★挿話・4★ クリューセス
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晴れの天気。気持ちのいい午後だった。
それが一転、私はアンブローシアお嬢様の顔が、真っ当に見られなくなった。
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ジュローム様がやってきたのは突然だった。
「突然すまない。研究が立て込んでいて、挨拶に来るのが遅れたのだが……」
水がめが並んでいる傍の木陰で、お茶を飲んでいたアンブローシア様。
ジュローム様は獣人化の研究をしている魔法使い。
ならば、彼の話は有益なのでは……と、思っていたのに。
突然言われた言葉に、アンブローシアお嬢様だけでなく、私の頭も真っ白になった。
「アンブローシア嬢も知っているかと思うが、王族がかけた獣人化の魔法の解き方として伝わっていることはただ一つ」
「……満月の夜、愛し合う者同士で口づけを交わす」
「その通り。だから、これは提案なのだが。ユークリッドと愛し合ってみる気はないか?」
「は……?」
……使用人である私には、アンブローシアお嬢様とジュローム様の会話に口を挟むことはできない。
できないが……、いくらなんでもいきなり「愛し合ってみる気はないか」とは……。
案の定、アンブローシアお嬢様もぽかんとしている。
試しに愛し合って……で、獣人化が解けるとは思えないが……。
だが、この時点では呆気に取られただけで、それ以上の感情を抱くことはなかったのだ。が……。
……所詮私は、孤児院上がりの使用人に過ぎない。
いつか、アンブローシアお嬢様は、王太子殿下に嫁ぎ、その嫁ぎ先でも私とメリッサはアンブローシアお嬢様にお仕えする。
それが、確固たる未来だと、獣人化の魔法にかかるまで想定していた。
王太子殿下は顔は良い。将来の国王として見栄えは良い。
だが、中身は腐っている。
婚約者であるアンブローシアお嬢様を蔑ろにして、愛人と戯れるクズだ。
アンブローシアお嬢様が王族に嫁ぎ、王妃となるのは、高位貴族の義務。国を支える覚悟があるから、クズにも耐えてきた。
当然、王太子殿下に対する愛情などはない。
いつか、あんな男との婚約など解消になり、アンブローシアお嬢様が自由に生きられるようになれば……とは願ってはいたが。
……私には口を出す権限もない。
ただ、少しでも、アンブローシアお嬢様が心穏やかにお過ごしになれれば……とだけ、考えていたのだが。
「ゴリラ化しているうちに、さっさと求婚しろ。人間に戻った後のアンブローシア嬢は、確実に競争率が高くなるぞ」
ジュローム様の言葉に、ユークリッド様は顔を赤らめて。
それだけではなく……アンブローシアお嬢様も、ユークリッドに負けず劣らず、ゴリラのお顔でもありありと分かるくらいに顔を真っ赤に染めてしまった。
お二人が顔を見わせ、そして、目を逸らし、まともな会話もないまま、ただ顔を赤く染めあっている……。
……私は、何を見ているんだろう?
ジュローム様の言葉に乗せられて、お二人とも……思いあうようになる……のか?
まさかとは思うが……、アンブローシアお嬢様が、ユークリッド様を、好きになる……かもしれない……のか?
受けた衝撃を、どのように表現してよいのか分からない。
ただ、心臓が冷えた。
理性では分かっている。ユークリッド様はアンブローシアお嬢様のお相手としては、優良物件。
クズ王太子よりも何百倍もマシだ。
なのに。
歯を食いしばっていなければ、叫びだしてしまいそうで。
王太子殿下との婚約には何も思わなかった。
仮に、婚姻を結び、アンブローシアお嬢様が王太子殿下の子を孕んだとしても。
……きっと、王太子殿下などに、アンブローシアお嬢様は心を許さない。
侯爵令嬢としての矜持。
王太子殿下の婚約者としての義務。
だから……アンブローシアお嬢様が心を許すのは、私とメリッサだけ……なんて、奢った考えを持っていた罰か。
……ユークリッド様は良い方だと思う。
クズに嫁ぐよりも、何倍も何十倍も。
理性では、分かる。
きっとユークリッド様はアンブローシアお嬢様をしあわせにしてくれるだろう。
……ユークリッド様でなくとも。
獣人化の魔法をかけられてから出会ったセルジオスやゼファーでも。
二人とも、貴族の令息であるし、地位や身分がある。性格も悪くない。
アンブローシアお嬢様とも親しい。
誰であろうとも、アンブローシアお嬢様がお選びになるのなら。
私は、アンブローシアお嬢様のお選びになったおしあわせを……喜ぶ、べき、なのに。
何故、こんなにも、胸が冷えるのか。
何故、こんなにも、胸が痛いのか。
……私は、出自も分からない、単なる使用人。
ああ……、どうして、私が……アンブローシアお嬢様の後ろに控えるのではなく、隣に立つことができる程度の身分を有しないのか。
悔しい。
つらい。
臓腑を抉られるようなこの痛みが……何なのか。
本当は、分かっている。
言葉にできない気持ちを……言葉にしてはいけないのだ。
たとえ、アンブローシアお嬢様が、隣に立つ相手に誰を選んでも。
それは、私ではないのだから。
……使わせてもらっている屋敷の庭。水がめが並んでいる傍に置いてある椅子まで、とぼとぼと歩き、その椅子に疲れたように座る。
座って、空を見上げる。
夜空で煌々と光っている満月。
「愛し合う二人が、満月の夜に口づけを交わす。愛が本物であれば、獣人化は解け、元の人間に戻る……」
エヴァンジェリン第一王女殿下の言葉を呟いてみる。
「……だが、私がお嬢様の、愛し合う相手に……なることはない」
身分などない使用人。
そもそも、侯爵令嬢であるアンブローシアお嬢様にお仕えすることすら、平民では無理なのだ。
幼き日のお嬢様が「わたくしが名前を考えたのよ! だから、クリューセスとメリッサはわたくしの側付にするの!」と「わがまま」を言って私とメリッサを侯爵家に連れてきてくれた。
フィッツクラレンス侯爵は難色を示したが、アンブローシアお嬢様は譲らず、私とメリッサも侯爵令嬢にお仕えできる程度にはすぐに知識や身のこなしを習得した。
だからこそ、側に仕えるのは許された。
だが、何がどうあっても、たかが平民上がりの使用人が……アンブローシアお嬢様の夫になることはできない。
いっそこのまま。私の顔が犬のままで、アンブローシアお嬢様がゴリラのままであれば。
そんな思いを抱いたこともある。
私はアンブローシアお嬢様が元のお体とお顔に戻ろうが、ゴリラのままだろうが、どちらでも気にならない。
だが、毛深さを厭うアンブローシアお嬢様を、あのお体のままにしておくのは……お可哀そうだとは思う。
だったらせめて。
ユークリッド様やセルジオスのように、人の顔に獣化した耳が付いている程度であればいいのに……とは思うのだが。
ああ……、無意味な思考だ。
今日は満月。
もしもアンブローシアお嬢様とユークリッド様のお気持ちが通じ合えば……。
きっともうすぐ。いや、もうとっくに。
……獣人化を解かれているのかもしれない。
内臓が、溶けるほどの痛み。
私の心はこんなにも醜いのか。
月を見上げる。煌々と照っている月を。
ああ……、眩しい。
夜空の月が、こんなにも眩しいとは。
目を細めて、右腕を伸ばす。
「……アンブローシアお嬢様」
私は醜いのです。
「あなたはクリューセース。あなたはメリッサ。どう? 素敵だし、似合っている名前でしょう⁉」
「昔あった、どこかの国の神話でね! 神様にすごーく愛された双子がいるの! そこからもらった名前よ!」
神様に、愛されなくてもいいから。
アンブローシアお嬢様から、愛されれば……。
俯いて、首を横に振る。犬の顔になった自分。醜い心が現れたような姿だろう。
「私は醜いな……」
卑しい心。
どうかこの心から、醜さを切り取って……。
願いかけたところで、タッタッタっという足音が聞こえた。
誰かが走ってこちらにやってきている。
顔を上げる。
「アンブローシアお嬢様……」
白いワンピース。
外側が黒く内側が赤い、二色に別れている印象的な髪。
ぱっちりとした大きな赤い目が、クリューセースを見つけて輝いた。
「クリューセース!」
肩で息をしながら、全力で走ってくる。
「アンブローシアお嬢様……」
はあはあという荒い息。
タッタッタっと、軽い足音。
その足音が、クリューセースのすぐそばで止まった。
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左手の腱鞘炎が悪化しないように、しばらくゆっくりのんびり更新します!
でも、2・3日ごとには更新できますように……!




