第17話 「暴走の子」
レーゲン森林の入り口に着いたのは、出発から四刻後の昼過ぎだった。
遠くから見えていた煙は、近づくほどに熱を伴った。
街道を外れて獣道に入った時点で、空気が変わる。乾いた風に混じる焦げた木の匂い。地面に転がる炭化した枝。踏むたびに、黒い灰が靴底で崩れた。
「主さま。瘴気の匂い、しない」
ギンが鼻をひくつかせながら言った。
俺も気づいていた。これだけの規模の火災なのに、瘴獣が発する腐敗臭が一切ない。報告書の記述と一致する。
「クロ、上から見えるか」
「……木が邪魔。もう少し進めば開ける」
クロが枝の上を跳びながら先行する。
猫の姿ではなく人型のまま、黒い髪を風になびかせて枝から枝へ飛び移る動きは、相変わらず音がしない。
五十歩ほど進んだところで、クロが止まった。
「見えた。……でかい」
木々の切れ間から、火が見えた。
森の中心部、直径にして百歩以上の範囲が燃えている。だが燃え方がおかしい。木が根元から焼けているのではなく、空中に炎の帯が走っている。地面に落ちた火は燃え広がらず、一定の範囲で止まっている。
「あの火、勝手に消えてる」
「うん。……燃やしたいんじゃない。暴れてるだけだ」
俺は腰の革袋から紙と炭筆を取り出した。
炎の動きを追う。右に走って、左に戻る。上に噴き上がって、落ちて、また同じ場所に戻る。その繰り返し。
三周、見た。
「同じところを回ってる」
「主さま?」
「あの火の中心、何かある。巣だ。あの子は巣の周りをぐるぐる回ってる。逃げてるんじゃない、守ってるんだ」
ギンが目を細めた。銀の耳がぴくりと動く。
「……匂い、やっぱり子供。怒ってるけど、それより怖がってる」
「クロは?」
「同じ。あたしの鼻でも分かる。あれ、泣いてるのと変わらないわ」
泣いている。
三日間、ずっと一匹で。怖くて、熱くて、誰かが来るたびに火を吹いて追い払って。でも巣からは離れられない。
誰かがこの子を怖がらせた。それが何かは分からないが、報告書にあった瘴気の黒い染みがそれかもしれない。
「近づく」
「え」
三人が同時に振り向いた。
「ツル、浄化の風を頼む。炎を弱められるか」
「……試みます。ただ、効果範囲は前方二十歩が限界です。炎の勢いによっては、十歩まで縮むかもしれません」
「十歩でいい。俺が入る隙間ができればいい」
「主さま、あの熱の中に入るの?」
ギンの声が震えた。
銀の尾が太くなっている。怒りではなく、恐怖。
「ギン。あの炎は魔力で燃えてる。消火隊が近づけなかったのは、彼らが魔力を持っていたからだ。魔力を持つ者が近づくと、あの子は敵だと思って火を強くする」
「じゃあ……」
「俺は魔力がゼロだ。鑑定でも才能でも数値が出なかった唯一の人間。あの子にとって、俺は脅威にならない」
理屈は通る。
だが理屈と安全は別の話だ。魔力がゼロでも、火は熱い。炎に巻かれれば普通に死ぬ。
「ツルの浄化で炎が弱まった瞬間に入る。サイクルは約二刻に一度、火が小さくなる。その隙間を使う」
「……計算上は、可能です」
ツルが静かに頷いた。白い髪が風に揺れる。青い目は真っ直ぐ俺を見ていた。
信頼している、という目だった。それが逆に重い。
「ギン、クロ。お前たちはここで待て。ツルは浄化の射程ぎりぎりまで前に出て、そこから動くな」
「やだ」
ギンが俺の袖を掴んだ。
銀色の目に涙が溜まっている。
「主さまが行ったら、ギンは何もできない。火の中に入れない。主さまが怪我しても、走っていけない。それがいちばん怖い」
あの時ギンは暴走しかけた自分を恐れた。今度は、俺が手の届かない場所に行くことを恐れている。
俺はギンの頬に手を置いた。
「俺は絶対にお前を置いていかない。お前も俺を置いていくな」
ギンの目が大きく見開かれた。
あの夜と同じ言葉。同じ約束。
「……覚えて、る」
「当たり前だ。約束だから」
ギンの手が俺の手に重なった。小さく震えていた指が、ゆっくり止まる。
「……待ってる。絶対、待ってる」
「ああ。すぐ戻る」
クロが何も言わずに俺の背中を叩いた。
軽く。でも、しっかりと。
「死んだら許さないから」
「死なない」
「……ふん」
ツルが一歩前に出た。両手を胸の前で組み、白い光が掌に集まる。
「浄化の風、参ります。持続は六十数えるまで。それ以上は保証できません」
「六十で充分だ。ありがとう、ツル」
「……行ってらっしゃいませ」
ツルの手から白い風が放たれた。
炎の壁に当たり、赤が薄くなる。完全には消えない。だが、人ひとりが通れる隙間が開いた。
俺は走った。
革鎧の上から熱が叩きつけてくる。腕の毛が縮れる感覚。息を吸うと喉が焼ける。水を含ませた布で口を覆い、目だけで前を見る。
十歩。
炎が左右から迫る。浄化の風がぎりぎりで押し返している。
二十歩。
風が届かなくなった。炎が襲いかかる。
だが、不思議なことが起きた。
炎が俺の肌に触れた瞬間、燃えなかった。熱い。確実に熱い。だが、火傷にならない。炎が俺の体を避けるように揺れて、通り過ぎていく。
魔力ゼロ。
この体は魔力の炎にとって、燃やす対象として認識されないのかもしれない。
三十歩。
炎の壁を抜けた。
中は、静かだった。
焦げた地面の中央に、小さな窪みがある。枯れ草と羽毛で作られた粗末な巣。その真ん中に、赤い影がうずくまっていた。
大きな犬ほどの体。赤い鱗。折り畳まれた翼。
震えている。
顔を上げたその目は、金色だった。
涙の跡が、鱗の上に光っていた。
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