第13話 「戻れ」
拠点生活が軌道に乗ったのは、引っ越しから十日目のことだった。
木板の収支表を更新する。
今月のDランク依頼完了数:二十四件。
月間報酬合計:銀貨二百八十六枚と銅貨少々。
支出:食費、資材費、消耗品費を差し引いて、純利益は銀貨百九十枚。
「銀貨百九十枚……」
Cランク上位のソロ冒険者の月間収入が銀貨二百枚前後と聞いている。Dランクのパーティーが、それにほぼ並んでいる。
理由は単純だ。三人の連携精度が上がったことと、ツルの回復による稼働時間の延長。
そしてもう一つ。依頼の選別と動線設計を徹底した結果、移動のロスが極限まで減っている。
前世の営業時代、担当エリアの巡回ルートを最適化して訪問件数を三割増やしたことがある。やっていることは同じだ。ただし前世では上司に「お前のやり方は機械的で血が通ってない」と言われた。今は誰にも文句を言われない。
「主さま、またお金の計算してる」
「大事なことだ」
「ギンにはよく分かんない。でも主さまが嬉しそうだから、いいこと」
「嬉しそうに見えるか」
「数字を見てる時、主さまのしっぽ、振ってる顔してる」
否定できなかった。
*
昼前にギルドに向かった。依頼の報告と、新しい依頼の受注。
カウンターでリノが書類を受け取りながら、声をひそめた。
「ハルさん。ちょっとお耳に入れたいことが」
「何だ」
「次の四半期のランク査定が来月あります。Dランクからの昇格推薦は通常一年以上の実績が必要ですが……ハルさんの場合、依頼の達成件数と成功率がCランクの基準を大幅に超えてます」
「推薦が出せるってことか?」
「私の一存では出せませんが、支部長に打診はできます。実績で語れるだけの数字は揃ってますから」
「ありがとう。助かる」
「いえ。……正直、ここまでのペースは想定外でした。ハルさんのパーティーは、数字だけ見れば既にCランク上位です」
リノが少しだけ笑った。
事務的な笑顔ではなく、個人的な感情が混じった笑み。
背後でギンの尻尾が膨らむ気配がした。定期的に発生する現象なので気にしない。
報告書を提出し終えて掲示板を確認していた時だった。
ギルドの扉が開いた。
空気が変わった。
振り返ると、入り口に男が立っていた。
レクス。
前に見た時より痩せている。頬がこけて目の下に隈がある。革鎧が体に合っていない。以前はぴったりだったはずの鎧が緩い。
そして、隣にいるはずの炎狼がいなかった。
一人だ。
レクスの目が俺を見つけた。
一瞬だけ表情が揺れた。驚き。それから、何かを飲み込むような動き。
近づいてくる。
ギルド内の冒険者たちの視線が二人に集まった。
「ハル」
「……レクス」
「久しぶりだな」
「ああ」
沈黙。
レクスの目が俺の後ろを見た。ギン、クロ、ツル。三人が俺の背後に立っている。
レクスの顔が一瞬だけ歪んだ。
「……単刀直入に言う」
息を吸った。
「戻って来い。お前が必要なんだ」
ギルドが静まった。
カウンターでペンを走らせていた他の受付嬢の手も止まった。冒険者たちが酒杯を置いた。リノが息を呑む気配がした。
「パーティーの経費管理も、獣の世話も、依頼の段取りも。全部お前がやってた。お前がいなくなってから何もかもうまくいかなくなった」
レクスの声は、あの夜とは違っていた。
追放の時は冷静だった。無感情に切り捨てる声だった。
今は違う。切羽詰まっている。余裕がない。
「炎狼が逃げた。テイムし直そうとして失敗して、制御が外れた。ガルドとミランも抜けた。パーティーはもう俺一人だ」
「知ってる。ガルドがこのギルドに来た時に聞いた」
「なら話が早い。お前の管理能力が必要なんだ。報酬の配分も見直す。荷物持ちじゃない。対等なパーティーメンバーとして」
「今さらか」
声を荒げたわけではない。ただ事実を確認しただけだ。
だがレクスの顔がこわばった。
「……頼む。お前がいないと立て直せない」
静かなギルドに、レクスの声だけが響いた。
俺は三秒だけ黙った。
考えたわけではない。答えは最初から決まっている。
三秒は、相手の言葉を受け取ったという礼儀だ。前世の営業で覚えた間の取り方。
「断る」
短く。静かに。
レクスの目が見開かれた。
「お前が俺を追放した時、俺はスキルなしの荷物持ちで、いらない存在だった。それは今も変わってない。魔力はゼロだし、ステータスも全部D。俺自身は何も変わっていない」
「なら——」
「変わったのは、俺の隣にいる奴らだ」
後ろに立つ三人を、目で示した。
「この三人がいるから、俺は今ここに立ってる。段取りも管理も、この三人のためにやってることだ。お前のために使う理由がない」
レクスの顔が赤くなった。
恥辱か怒りか、あるいはその両方。
「あいつらは魔獣だぞ! テイムもしてない危険な——」
「あなたが、主さまを捨てた人」
ギンが一歩前に出た。
金色の目がレクスを見ている。
殺気ではない。威嚇でもない。
ただ、確認している。この人間が何者なのかを。
「主さまを『いらない』って言ったの、あなたでしょう」
レクスが半歩退いた。
ギンの目の奥にある、フェンリルの血統の重さ。上位魔獣が放つ本能的な圧。テイマーならなおさら感じるはずだ。
「ふーん。これが噂の元リーダーね」
クロが横に並んだ。
オッドアイが冷めた光を帯びている。
「あたし、もっと大物を想像してたんだけど。思ったよりしょぼいわ」
「しょぼ——」
「テイム獣に逃げられるようなテイマーが、あたしたちに『危険』とか言ってるの、ちょっと笑えるわね」
クロの声には感情がない。事実を述べているだけの、乾いた声だ。
だからこそ刺さる。
ツルがハルの隣に立った。
「初めまして。ツルと申します」
穏やかな微笑み。完璧な所作。
だが青い瞳の温度が低い。あの日、宿の扉を叩いた時と同じ目だ。その裏にある鋼を知っているのは、この場では俺だけだ。
「ハルさまは、わたくしたちの大切な方です。お返しする気はございません」
丁寧語の圧。
穏やかな声で、完全な拒絶を告げている。
ギルド内がざわついた。
「あれ、テイムなしの魔獣三体の……」
「Dランクの最速昇格のパーティーだろ。最近噂の」
「銀髪の嬢ちゃん、フェンリルの血統って聞いたぞ」
「レクスの方はテイム獣に逃げられたんだろ? つまりあの炎狼もハルの方に行ったってことか」
「行ってない。炎狼はどこに行ったか分からないって話だ」
「どっちにしろ、レクスはもう……」
囁きが重なる。
レクスの耳にも届いているはずだ。
レクスの肩が震えていた。
怒りだけではない。屈辱と、何か別のもの。
「……後悔するぞ」
声が低かった。
「魔獣なんかに囲まれて。テイムもしないで信頼だけで繋がってるつもりか。いつか裏切られる。魔獣は所詮、獣だ」
ギンの耳がぴくりと動いた。
クロの尻尾が膨らみかけた。
ツルの微笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
三人の感情が動いた。
だが三人とも、何も言わなかった。
代わりに、俺を見た。
俺がどうするかを、見ていた。
「レクス」
「何だ」
「お前の炎狼、名前は何だった」
レクスの表情が一瞬固まった。
「……テイム獣に名前なんかつけるか」
「そうか」
それだけ言って、俺は背を向けた。
レクスが何か叫んだ気がする。だが聞かなかった。
聞く必要がなかった。
テイム獣に名前をつけない。
それがレクスの答えだ。
そして俺の答えは、最初から決まっていた。
*
ギルドを出ると、秋の風が吹いていた。
四人で並んで歩く。
ギンが右。クロが左。ツルが半歩後ろ。いつもの配置。
「主さま」
「ん?」
「主さまは後悔してない?」
「してない」
「ほんと?」
「本当だ。あのパーティーに戻る理由がない。俺の居場所はここだ」
ギンの尻尾がぶんぶん揺れた。
「ギンもここが居場所! 主さまの隣が居場所!」
「あたしは別にどこでもいいけど」
「クロ、嘘。いつも主様の近くにいる」
「たまたまよ。道が狭いだけ」
道は十分広い。
「にしても、ざまあないわね」
クロが鼻を鳴らした。
だがその声には、いつもの冷たさがなかった。少しだけ、楽しそうだった。
「ざまぁって何?」
ギンが首を傾げた。
「いい気味って意味よ」
「いい気味。じゃあギンもざまぁ!」
「使い方が違うわよ」
「えー。じゃあどう使うの?」
「今のあの男に向かって言うの。あなたみたいに落ちぶれて、ざまぁないわねって」
「じゃあ主さまにはざまぁしない?」
「す、するわけないでしょ!」
「よかった!」
「はぁー調子狂うわ」
「まあまあ」
ツルが穏やかに笑った。
「クロさんの語彙力講座、続きは夕食の時にいかがですか」
「誰が語彙力講座よ」
「ツルさんもざまぁする?」
「わたくしは上品な言葉を使いますので」
「あたしが下品みたいに言わないでくれる?」
四人の声が秋の空に散っていく。
追放された日の夜、一人で森を歩いた。
あの時の静寂が嘘のように、今は騒がしい。
騒がしくて、温かい。
「主さま、今日のお昼ご飯は?」
「ツルに任せる」
「煮込みの残りがあります。温め直しますね」
「ギンも食べる!」
「あたしは魚がいい」
「魚は明日の朝にしましょう」
「えー」
こうして日常が戻る。
追放された男に、日常を作ってくれる三人がいる。
それだけで十分すぎる。
報酬効率がCランク上位に匹敵するとか。
最速昇格の推薦が出せるかもしれないとか。
そんな数字よりも。
四人分の昼食を囲む食卓が、今の俺には一番の成果だ。
——ただし。
数字も追う。
段取りの鬼は、感傷で手を止めない。
「午後はDランクの依頼を二件入れてある。食後三十分で出発だ」
「主さま、鬼」
「段取りの鬼だからな」
「鬼でもいい。ギンの主さまだから」
尻尾がぶんぶん揺れた。
*
その頃。
ギルドの裏口。
レクスが壁にもたれていた。
拳を握りしめて、唇を噛んでいる。
目の前に影が立った。
「……お困りのようですね」
低い声。落ち着いた口調。
レクスが顔を上げた。
「あんたは……」
「通りすがりの者です。先ほどのやり取り、拝見しておりました」
影の男は顔の半分がフードに隠れていた。だが見える部分の表情には、同情めいた色がある。
「テイム術を使わず魔獣を連れ歩く。しかも三体。……あれは冒険者ギルドの秩序を揺るがしかねない」
レクスの目が鋭くなった。
「あんたも、そう思うか」
「思うも何も。テイムなしの魔獣は制御できない。それは事実です。あの男は今のところ問題を起こしていないようですが、いつ魔獣が暴走してもおかしくない」
「……だろう。俺もそう思ってたんだ。あいつは甘い。魔獣を信頼するなんて、いつか痛い目を見る」
「ええ。放置しておくわけにはいきませんね」
影の男が一歩近づいた。
「お力を貸していただけませんか。あの男の動向を、少し教えていただくだけで結構です」
「……あんた何者だ」
「テイマーギルドの者です。我々は、人と魔獣の正しい関係を守る義務がある」
レクスの瞳に、暗い光が宿った。
「あいつを——ハルを、止められるのか」
「止めるのではありません。正すのです」
影が微笑んだ。
その笑みは、穏やかで、理性的で。
だからこそ不気味だった。
―――――――――――――――――――――――――




