第10話 貴族の令嬢が走るなんて
貴族の令嬢が走るなんて、みっともないし、はしたない。
王都にいる時なら、アンブローシアだって、そう思った。
急いでいるときは、使用人を走らせ、アンブローシアは後からゆったりと歩いていく。
それが、当たり前。
だけど、ここは王都ではない。
アンブローシアも、今は貴族の令嬢であるというよりは、獣人刑にされた者。
だから、アンブローシアは躊躇なくクリューセースを追いかけた。
走って。
息を切らせて。
そして、呼んだ。
「クリューセース!」
「……アンブローシアお嬢様」
はあはあと、荒い息をして。アンブローシアがクリューセースの前に立つ。
黒と赤の髪も、走ってきたためか、かなり乱れて。
獣人化した顔は、人とは違う。
それでも、月の光を浴びて、アンブローシアの髪も体も輝いているようだった。
「アンブローシアお嬢様……」
「クリューセース! あのねっ!」
「はい……」
走ってきた勢いのまま、アンブローシアは告げた。
「答え! 聞いてない!」
「は?」
答えとは何の? クリューセースは思わず首を傾げそうになった。
「『今夜はわたくしとも踊ってくれる?』『こんなゴリラ女と踊るのは、嫌かしら……?』って、わたくし、クリューセースに聞いたのに!」
「あ……」
「聞いたのにっ! わたくしの傍を離れるから! わたくし、先の他の皆様と踊ってしまったのよ!」
「そ、そうですか……」
「クリューセースが嫌でなければ一番最初に踊りたかったのにっ!」
頬を膨らませるアンブローシア。
そんな姿も愛らしいと思ってしまったクリューセースだが……。
「申し訳ございません……」
「……その返事って、ゴリラ女とは踊りたくないってこと?」
「違いますっ! ですが私は単なる使用人で……」
「違うわ」
アンブローシアがクリューセースの言葉を遮った。じっと目を見つめる。
「単なる使用人なんかじゃない。あなたはわたくしの大事なクリューセース」
「お嬢様……」
「さっき、わたくし、言ったでしょう? 『あなたはわたくしの専属執事よ。いつもならね。でも、今日は、獣人のみんなで楽しむ夜なのよね』って。それに、セルジオスも言っていたわ。『獣人領で、使用人も主も関係ないでしょ』って」
カエルやネズミ、犬やゴリラ。種類の差はあっても、皆等しく獣人だ。少なくとも、今、ここ、この場所では。
「だから、立場とか、身分とか、そんなのは考えないで。クリューセースはわたくしと踊ってくれるの?」
「……よろこんで」
クリューセースは内心泣き出しそうになりながらも、右の手をアンブローシアに差し出した。その手に、アンブローシアが自分の手を重ねる。
すぐに踊り出すのかと思えば、ぼそりと、アンブローシアが呟いた。
「……やっぱり毛深いわ」
「私は気になりません」
「わたくしは気になるの!」
むっすーと膨れた顔に、クリューセースは少しだけ笑いたくなった。
「……獣人であるからこそ、お嬢様のお手を取ることが出来ました。もしも、人のままだとしたら」
「わたくしの申し出は断っていた?」
「……かもしれません。どうしても、お嬢様の手は取れません」
「どうして?」
「……私は、使用人、です、から」
「クリューセースは頑なね!」
ぷん! と、むくれながらも、アンブローシアはすっと滑らかに足を動き始める。
タンタンタン! 軽いリズムを踏んで、ゆったりとターンする。
クリューセースは、ほんの少しの間だけはアンブローシアに合わせて。それから次第にリードを取っていった。
しばらく踊って、そして、アンブローシアはくすりと笑った。
「お嬢様?」
「……わたくし、このゴリラの身体は嫌だけれど。クリューセースがこうやってわたくしと踊ってくれるのなら、獣人化されたのも悪くはないなって思ったの」
「お嬢様……」
音楽はない。
ただ、月の光だけが、アンブローシアとクリューセース照らす。
「今だけは、侯爵令嬢と使用人じゃない。ただのアンブローシアとクリューセース」
音楽はない。
だからこそ、言葉が響いたのかもしれない。
クリューセースが足を止めた。アンブローシアも。
「私は……」
クリューセースが顔をしかめる。
どうしても、手を伸ばせない。
獣人であっても、使用人としての意識が強すぎて。
対等だとは思えない。
……手を伸ばしたくても、伸ばせない。
アンブローシアはそっと両手を伸ばして、クリューセースの頬に触れた。
「ユークリッド様に言われたわ。『もしも、この満月の夜に、愛を確かめるとしたら。……相手に誰を選びたいですか?』って。ねえ、クリューセース。あなたは……わたくしを、選んでくれる?」
ユークリッドに「オレを、選んで、もらえますか……?」と言われたとき。
アンブローシアはとっさに、愛を確かめる相手を、誰か一人、選ぶのならクリューセースがいいと、思ったのだ。
だから、走った。
クリューセースを探した。
身分や条件、それに人柄。
ユークリッドはフィランダー王太子などより、何倍も何十倍も、いや、比較することなど無意味なほどに、伴侶として素晴らしい男性だとは思った。
ユークリッドだけではない。
セルジオスやゼファー。
他者を思いやる気持ちも、身勝手な王女や王太子に反旗を翻そうとする気概もある。
獣人領の他の誰だって、犯罪者だとは思えないほど、よい人が多かった。
いきなり話しかけて行ったアンブローシアの質問に答えてくれたり、知らないことを教えてくれたり。
それでも、愛を確かめる相手には、クリューセースがいいと……そう思ったのだ。
その気持ちが本物の愛や恋というものかどうかなんて、アンブローシアには分からない。
名をつけて、専属の使用人にした執着心のようなものかもしれない。
だけど。
たった一人、誰かを選んでいいのなら。
命じられて、宛がわれた伴侶に尽くすのではなく。
自分で、自分の相手を、選べるのなら。
「わたくしは、クリューセースを選びたいの」
アンブローシアはクリューセースを見る。
期待と不安が入り混じった瞳で。
3月29日文章修正




