第10話 「宿なし冒険者の家探し」
「ここです」
リノが立ち止まった先にあったのは、家というより廃墟だった。
街外れの緩い坂を上った突き当たり。石造りの二階建て。
壁は苔に覆われ、窓ガラスは半分以上割れている。屋根の右端に拳大の穴。庭は腰の高さまで雑草が伸びていて、門扉の蝶番は錆びて片方が外れていた。
「……これ、家?」
クロが半眼で言った。
「家です。一応」
リノが苦笑した。
「元は学者の住居兼研究所でした。十年以上前に持ち主が亡くなって、それ以来ずっと空き家です」
「十年も放置されてた理由は?」
「持ち主が魔獣の研究をしていた方で……この辺りの住民からは敬遠されていたそうです。『魔物の家』と呼ばれていて、買い手がつかないまま管理がギルドに移りました」
「魔獣の研究者が住んでいた家を、魔獣を連れた冒険者に紹介するわけか」
「……皮肉ではなく、純粋に条件が合うと思ったんです」
リノの表情に嘘はなかった。
「値段は?」
「金貨三枚です」
ギンが首を傾げた。意味が分かっていない。
クロの目が丸くなった。意味が分かっている。
「金貨三枚って……宿代六ヶ月分よ。この広さの石造りで?」
「買い手がつかないので。ギルド管理の維持費もかかっていますし、正直なところ早く手放したいのが本音です」
俺は壁に手を当てた。石の質は悪くない。表面の苔は見た目だけの問題だ。叩いてみると中身は詰まっている。構造自体は健全だ。
「屋根の穴は板材と防水布で塞げる。窓は木枠を作り直して油紙を張れば当面はしのげる。壁の苔は落とすだけ。大工仕事は……前世で覚えた程度だが」
「前世?」
「昔の話だ。中を見せてもらっていいか」
「どうぞ」
軋む扉を押し開けた。
*
中は外見ほど酷くなかった。
一階。正面に広いリビング。暖炉がある。煤けているが、掃除すれば使える。
左手にキッチン。石造りの竈と作業台。水場は井戸から直結のポンプ式。十年放置でもポンプは生きていた。
「ハルさま」
ツルの声が変わった。
振り向くと、ツルがキッチンの竈に両手を当てていた。青い瞳が光っている。
「この竈、とても良い石です。蓄熱性が高くて火の回りが均一。……ここで料理をしたら、今の三倍はおいしく作れます」
「三倍?」
「控えめに申し上げました」
目が今までで一番本気だった。
リビングの奥に風呂場。石造りの浴槽は大きい。四人で入ってもまだ余る。
「……いや、四人で入る予定はないぞ」
俺は自分の馬鹿な妄想を小声で否定すると、尻尾を振っているギンが飛びついてくる。
「主さま、一緒に入ろう!」
「入らない」
「ぅー」
階段を上がると、二階に個室が四つ。
どれも六畳ほどの広さで、窓がある。埃は積もっているが、掃除すれば十分使える。
ギンが一番日当たりの良い部屋に飛び込んだ。
「ここがギンの部屋! 決めた!」
「まだ買ってない」
「買う! 主さまの隣の部屋がいい!」
「全部隣だ。四つしかないんだから」
クロは黙って二階の天井を見上げていた。
角に小さな扉がある。
「……屋根裏、ある?」
「あるみたいだな」
クロが扉を開けて中に入った。
しばらく音がしない。
覗くと、埃だらけの屋根裏の梁の上で、クロが丸くなっていた。
「……高くて暗くて狭い。最高」
「気に入ったのか」
「別に。……まあ、悪くないわね」
尻尾が揺れている。気に入っている。
一階に戻り、リビングの奥にもう一つ部屋があることに気づいた。
書庫だ。
壁一面の本棚。古い革張りの本がぎっしり詰まっている。
埃を被っているが、保存状態は悪くない。石造りの部屋が湿度を一定に保っていたのだろう。
一冊引き抜いてみた。
文字が読めない。この世界の共通語ではなく、もっと古い言語で書かれている。
だがところどころ、見覚えのある単語がある。
「『魔獣』……『共存』……『恩』……」
ツルが横から覗き込んだ。
「古代共通語ですね。わたくしには読めませんが、知識のある学者なら解読できるかもしれません」
「いずれ読める人を探す。この本は残しておこう」
本を棚に戻した。
背表紙に薄く刻まれた著者名。読めないが、いつか意味を持つ気がした。
書庫の奥の窓から庭が見えた。
広い。
雑草に覆われているが、下は石畳で整備されている。奥に崩れかけた厩舎跡。
「庭、広いね」
リノが窓の横に立った。
「研究用の魔獣を飼育していたそうです。厩舎も当時は使っていたとか」
「魔獣の飼育施設か。……将来使えるかもしれないな」
「将来?」
「まだ先の話だ」
頭の中で計算が回っている。
購入費:金貨三枚。手持ちの貯金で払える。
修繕資材費:概算で銀貨四十枚。Dランク依頼四、五件分。
修繕の労力:四人でやれば五日から七日。
宿代の節約:月に銀貨六十枚。六ヶ月で元が取れる。
計算上は明らかに得だ。
だが数字だけで決めていいものでもない。
「ギン、クロ、ツル」
三人がリビングに集まった。
「この家、どう思う」
「買う!」
ギンが即答した。
「庭が広い! 走れる! 主さまと住む!」
「クロは」
「……屋根裏がある。それだけで十分」
「ツルは」
「あの竈があれば、皆さまに毎日温かいお食事を出せます。それと……」
ツルが少し照れたように目を伏せた。
「自分たちの家、というのが……嬉しいのです。わたくしは長いこと、どこにも居場所がありませんでしたから」
静かな声だった。
ギンもクロも、何も茶化さなかった。
「……決まりだな」
リノに向き直った。
「買います。金貨三枚、明日ギルドの窓口で支払う」
「ありがとうございます。書類を用意しておきますね」
リノが微笑んだ。
それから少しだけ声を落とした。
「ハルさん、一つだけお伝えしておきたいことがあります」
「何だ」
「この家の以前の持ち主は学者の弟子だったそうです。師匠の方は……魔獣と人間の共存を研究していた方でした。テイム術に頼らない魔獣との関係を模索して、論文を発表して、そして」
リノの表情が少し曇った。
「ギルドから追放されたそうです。『危険思想』として」
「……追放」
「ギルドの古い記録に残っていました。その師匠の名前も。ただ、その後の消息は不明です」
追放された研究者。
テイム術を否定し、魔獣との共存を唱えて排除された人間。
十年以上前に、俺と同じことを考えた誰かがいた。
「リノさん。その研究者の名前は」
「記録では――フィン、という方でした」
その名前を、覚えておくことにした。
「ハルさん。……この家を、良い場所にしてくださいね」
リノはそう言って、坂を下りていった。
残された四人で、苔だらけの庭に立った。
崩れた門扉。割れた窓。穴の空いた屋根。
どこから見てもボロ屋だ。
だが。
「主さま。ここが、ギンたちの家?」
「ああ。ここが、俺たちの家だ」
ギンの尻尾が、今までで一番大きく揺れた。
クロは何も言わなかったが、屋根裏の窓からこちらを見下ろしていた。
もう上がっていたらしい。早い。
ツルが俺の隣で、静かに庭を見渡した。
「ハルさま」
「ん?」
「帰る場所があるというのは、こういう気持ちなのですね」
白い髪が風に揺れた。
青い瞳が潤んでいたが、今度は涙ではなかった。
「……修繕、明日から始めるぞ。まずは屋根の穴からだ」
「はい!」
「了解」
「承知いたしました」
三つの返事が、まだ何もない庭に響いた。
ここを埋めていくのは、これからの仕事だ。
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