第2話(目覚め)
磯の香り、波の音、どこか懐かしくも安心する温もりを感じながら、渚はゆっくりと意識を取り戻していく。
ベッドに身体を預けたまま、目を開けた。
ぼんやりとした視界には、窓越しに人の気配のない荒廃した港の光景が広がっている。
海かー。 何年ぶりだろう。 きれいだなー。
渚は、眼前の景色をしばらく眺める。
港の堤防に、一際激しく波が打ち付けた瞬間、渚はハッとした。
仕事に戻らないと……
おもむろに、ベッドから身体を起こし終えたその時、部屋にある唯一のドアノブが動く音がした。
渚は、掛け布団を咄嗟に引き寄せ、少し震える手で握りしめながら身構える。
音を立てて扉が開き始めた。
扉の陰から透き通った黄金色の髪が垣間見える。
扉が完全に開ききった時、そこには渚よりも少し年上であろう優艶な女性の姿があった。
渚は、手の力が少し抜けるのを感じた。
「目が覚めたのね!!」
聞き覚えのある声色だった。
「すみません。 ご迷惑をかけたようで……」
女性は、かすかな声で「覚えていないのも無理はないわね」と言った。
「ここは……?」
渚は、何気なく周囲を見渡す。
ふと、ベッドのそばのサイドテーブルに置かれている包装紙が破られた海苔弁の箱が目に入る。
私の……海苔弁………… 空になっている……
渚の脳内で先の出来事が再生される。
「あ…… 子どもに弁当をせがまれて、落書きを踏んだんだっけ………… 今度会ったら、あの子の両親にお弁当代返してもらわないといけません」
女性は、渚がささやく言葉を聞いて、ニヤリと笑みを浮かべた。
「じゃーん!! これはなんでしょう!」
女性は、渚に端末の画面を見せた。
そこには、あの画像が表示されていた。
「なんでそれを持っているのですか?! それは、"割りばし落書き生意気少女" しか持っていないはずです」
「さー、なんででしょう! その "割りばし落書き生意気少女" 、私だったらどうする?」
「そんな訳はありません。 その少女の年齢は、14歳くらいです。 あなたみたいな大人ではありません」
女性の笑い声が部屋に響く。
女性は、渚の世界に行った時、昔の姿になっていたこと、この世界に戻ると元の姿に戻っていたことを渚に話した。
自らも驚いているというような雰囲気だった。
「ちょっと待ってください! ここは……異世界ですか?! あなたがあの少女だというのですか?!! そんなことありえません!」
「信じていないの?」
「信じていません! でも、本当だったら困ります!! 私、今すぐ職場に戻らないといけません!」
「あなた自分の現実から逃げたかったのでしょう? 戻る必要なんてないわ。 ここで私と一緒に暮らしましょう!」
渚は、混乱で機能停止寸前であったが、この状況を冷静に整理しようと努めた。
目の前の女性は、私の境遇を知り、それを憂いて救い出そうとしてくれている。
私は、この状況を知っている。
目の前にいる女性があの少女だというのは、どうやら本当かもしれない。
今の会社員としての生活に、正直未練はない。
全て投げ出して、自由になろうと考えたこともある。
元の世界に戻らなければと思ったのも食い扶持をつなぐためだ。
そう考えると、異世界で過ごしてみるのもいいかもれない。
「わかりました。 だけど、もし、もとの世界に帰りたくなったら……」
「ほんと?! ありがとう!」
女性は、あえて渚の言葉にかぶせるようにして、勢いよく言った。
そして、小さく咳ばらいをして話し出す。
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。 私は、ルリーシヤよ。 かつては、王女だったわ」
「へー…… お、王女様?!」
「元よ。 今はもうそんなんじゃないわ。 それより、あなたは?」
「わ、私は、渚、OLです」
「ナギサ…… よろしくね!」
ルリーシヤは、続けて渚がいた世界とこの世界の違いについて、自身の体験に基づいて説明した。
「私がナギサの世界に行って、まず驚いたことは、この世界では当たり前に使用されている魔法が使われていないこと」
「魔法?! そんな非現実的なこと、いくら私でも信じませんよ…… 騙されません」
「この世界に来るときにも体験したはずよ! それじゃあ………」
そう言いながら、ルリーシヤは渚に掌を向けた。
次の瞬間、ベッドの周りの空気が乱れ、凄まじい上昇気流が発生した。
渚はベッドとともに床から1mほど浮き上がった。
「なっ! え!?」
「これが私の力、気体分子を自由に操ることができるわ。 すごいでしょ。 どう? 信じる気になったかしら?」
渚は、自身の身に起きた超常現象によって、言葉を失っている。
「そうだわ! ちょっと待ってなさい!」
ルリーシヤは、何かを思い出したのか、そう言い残し、部屋を出て行った。
そこから数十分後、綺麗な布に包まれた杖を抱えて部屋に戻ってきた。
ルリーシヤは、布から慎重に杖を取り出し、渚に渡す。
我は炎を司る精霊の魂が宿る杖……
杖の思考が渚の頭に流れ込む。
渚は驚き、杖を壁に向け全力で投げ捨てる。
「その様子だと聞こえたようね、杖の声」
「な! これは、事前説明必要案件でしょ!」
ルリーシヤは、渚が投げ捨てた杖を急いで拾った。
「『杖は、持ち主の魔力の性質に応じ、魔法を使用するために必要な呪文を提示する。 所持者がそれを唱えると魔法が発動する』と、皆そう言っているわ。」
ルリーシヤは、再度、渚の前に杖を差し出した。
渚は、ためらいながらも恐る恐る杖を受け取る。
無礼者よ……
我は炎を司る気高き精霊の魂が宿る杖、そなたからは才を感じぬ。
我は、才なき者には仕えぬ。
さらばじゃ……
渚は、元の世界で慣れ親しんだ辛い虚無感を思い出した。
どうやら私は、この世界でもポンコツのようだ。
期待の眼差しで渚を見つめるルリーシヤに、そっと杖を返した。
「どうしたの?」
「私は、どこに行っても無能なようです……」
渚の目は、潤いを増している。
窓の外では、雨が降り始めた。
「そんなことないわ! 私には杖の声が聞こえない。 ナギサにはそれが聞こえた。 それだけでも、無能なんてことはないわ! 私が保証する。 きっと、杖との相性が悪かったのよ!」
いつぶりだろう…… 私を肯定してくれる人に出会ったのは…………
「ありがとうございます。 でも、いいんです。 いつものことですから」
渚は、今出せる精一杯の声を振り絞って、微笑みの表情を作り、そう言った。
ルリーシヤは、そんな渚にどんな言葉をかければいいのか、探したが見つからなかった。
「これ以上、ご迷惑をかけたくはありません。 元の世界に帰らせてください。 ここが異世界だと聞いた時、もしかしたら優秀な自分になっているかもしれないと思いましたが、所詮、私は私でした。 ルリーシヤさん、私を気にかけてくれてありがとうございます。 嬉しかったです。 とても」
渚は、自身が思う、とびきりの笑顔でルリーシヤを見た。
外の雨は、勢いを増している。
「わ……私と関わったからには、そんなの許さないんだから!! そうだわ! 明日、一緒に隣町まで出かけましょう! そこに専門家がいるわ!」
ルリーシヤは、両手の拳を握り締めている。
帰るのはもう少し先でもいいかな。
少し俯いている渚の表情は、朝露に濡れた花のように輝いていた。




