第18話 ただ助けたいだけ
炎の壁の内側は、嘘のように静かだった。
焦げた地面。灰になった草。その中央の窪みに、赤い塊がうずくまっている。
大型犬ほどの体。紅い鱗が重なり合い、折り畳まれた翼の先端がかすかに震えていた。
綺麗だ、と思った。
鱗の一枚一枚が夕焼けみたいに濃い赤で、翼の膜は光を透かすと橙に変わる。
だがその背中に、黒い塊がこびりついていた。
瘴気だ。
拳ふたつ分ほどの大きさで、鱗の隙間に根を張るように食い込んでいる。縁が脈打っていて、まるで生きているように見えた。
幼竜がこちらを向いた。
目が赤く濁っている。ギンの金色やクロのオッドアイのような、意思のある色じゃない。痛みと恐怖で曇った、濁った赤。
だが、その奥に光が残っていた。微かに、金色の粒が赤の底で揺れている。
まだ生きている。この子の心は、まだ瘴気に呑まれていない。
俺は足を止めた。
保護猫カフェで三年ボランティアをした。
怯えた猫、怒った猫、人間に傷つけられた猫。何十匹も見てきた。パニック状態の動物に近づく手順は、体が覚えている。
目を合わせない。
正面から向かわない。
体を低くする。
声を出すなら、低く、短く。
手のひらを上にして、見せる。
膝をついた。
視線を落とす。幼竜の足元の焦げた地面を見ながら、ゆっくり重心を下げる。
幼竜の喉が鳴った。低い、威嚇の音。
次の瞬間、口から炎が噴き出した。
熱風が顔を叩く。髪の先が縮れる感覚。
だが、燃えない。
さっきと同じだ。炎は俺の体に触れた瞬間、避けるように曲がって通り過ぎていく。魔力を標的にする炎にとって、魔力がゼロの俺は「燃やすもの」として認識されない。
熱は本物だ。肌が赤くなるくらいには熱い。だが火傷にはならない。
幼竜の目が揺れた。
炎を吐いたのに、目の前の相手が倒れない。逃げもしない。動かない。
混乱している。パニック状態の猫と同じだ。威嚇が通じないと、次にくるのは硬直か逃走。この子には逃げる場所がない。巣を離れられないから。
俺は手のひらを上に向けて、ゆっくり前に出した。
「痛いんだな」
低い声で言った。猫に話しかけるときと同じ音量。同じ速度。
「怖いんだな」
幼竜の威嚇音が小さくなった。喉の奥でまだ鳴っているが、さっきほどの勢いはない。
「大丈夫だ。取ってやる」
一歩、膝で進んだ。
幼竜が身を引いた。だが巣の縁に背中がぶつかって、それ以上下がれない。翼が広がりかけて、すぐに畳まれる。飛ぶ力も残っていない。
もう一歩。
幼竜の鼻先に、俺の手のひらが届く距離。
金色の粒が、濁った赤の中で震えている。
俺は手を伸ばした。幼竜の背中に向けて。
指先が黒い塊に触れた。
熱い。炎とは違う、鈍い、じくじくとした熱。瘴気が魔力に反応して高温を発する性質は知っていたが、俺の手に含まれる魔力はゼロだ。反応はするが、弱い。火傷ではなく、長時間湯に浸けたような痛み。
耐えられる。
指を瘴気の縁に引っ掛けた。鱗の隙間に根を張った黒い塊を、爪で掻き出すようにして剥がす。粘りがある。冷えた蝋みたいにべったりとこびりついて、簡単には取れない。
幼竜が暴れた。痛いのだ。瘴気が鱗に食い込んでいるから、剥がす衝撃が直に伝わっている。
「ごめん。もう少しだけ我慢してくれ」
両手で掴んで、引いた。
黒い塊の半分が、鱗から剥がれた。下から赤い鱗が現れる。傷ついて色が薄くなっているが、腐ってはいない。間に合っている。
残り半分。根が深い。指だけでは届かない。
腰の小刀を抜いた。刃先を瘴気と鱗の隙間に差し込み、梃子のように押し上げる。
幼竜が甲高い声で鳴いた。
痛みの悲鳴。心臓が締まる。だが手は止めない。ここで止めたら、瘴気がまた食い込む。
最後の一塊が剥がれた。黒い瘴気が俺の手の中でどろりと崩れ、灰になって地面に散る。
その瞬間を、待っていた人がいた。
炎の壁の向こうから、白い光が飛んできた。
ツルの浄化。射程の限界を超えて、狙い澄ました一射。白い光が幼竜の体を包み込み、鱗の隙間に残っていた瘴気の残滓を洗い流す。
幼竜が目を見開いた。
赤い濁りが、薄れていく。
濁りの底にあった金色の粒が広がって、瞳全体を満たしていく。
金色。
澄んだ、幼い、怯えた金色の目。
幼竜が俺を見上げた。
さっきまでの威嚇はもうない。恐怖はまだ残っている。だがそれ以上に、別の何かがその目に浮かんでいた。
初めてギンを助けた朝にも見た光。クロが袖を掴んだ夜にも見た光。ツルが「嫁入りに参りました」と頭を下げた朝にも見た光。
俺の胸に、四度目の熱が灯った。
幼竜が首を伸ばして、俺の腕に頭を擦りつけた。
鱗の感触は思ったより滑らかで、少し温かい。小さな体が震えている。さっきまでの威嚇とは正反対の、甘えるような仕草。
きゅう、と鳴いた。
泣いているように聞こえた。
俺は幼竜の頭に手を置いた。鱗の上を指先でゆっくり撫でる。震えが少しずつ収まっていく。
きゅう、ともう一度鳴いた。
俺の腕の中で丸くなって、翼を畳んで、目を閉じた。
周囲の炎が揺れた。
赤い壁が端から薄くなっていく。炎が地面に落ちて、燃え尽きて、灰になって、消える。
三日間燃え続けた火が、静かに消えていく。
壁が消えた向こう側に、三つの影が見えた。
銀色の髪。黒い髪。白い髪。
三人とも走り出しかけて、俺の腕の中で眠っている赤い塊を見て、足を止めた。
ギンが泣きそうな顔で笑った。
「……主さま、また拾った」
「拾ってない。助けただけだ」
「それが拾うってことなんだけどね」
クロが呆れた声で言った。いつもの憎まれ口だったが、口元が少し緩んでいた。
ツルは何も言わなかった。
ただ静かに歩いてきて、俺の横に膝をつき、幼竜の頭をそっと撫でた。白い指が赤い鱗の上を滑る。
「よく、頑張りましたね」
幼竜に言ったのか、俺に言ったのか。
多分、両方に。
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