第12話 「猫の不器用」
引っ越し初日。
拠点の修繕は五日で終わった。予備日を使わずに済んだのは、ギンの草刈りとクロの屋根仕事が予想以上に早かったからだ。
ギンの金槌のミスによる遅れを完全にリカバーした。
段取りは大事だが、それ以上に仲間の能力を見誤らないことが大事だと改めて思う。
荷物は少ない。
宿暮らしの四人分の持ち物など、木箱二つに収まった。
一階のリビングに木板を据え付けた。依頼管理ボード。依頼一覧、収支表、フォーメーション図。前世のオフィスに貼ってあったホワイトボードと同じ役割だ。
「主さまの板、また増えた」
「仕事道具だ」
「ギンの部屋にも板ほしい」
「何に使うんだ」
「主さまの絵を描く」
「却下」
ギンは自室を与えたにもかかわらず、五分でハルの部屋に移動してきた。自室のベッドには一度も座っていない。
「ギンの部屋は主さまの部屋」
「お前の部屋はお前の部屋だ」
「でも主さまの部屋のほうが主さまの匂いがする」
「当たり前だろう」
押し問答をしている間に、ギンは俺のベッドに丸くなっていた。銀の尻尾が布団から出ている。もう動かない。諦めた。
キッチンからはツルの鼻歌が聞こえる。
竈に火を入れ、棚に調味料を並べ、まな板の位置を三度調整し、水場の高さに合わせて踏み台を置いた。
「ツル、キッチンは気に入ったか」
「はい。この竈は本当に素晴らしいです。火の回りが均一で、弱火の微調整ができます。今夜は煮込みを作りますね」
目が輝いている。
人型になってから一番生き生きしている顔だ。
問題はクロだった。
屋根裏から降りてこない。
引っ越しの荷物を運び終えた後、そのまま屋根裏に上がって、以来四時間。音もしない。
「クロ。降りてこないか。ツルが茶を淹れたぞ」
天井の扉の向こうから、くぐもった声が返ってきた。
「いらない」
「飯の時には降りてこいよ」
「……気が向いたらね」
あの日から、クロの様子がおかしい。
渓谷でギンが暴走しかけた日。ギンとの約束を交わした日。
あの帰り道、クロだけが少し後ろを歩いていた。庭で呟いた言葉の続きを、俺は聞いていない。
猫は追い詰めると逃げる。待つしかない。
分かっている。
だが待つのは得意じゃない。
*
翌日。
Dランクの討伐依頼を受けた。東の森、牙蜥蜴型三体。いつもの内容だ。
クロは屋根裏から降りてきた。依頼には参加する。だが口数が少ない。
いつものツッコミがない。尻尾の動きも小さい。
「フォーメーションはいつも通り。ギン前衛、クロ遊撃、ツル後衛。行くぞ」
森に入って十分。瘴気の匂いが漂い始めた。
「三体。正面と右と……左奥にもう一体。合計四体だ」
ギンの鼻が捉えた。依頼書より一体多い。増殖している。
「ギン、正面二体を引きつけろ。クロ、右。ツルは回復待機」
「了解!」
「承知いたしました」
ギンが飛び出し、正面の二体と組み合う。ツルの回復が飛ぶ。いつも通りの連携。
問題は右だった。
クロが右の蜥蜴に向かって走る。だが仕留めた直後、左奥の四体目が茂みから飛び出した。
クロの目が光った。
「もう一体——」
追った。
普段のクロなら深追いしない。仕留めたら離脱して、次の指示を待つ。
だが今日のクロは違った。四体目を追って茂みの奥に消えた。
「クロ! 深追いするな!」
声が届かない。もう射程の外だ。
「主さま、クロが」
「分かってる。ギン、正面を片付けろ。ツル、ギンについてくれ」
「主さまは?」
「クロを追う」
「でも——」
「あとは頼んだぞ」
走った。
茂みを掻き分けて、足跡を追う。猫の足跡は浅いが、地面が湿っていたから辛うじて見える。
前世の営業で鍛えた脚力が役に立つとは思わなかった。
百歩ほど走った先で、クロの声が聞こえた。
悲鳴ではない。舌打ちだ。
茂みを抜けると、窪地があった。
クロが中央に立っている。周囲を六体の蟲型瘴獣が囲んでいた。四体目を追った先が群れの巣だったのだ。
「クロ!」
「来ないで! あんたが来たら巻き添えに」
「巻き添え上等だ」
腰のナタを抜いた。
篝火用の油布を巻く。火打ち石で着火。即席の松明。
あの夜と同じだ。
あの時は仔狼を守るためだった。今は黒猫を守るために。
松明を振り回して突入した。
蟲型は火を嫌う。六体のうち三体が俺の松明に反応して散った。包囲が崩れる。
「今だ、抜けろ!」
クロが動いた。
残りの三体を蹴り抜けて、窪地の縁に飛び上がる。
俺も走った。だが脚が遅い。蟲型の一体が腕に噛みついた。
焼けるような痛み。Eランクの蟲型と変わらない。だが二体目が背中に飛びかかろうとした瞬間——
黒い影が戻ってきた。
クロの爪が蟲型を二体まとめて薙いだ。霧散。
残りの一体は松明の火を恐れて散った。
静寂。
「……あんた」
クロの声が震えていた。
「なんで来たの。魔力もないし強くもないし、来たって何もできないじゃない」
「松明で三体散らした。十分な仕事だろ」
「腕、噛まれてる」
「かすり傷だ」
「かすり傷じゃないわよ! 血が出てるじゃない!」
クロの目が潤んでいた。
怒っている。だがその怒りの下に別の感情が見える。
「……なんであたしなんかのために」
「なんかじゃない」
「あたしは一人が好きで、勝手に飛び出して、チームの足を引っ張って——」
「足を引っ張ったのは今日が初めてだ。そして次からは引っ張らない。お前はそういう奴だ」
「なんで分かるのよ」
「見てれば分かる」
クロが口を閉じた。
オッドアイの瞳が揺れている。
*
拠点に戻った。
ツルが俺の腕を治療した。
蟲型の咬傷。毒はないが、裂傷が深い。白い光が傷を塞いでいく。
「ハルさま。もう少し、ご自分を大切にしてください」
「大丈夫だ。ツルの回復があるから」
「回復があるから怪我をしていいという理屈は成り立ちません」
珍しくツルが厳しい顔をしていた。正論だった。
ギンは俺の右側に張り付いて離れない。腕の包帯を心配そうに見つめている。
「主さま、痛い?」
「痛くない」
「嘘。ギンの鼻は誤魔化せないよ。痛い時、主さまの汗の匂いが変わる」
「……犬の鼻が恨めしい」
「犬じゃなくて狼だよ!」
クロだけがリビングの隅に座っていた。
膝を抱えて、壁にもたれている。こちらを見ていない。
「ギン、ツル。先に上がっててくれ」
「でも——」
「大丈夫だ。少しクロと話す」
ギンが不安そうな顔をしたが、ツルが「行きましょう」と促して二階に上がった。
リビングに二人だけになった。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。
クロの隣に座った。距離は一歩。猫の間合いだ。近すぎず、遠すぎず。
「クロ」
「……」
「今日、深追いした理由を聞いてもいいか」
長い沈黙。
「……分かんない」
「分かんない?」
「自分でも分かんないのよ。気がついたら追ってた。一人で片付けなきゃって思った。あたしの仕事なんだから、あたしがやらなきゃって」
「一人でやる必要はなかった」
「分かってる。分かってるけど……あたしはずっと一人だったから。群れからはぐれて、誰にも頼れなくて。一人で生きるしかなかった。だから体が勝手に」
声が小さくなっていく。
「……ギンは約束した。ツルさんは自分からそばにいると決めた。あの二人はちゃんと——あんたとの距離を掴んでる」
「クロ」
「あたしはまだ掴めてない。どうすればいいか分かんない。一人の方が楽だって思う自分と、一人は嫌だって思う自分がいて。どっちが本当か分かんないの」
俺は何も言わず、隣に座っていた。
猫は追い詰めると逃げる。だが、隣にいるだけなら逃げない。
「クロ。一つだけ言っていいか」
「……何よ」
「お前が窮地に落ちたら、俺は走る。今日みたいに。それは、お前が止められることじゃない」
「……死にたがりなの?」
「一人で抱えるな。頼れとは言わない。ただ、一人で突っ込むのはやめてくれ。俺が走る羽目になる」
「あんたが走るのはあんたの勝手でしょ」
「そうだ。走るのもお願いするのも、全部俺の勝手だ」
クロが黙った。
長い沈黙。
暖炉の薪が崩れる音。
クロの右手が動いた。
俺の袖を、指先で掴んだ。
初めてだった。
クロが自分から俺に触れたのは。
路地裏で保護した時も、宿で目覚めた時も、依頼の時も。いつもこっちから距離を詰めていた。クロの方から触れることは一度もなかった。
細い指が、袖の布地をきゅっと握った。
「……あんたって、ほんと馬鹿」
声が震えていた。
「松明一本で突っ込んできて。腕噛まれて。それでかすり傷だとか言って」
「かすり傷だ」
「かすり傷じゃないって言ってるでしょ……」
手は離さない。
「あたしは、まだ上手くできない。一緒にいるのも、頼るのも。でも」
オッドアイが、初めてまっすぐ俺を見た。
「離さないで。……あたしが一人で走っても、追いかけてきて」
「言われなくてもそうする」
「……知ってる。知ってるから、余計に腹が立つのよ」
袖を掴む力が少しだけ強くなった。
猫の不器用な、精一杯の距離の詰め方だった。
それで十分だ。
「今日はもう寝ろ。疲れただろう」
「……うん」
クロが立ち上がった。
袖を離して、階段に向かう。
三段上がったところで、振り返った。
「あんた」
「ん?」
「……おやすみ」
それだけ言って、上がっていった。
クロが「おやすみ」を言ったのも初めてだった。
*
翌朝。
リビングに降りると、ソファの上で黒い髪が広がっていた。
クロが丸くなって眠っている。
屋根裏ではなく、リビングで。
その頭の下に、俺の上着があった。
昨夜、暖炉の前の椅子に掛けておいたやつだ。
クロの寝顔は穏やかだった。
猫耳がぴくぴくと動いている。寝言は言わない。だが尻尾が緩く揺れていた。
上着を引き抜くのはやめた。
毛布を一枚、音を立てずにかけた。
キッチンに向かうと、ツルがもう朝食の支度を始めていた。
「おはようございます、ハルさま。……クロさん、リビングにいらっしゃいましたね」
「ああ」
「よかった」
ツルは微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。
二階からギンが転がり落ちてきた。
「主さまおはよう! ……あれ、なんでクロがリビングに」
「静かにしろ。寝てる」
「あ、ごめん」
ギンが慌てて口を押さえた。
四人分の朝食をツルが並べる。
匂いに釣られて、クロがソファからのそりと起き上がった。
俺の上着を——さりげなくソファの端に置いて、何事もなかったように席についた。
「……おはよう」
「おはよう」
「朝ごはん、何」
「粥と焼き魚です」
「ふーん」
何事もなかったように食べ始めた。
だがその席は、昨日までクロが座っていた窓際の端ではなく。
俺の隣だった。
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