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33.少女の服と決定

 あれからろくに口を開きもせず、翔奏は途中の駅で凛と別れて、マンションへと帰ってきた。

 七時を過ぎた街灯しかない道はどこか物寂しく、喧騒よりは居心地がよく。だがその静寂が返って脳死でいたい思考を活性化させる。

 無言の口とは対照的に、頭はぐるぐると回る。


(……あれが、結兎さん)


 例の写真を思い返しながら、翔奏は歩く。

 至って平凡な、けれど確かに、ハイスペックな凛と釣り合っているように思える男性だった。

 けれどそこが平凡ではない。特別な人と釣り合っている人——その人もまた、特別なのだ。そうでなければ、釣り合うことなどないのだから。


(いやだな、本当に)


 目の前にその人の幼馴染がいたというのに、手を振って別れたと思ったらこれだ。性でもなんでもない。言い訳ができないほどに、そう考えてしまう翔奏が悪いのだ。

 自責の念を押し込めて、だがなにも考えないなど到底できずに、翔奏は別れ際のことを思い出して右手のひらを見る。


 そこにあるのは——あのUSBメモリー。


 写真を見終えた後、到底ほかのファイルを見るなんてことはできずに、翔奏と凛はどちらからともなく席を立った。会話はなかった。そこに言葉など、要らなかった。

 そうして互いに沈黙を貫いたまま電車に乗り、思考が冷静になっていくにつれて微妙な空気を感じ取っていたもののしゃべりはせず、凛が降りる駅へと着いた。

 そうして目線だけを交わして、凛は降りていくはずだったのだが。


『桐宮さん。残りのファイル、できれば確認してくれませんか』


 言葉とともに翔奏に差し出されたのは、細かい土塊のついたUSBメモリーだった。

 逡巡したのち、翔奏は当然の疑問を訊いた。


『また、なんで俺なんですか』

『……本当のことを言うと、最近このパソコンの調子が悪くて、修理に出さないといけないんです。万が一ファイルが消えてしまったら大変ですし』

『俺がパソコンを持っていなかったら?』

『持っているでしょう、一人暮らしなら』


 なるほど、だいぶ一人暮らしへの偏見が見て取れる。ノートパソコンを持っていない一人暮らしの学生など、絶対にいるだろうに。

 だが翔奏にとっては図星、凛の身勝手さも分かってきたからか、なぜか受け入れてもいいという許容の気持ちが湧いてきていた。


 結局翔奏は断り切れず、こうして持ってはいけないであろうものを持ってしまっているわけだ。

握ると、手の中で鈴がカランと音を立てる。


(未だに、なんで俺が関係してるのかも分からないのに)


 念のためにと凛が適当に買ってきた鈴を付けてくれたのはありがたいが。それにしても、初めて会った時の印象とは大きく違う凛を目の当たりにして、まだ理解できていない自分がいる。

 初めて会った時に感じた、あの涼しさ。それを思い出せば思い出すほど、今の凛が虚像に思えてくるのだ。


 だがそんなことを嘆いてももう遅い。凛の禁忌に触れてしまった、翔奏は半分引き寄せられるような形でこの件に関わってしまった。それが事実だ。目を背けたいが、だが人間の本能というのは厄介で、好奇心も少なからずある。それがきっと、翔奏が凛の頼みを断れない大きな理由だろう。

 それに、あの写真を見たときに感じた感覚。すべての神経が目の前に集まっていく、あの気持ちの悪い感じ。なぜあれを感じたのか、そしてそれが翔奏に関係しているのだという、凛の言葉の意味はなんなのか。ここまで来て今更引き返すなど、寝覚めが悪いことこの上ない。


(だから俺は……凛さんに手を貸している?)


 だがもし、気になるというあまりにも人間らしい好奇心だけで、凛の身勝手を受け入れているのなら。

 絶対にそれは、殺さなければいけない。


 翔奏にとってそれは、普通を意味するのだから。


  *** ***


 揺れた思考のまま、翔奏は自室の椅子に座っていた。

 ざっと見て、少女はこの部屋にはいないらしい。まだ出掛けて帰ってきてないのか、それとも夕飯を作ってくれているのか。どちらにしろ、いつもよくしてくれている少女には感謝をしなければいけない。

 それに——。


「か、翔奏さんっ⁉」


 刹那、驚くような声とともにドタバタと動く音が聞こえ、翔奏は後ろを振り向く。


「帰って、来てたんですね」

「今帰ってきたところ。……ごめん、夕飯が遅くなっちゃって」

「い、いえ、それは全然、気にしてないんですけれど……」


 まず謝るのは当然だ。もうすぐ八時という、夕飯にしては少し遅すぎる時間なうえに、きっと数時間待たせてしまっているのだ。小説を読んでいたかもしれないとはいえ、相当退屈にさせてしまっていただろう。

 そして……きっと、これを言うのも当然だろう。


「……なんで、顔だけ出してるの?」

「っ! これはー、えっとー、そのお……」


 今の少女は、首から上だけ、つまり頭だけ部屋の中に入れているような状態だった。一瞬生首に見えて驚いたのはさておき、だがつまりは、なにか隠したいものがあるということ。頬も赤らめているように見えるし、紅(あか)い瞳も泳いでいるような気がする。

 そうして待つこと十数秒、少女は意を決したように、口を開いた。


「その……来週水族館に行くんですけど、今日、そのための買い物をしてきて」

「うん」

「えっと、それで、服を……何着か、買ってきたんですけど」

「……うん」

「それで、えーっと、あの、なんですけど」


 緊張しているのだろうか、少女は何回も「あの」とか「えっと」繰り返し、そうした後にゆっくりと瞳を閉じ、数回深呼吸をした。

 そして刹那、少女は勢いよく、部屋の中に入ってきた。

 扉が壁に当たり、大きな音を立てる。


「っ⁉ 急になに——」

「こ、この服! どう、おお思いますかっ⁉」


 ——しかし、言おうとしていた言葉が途切れて、翔奏は少女の姿を見て目を見開く。

 目の前にいるのは、確かに少女だった。いつもとなんら変わらない、黒髪のストレートヘアをした、紅い瞳の少女。翔奏が今まで見た少女で、いつも部屋にいた少女だった。


 ただ——服が、違うだけで。


 上には真っ白な半袖のシャツを着ていて、袖口が開いているからかどこか涼しい印象を受けるような形だった。裾は短く、だがそれは淡い水色のロングスカートへとつながっているためだ。空の色をそのまま仕舞ったようなそのスカートは少女の雰囲気と完璧に合っていて、永遠に続く地平線を想起させるような服装だった。

 そしてなによりも——おそらく被りたくなくて後ろに隠している麦わら帽子がより一層、海を感じさせた。


 思わず感嘆してしまいそうなその服装に、翔奏は瞬きすら忘れて少女を見る。


「その……どうでしょうか」

「……………………」


 少女は上目遣いで、こちらの表情をちらちらと確認してくる。


(……なんていえばいいのか分からないほど、似合ってる)


 正直言うと、その少女の服装はとんでもないほどに似合っていた。

 こんな格好をした人が街中を歩いていたらきっと通りすがる人全員の目を奪ってしまうだろうし、もし波打ち際に立ったらすぐにでもカメラを構えて写真を撮ってしまうだろう。モデルとも言っていいほどに優美で、輝かしくて。まるで、その服が少女のためにあるみたいだった。

 かわいいとか、きれいとか、そんな次元ではない。言葉にすることすらも阻まれるほど、少女はきれいで、美しかった。


 翔奏は熟考した後、ゆっくりと、その口を開く。


「……本当にすごく、似合ってると思う」

「っ……‼ ……本当、ですか」

「うん。なんていうか……きみの雰囲気と、合いすぎてて。きみ以上にそれを着こなせる人は、いないと思う」

「…………あ、あり、がとう、ございます…………」


 気づいたら本音が漏れてしまっていたことに、翔奏自身も驚く。翔奏はこういう系の質問が苦手だし、どうしても頭にお世辞が浮かんできてしまう大部の人間だったのだが。今言ったことはどれも、翔奏が本当に思っていることだった。

 少女は頬を赤らめて、安心したような震えた吐息とともに肩の力を抜いて下を向く。


「そう言ってもらえて、本当にうれしいです。……あまり、自信がなかったので」

「自信がないって……。そんなに似合ってるのに?」

「自分で自分の服装が似合ってるなんて思ったら、それこそ自意識過剰じゃないですか。悪い感じはしなかったんですけど……やっぱり、そう思ってしまう以上不安だったんです」


 少女の気持ちは分からなくもない。というかそもそも翔奏自身の素材が少女よりもはるかに優れていないからかもしれないが、自分を贔屓することができない気持ちは分かる。

 だがそれにしても、少女の容姿ならば少しくらい自信を持ってもいいと思う。素材がどうとかいうよりも、服がこれでもかというほどに少女に溶け込んでいるのだから。世界中どこを探したって、これ以上に似合う人はいないと断言できるほどに。


 と、そんなことを考えていると、いつの間にか少女は翔奏の近くに寄ってきていた。


「でも、こんなに褒められたのは初めてでしたので……。ありがとうございます、翔奏さん」

「いや、別に俺はなにもしてないけど」

「翔奏さんのおかげで、少し自信が持てましたので。気持ちくらいは受け取ってください」

「……じゃあ、そういうのなら、もらっておくよ」


 紅い瞳を宿した眼を細めて若干口角を上げ、首を少し傾げた妖艶な笑み。まるで中学生とは思えないほどに——大人な表情に、不覚にも鼓動が高鳴る。

 いつものパジャマ姿の少女ならこんなことはないだろうに、どうしてかこの格好だと、いつもよりも大人に見える少女を見てしまう。鼓動が速くなっているのもそれが原因だろうし、だが嫌な感覚はしなかったので、見て見ぬふりをしておく。


(気づいたら、厄介そうだし)


 自分の心拍を落ち着けようと、目を閉じたときだった。


 一(・)つ(・)の(・)既(・)視(・)感(・)が、翔奏の中に突然として生まれた。


 それは感覚ではなく、目に見えるもの。翔奏が以前、絶対に目にしたことがあったもの。

 今度は嫌な予感がし、凪いでいた海を逆なですることが分かっていながらも、目をゆっくりと開けた。

 やはりなれない服だと落ち着かないのだろうか、少女はスカートをひらひらと舞わせ、だがうれしそうに口角は上がっている。

 そしてその原因の服を、もう一度よく見てみる。

 袖が開いていて涼しげな印象を受ける、裾が短い白のシャツ。海を想い起させるほどにきれいな水色のロングスカート。


 翔奏はあ(・)の(・)時(・)、よ(・)く(・)見(・)て(・)い(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。服装をまじまじと見ることもなく、適当に流していたのだ。

 だが——記憶に重なるのは、確かにあの服で間違いなくて。うる覚えながらも、一致しているとしか言いようがなくて。


 険しい顔をしてしまっていたのだろうか、少女が翔奏の顔を覗き込む。


「翔奏さん? どうしたんですか?」

「……ううん、なんでもない」


 気のせいだろうか。その服装は、零(・)牡(・)寺(・)に(・)行(・)っ(・)た(・)あ(・)の(・)日(・)に(・)桜(・)歌(・)が(・)着(・)て(・)い(・)た(・)も(・)の(・)と(・)酷(・)似(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。

 もはや、疑う余地すらないほどに。


(だとしても……なんで)


 だが考えようとしても、思考が台風が通り過ぎた後のように散らばってしまい、まとまらない。一つの路線に定めようとしても途中で勝手に別の線路に移行してしまう電車みたいだ。

 そういえば、今日は凛との会話で結構疲れていたのだった。そのせいで糖分を根こそぎ持っていかれたのなら、普通の翔奏でも、この思考状況は納得できるだろう。


 翔奏はため息を吐き、項垂れる。今どちらのことを考えるにしても、きっと時期尚早だろう。零牡寺についてはUSBメモリーを見なければいけないがその気力はもうないし、この既視感についても確信が持てない、ゆえに桜歌に訊いてみないと分からない。正直後者のほうは、翔奏がそこまで気にする必要のあることでもないように思えるが。


 だがなんにせよ今日は疲れすぎたと思い、翔奏は二度目のため息を吐く。なにか糖分を補給できるものでも食べたほうがいいのか。

 すると次の瞬間、目の前から声が聴こえた。


「翔奏さん、お疲れなんですか?」

「……え、なんでそれを」

「さすがに見てたら分かります。短時間に二回もため息を吐く人が目の前にいて、気づかないほうがおかしいですよ」

「…………あ」


 そういえば少女がここにいたことを、すっかり忘れていた。いや悪口を言っているわけでも少女の存在を消していたというわけでもなく、脳に糖分が回らなかったせいで……とでもいうが、結局は言い訳なので翔奏は素直に反省する。

 だが言い訳が思いつくのと同時に、嫌な考えが脳裏をよぎる。


「ご、ごめん。瑞葉さんの服装が本当は悪かったとか、そういうのじゃなくて、ただ本当に脳が働いてなかったっていうか」

「分かってますよ、翔奏さんがそういうことを考えて行動に移してしまう人だとは思いません。実際、本音で褒めてくださりましたから」

「……ならよかった」


 どうやら勘違いをされていたわけではないようで、翔奏は安心する。


「ただ単純に、あなたがとんでもなく重いため息を二連続でしていたので、疲れてるのかなって気になっただけです。というか……」


 少女は翔奏の顔を見て、


「まあ実際、結構に疲れているんでしょうけど」

「……顔に書いてあった?」

「ええ、はっきりと。さすがに心配になりますよ」

「……ごめん、心配させて」

「いいですよ。心配することも、されることも慣れているんで。それに毎日昼食や夕飯を作っているのですから、今更気にすることもありません」

「…………」

「……本当に、酷い疲れ方ですね」


 返事をしようにもする気力すら底をついていて、翔奏はせめてもの見栄として「大丈夫、そんなだから」と返す。


 少女が服を見せてくれたおかげで、少し気力が戻った……のかと思ったが、どうやらその中身は空だったらしい。いやもしくは、その安心が疲れを引き起こしたのか。どちらにせよ、もうこのまま寝てもいいと思えるほどに翔奏は疲弊しきっていた。

 だが、まだ制服から着替えてもいないし、風呂も入っていなければ少女が作ってくれているであろう夕飯も食べていない。就寝のための準備として、なに一つなし終えていないのだ。


(俺って本当に……どこまでも、そうなんだな)


 きっと特別だったら、あるいはまだ気力が残っていたのかもしれない。

 だが翔奏は普通。どこまでいっても普通。普通以外の何者でもない、普通の人間。自分は普通という事実が無理矢理働かない脳に押し付けられているかのような感覚で、気持ち悪い。反論できないのをいいことに、一方的に叱られ続けているかのような——一言でいえば、無力さ。


 それはどうしようもない事実として、理解したくない頭に入ってきていた。


「……分かりました」


 と、意識が飲み込まれそうになっていたその時、少女の声が部屋に響いた。

 翔奏は少女を見やる。


「翔奏さん、今疲れてるんですよね?」

「いや、言うほどには」

「疲れてるんです、ええそう、翔奏さんは疲れています!」


 ズバリ、とさすように向けられた人差し指。目と鼻の先で止まり、翔奏を確実にとらえる。


「だから翔奏さん。今から私の言うことには、反論しないでください」

「…………はあ」


 よく考えもせず、翔奏は了承の意を伝えた。いや、伝えてしまった。

 それも当然、翔奏の脳はほぼ働いていないのだから。なにを言われても返事をする気力がないのだったら、一番吐息が多くて楽な返事をするに決まっている。


 そして直後——これも当然、翔奏は自分の過ちを後悔することになる。


「今日から、一緒に寝ましょう」

「ああ……。…………、…………?」


 だいぶ遅れて、それこそ電波障害でも起きたのではないかと疑うほどの時間をかけて。


「……………………って、え?」


 少女の本気で、けれどどこか赤らめた頬をした顔を見つめながら、言ったのだった。

33.少女の服と決定

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