロが頬杖をつきながら欠伸をした。
「子供の喧嘩に付き合ってらんないわ」
「おぬしも子供であろう。背丈は妾とそう変わらぬぞ」
「あたしは成長期なの。竜と一緒にしないで」
ツルが料理を食卓に並べながら、穏やかに口を開いた。
「椅子は明日買いましょう。今日は……ハルさまの膝でお許しください、アカさん」
「許すも何も妾の特等席じゃ。我慢などしておらぬ」
根菜と鶏肉の煮込み。焼きたてのパン。蒸した芋に塩とバター。ツルの料理は五人分に増えても質が落ちない。
五人で手を合わせた。
「いただきます」
ギンが真っ先にパンを掴んだ。クロが煮込みの肉を静かに選り分けた。ツルが全員の皿に均等に盛り付けた。アカが俺の膝の上で器用にスプーンを使い、煮込みを口に運んだ。
「……美味いのじゃ」
小さな声だった。
金色の目が皿を見つめている。昨日までは森の中で、一匹で、痛みに耐えながら過ごしていた。温かい食事を食べたことがあるのかどうかも分からない。
「ツルの料理はうまいだろ」
「……うむ」
それだけ言って、アカは黙って食べ続けた。
尻尾が俺の膝の横で、ゆっくり揺れていた。穏やかな速さだった。
◇
食後。
皆が居間でくつろいでいる間に、俺は書庫に入った。
前の住人が残した本の整理はまだ半分も終わっていない。古い文字で書かれた学術書が多く、読める部分と読めない部分がまだらに混在している。いつか読める人間が来た時のために、状態を保っておきたい。
棚の奥の本を引き出した時、壁と棚の隙間から一冊が落ちた。
他の本より薄い。だが装丁が違った。革の表紙が経年で硬くなっているが、作りが丁寧だ。研究書というより、日誌に近い大きさ。
表紙に紋章が刻まれていた。円の中に文字が一つ。見覚えのない形だが、どこか整った印象がある。
「ハルさま」
ツルが書庫の入り口に立っていた。お茶を持ってきてくれたらしい。だが、その目は俺の手の中の本に釘付けだった。
お茶の盆を静かに棚の上に置いて、ツルが近づいてきた。紋章を覗き込み、青い目が見開かれる。
「この紋章……」
白い指が表紙の文字をなぞった。
「古代共通語で、『恩』を意味します」
「読めるのか」
「完全には。ですが、この一文字だけは……ツルの一族に伝わる言い伝えに、同じ形がありました」
ツルの声がわずかに震えていた。
いつもの穏やかさの奥に、別の感情が見えた。驚きでも恐れでもなく、もっと深い何かに触れたような顔だった。
「この本、読めるか」
「……時間をいただければ」
「急がなくていい。無理もするな」
「はい」
ツルが本を胸に抱えた。大切そうに、両手で。
書庫の窓から夜風が入ってきた。居間からギンとアカの言い争う声が聞こえる。クロの「うるさい」が挟まって、一瞬静かになって、またすぐに騒がしくなる。
五人の日常が、少しずつ形になっていく。
その土台の下に、まだ知らない何かが眠っている。
◇




