第11話 「ギンとの約束」
修繕三日目。
午前は依頼、午後は修繕。ハルの段取りで二つのスケジュールが噛み合っている。
木板に書いた工程表はこうだ。
一日目:屋根の穴を塞ぐ。窓枠の採寸。
二日目:窓枠の作り替え。一階の清掃。
三日目:二階の清掃と個室の整備。庭の草刈り。
四日目:キッチンの竈周りの補修。風呂場の配管確認。
五日目:予備日。
だが、これらは絵に描いた餅になった。
「主さま! 釘が曲がった!」
「何本目だ」
「……九本目」
ギンが金槌を握ったまま、しょんぼりと耳を伏せている。
銀の爪で瘴獣を一撃で裂く腕力が、釘一本をまっすぐ打てない。
「力加減が戦闘のままなんだ。金槌は手首で振る。腕全体で叩くな」
「手首……こう?」
がん。
釘が直角に曲がった。十本目。
「……ギン。草刈りに回れ」
「ギンにも釘は打てる!」
「お前の爪で草を刈った方が三倍速い。適材適所だ」
「……適材適所」
しぶしぶ庭に出ていった。
五分後、庭の雑草が見事に刈り取られていた。爪の切れ味は釘打ちより草刈りに向いている。
屋根の上ではクロが黙々と瓦を並べ直していた。
猫の足場の安定感は屋根仕事に最適だ。高所を怖がらないし、足音も立たない。
「クロ、屋根裏の雨漏り跡はどうだった」
「三箇所。全部板で塞いだ。防水布も張った」
「助かる」
「……別に。自分の寝床が濡れるのが嫌なだけ」
自分の寝床、と言った。屋根裏をもう自分の場所だと認めている。
キッチンからはツルの鼻歌が聞こえていた。
竈の周りの煤を落とし、作業台を磨き、棚の配置を変えている。
時々「ここに鍋を置いて、こちらに調味料を……」と独り言が漏れる。
楽しそうだ。
あの控えめなツルが鼻歌を歌うほどに。
四人がそれぞれの場所で、それぞれの仕事をしている。
その全体を見て、足りないところを埋めるのが俺の役割だ。
前世でも同じだった。
部下の得意不得意を把握して、仕事を振り分ける。自分では何も生み出せないが、人の配置だけは誰よりうまかった。
あの頃は、それを誰にも評価されなかったが。
*
四日目の朝、ギルドの掲示板で足が止まった。
赤い縁取りの依頼書。高難度を示す色だ。
『Bランク瘴獣。巨牙猪型。街道北部の渓谷にて商隊襲撃。被害拡大中。Cランク以上のパーティー推奨。報酬:金貨二枚』
金貨二枚。Dランク依頼十件分以上。
修繕の資材費を一発で賄える額だ。
「Bランク……あたしたちDランクよ?」
「推奨はCランク以上だが、禁止ではない。規約上、ランク外の依頼を受けるには免責同意書へのサインが要るだけだ」
「規約の話じゃなくて実力の話をしてるんだけど」
「実力の話はこれからする」
依頼書の詳細を読み込んだ。
巨牙猪型。体長三メートル超。突進力が最大の武器。だが旋回性能が低い。渓谷の地形は狭く、突進の直線距離が制限される。
「渓谷の幅が狭い。こいつの突進が最大の脅威だが、狭い地形なら直線距離が取れずに威力が半減する。壁際に誘導して横から叩けば仕留められる」
「理屈は分かるけど、Bランクの瘴獣よ。Dランクの牙蜥蜴とは桁が違う」
「だからギンの突撃距離を解放する」
ギンの耳がぴくりと立った。
「……十二歩の制限を外すってこと?」
「今回だけだ。巨牙猪の横腹を狙うには、距離を取った全力の突撃が要る。十二歩じゃ足りない」
ギンの金色の目が光った。
喜びではない。もっと深い何かだ。
「ギン。お前の本気を見せてくれ」
「……うん」
短い返事だった。だが尻尾が大きく揺れた。
*
渓谷に着いたのは昼過ぎだった。
岩壁が左右に迫る狭い谷。地面は砂利混じりの岩盤。
奥から瘴気の臭いが流れてくる。硫黄と腐敗を混ぜたような悪臭。Dランクまでの瘴獣とは濃さが違う。
「全員、位置につけ。ギン、谷の奥五十歩。クロ、右壁の岩棚に上がれ。ツル、俺の隣。ここから動くな」
「主さま、ギンは五十歩でいいの?」
「猪が突進してきたら壁に誘導しろ。壁にぶつかって体勢が崩れた瞬間に、全力で横腹を叩く。距離は好きなだけ取れ」
「好きなだけ」
ギンの目が見開かれた。
十二歩の鎖が外れた。
銀の爪が指先からゆっくりと伸びた。
「……ギン、頑張る!」
走り出した。
三秒後、地面が揺れた。
巨牙猪。
黒い霧を纏った猪が、谷の奥から突進してくる。体長は報告書通り三メートル以上。牙は腕ほどの太さがあり、黒い瘴気をまとって地面を削りながら迫る。
ギンが正面で受けた――ように見せて、直前で横に跳んだ。
猪の突進が右の壁に激突する。岩が砕けて破片が飛び散る。
「クロ!」
岩棚から黒い影が落ちる。クロの蹴りが猪の背中を叩き、バランスを崩す。
「ギン、今!」
ギンが走った。
十二歩ではない。二十歩。三十歩。谷の端から端まで使った全力の助走。
銀の爪が輝く。
ギンの表情が変わった。
金色の目が赤みを帯びている。歯が剥き出しになり、爪が通常の倍に膨れ上がっている。
暴走の兆候だ。
全力を出すと、フェンリルの血が騒ぐ。本能が理性を食い破ろうとする。
猪の瘴気の挑発もある。Bランクの瘴気は精神を揺さぶる。
ギンの軌道がずれ始めた。
横腹ではなく、正面の牙に向かっている。正面からぶつかれば、たとえギンでも無傷では済まない。
「ギン!」
クロの声が飛ぶ。届かない。
俺は走った。
ツルの隣から飛び出して、ギンと猪の間に立った。
正確には、ギンの視界に入る位置に立った。
「ギン」
叫ばない。普通の声で呼んだ。
「戻って来い」
金色と赤が混じった目が、俺を捉えた。
一瞬、時間が止まった。
ギンの爪が俺の頬を掠めた。
風圧で髪が乱れる。
爪は俺の横を通り過ぎ、猪の横腹を深く抉った。
猪が絶叫し、黒い霧になって崩れ落ちた。
巨大な瘴核だけが残る。
静寂。
ギンが立ち尽くしていた。
爪は元の大きさに戻っている。目は金色に戻っている。
だが全身が震えていた。
「主さま」
声が掠れている。
「ギン、の爪が、主さまの顔の横を」
「当たってない。大丈夫だ」
「大丈夫じゃない!」
ギンが膝から崩れた。
両手で顔を覆って、声を押し殺している。
「ギンが暴走したら、主さまが死ぬ。主さまは魔力もないし硬くもないし、ギンの爪が当たったら」
「当たってない」
「当たったかもしれない!」
震える声だった。
「ギンが主さまを傷つけるのがいちばん怖い。敵なんかより、自分がいちばん怖い」
俺はギンの前にしゃがんだ。
顔を覆っている手を、そっと外した。
金色の目は涙で滲んでいた。
「ギン。聞いてくれ」
「……」
「お前が暴走しかけた時、俺は怖くなかった」
「嘘」
「嘘じゃない。お前が戻って来ると分かっていたから」
「なんで分かるの。ギンだって分からなかったのに」
「俺がお前の名前を呼んだら、お前は必ず戻る。今日それが分かった」
ギンの涙が止まらない。
「でも、もし戻れなかったら」
「その時は俺がまた前に出る。何度でも」
「主さまが怪我する」
「しない。お前が守るから」
「……矛盾してる」
「矛盾してない。俺がお前を呼んで、お前が俺を守る。それでいい」
ギンの手を取った。
「俺は絶対にお前を置いていかない」
ギンの目が見開かれた。
あの夜、森で交わした言葉の繰り返しだ。
「だからお前も、俺を置いていくな。暴走して、どこか遠くに行ってしまうな」
「……」
「約束してくれ。ギン」
長い沈黙。
ギンの手が、俺の手を握り返した。
震えは止まっていた。
「……うん。約束する」
涙がまた一筋こぼれた。
だが今度は、笑っていた。
「ギンは主さまを置いていかない。ぜったいに。どこにも行かない」
「ああ」
「だから主さまも、ぜったい」
「ああ。絶対だ」
ギンが俺の胸に額を押し付けた。
尻尾がゆっくりと揺れている。
震えは完全に消えていた。
クロとツルが少し離れた場所に立っていた。
ツルは目を伏せて微笑んでいる。
クロは壁にもたれて腕を組んでいた。その表情は見えない。
*
帰り道。
ギンが右腕にぶら下がるように歩いていた。いつもより密着度が高い。
ツルが左側を穏やかに歩いている。
クロは少し後ろを歩いていた。
「クロ、遅れてるぞ。大丈夫か」
「別に。……ちょっと考え事」
それだけ言って、追いついてきた。
だが目を合わせなかった。
拠点に戻って、ギンとツルが先に中に入った。
クロだけが庭に残っていた。
門扉にもたれて、空を見上げている。
右手が小さく握られていた。
「…………あたしも」
聞こえるか聞こえないかの声だった。
誰もいない庭に落ちた言葉は、続きを持たないまま夕闇に溶けた。
クロは拳を解いて、黙って家に入った。
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