34.小さな鼓動
風呂を上がり、少女が作ってくれた夕飯(ちなみに生姜焼きだった)を食べて、それ以外の寝る前の一通りの準備を終えて翔奏は自室にいた。
そして、なんていうか。
「……………………っ」
これまでにないほど緊張した面持ちで、今はこの部屋にいない少女のことを待っていた。
それもそのはず。だって先ほど、あんな約束をほぼ一方的に押しつけられてしまったのだから。
その時を思い出せば思い出すほど疑問に思ってきてしまい、翔奏は耐えられず少女の台詞を反芻する。
「今日から一緒に寝ましょう……?」
ビシッと指をさしてきて、こちらが疲れていることをいいことに一方的にそんな約束を取りつけて。直後は、なぜ急にそんなことを提案してきたのかさっぱり分からなかった。
だが時間が経つにつれてある程度冷静になり(決してシャワーの出始めが冷水現象が起こって驚いてしまったからではない)、その理由が分からなくもない気がしてきた。
少女は初めの日——翔奏と出会った日から、ずっとベッドの上で寝てきた。それは半分無理矢理のような形で翔奏が少女をベッドで寝かせたからであり、かくいう翔奏は今の今まで床で睡眠をとってきた。熟睡できたかと言われればなんとも言えないが、少なくとも少女を床に寝させるわけにはいかなく、そういうようにして、気づけば一か月を過ごしていた。
だが翔奏は、少女がそのことに対して罪悪感を持っていることを知っている。最近になって少女の翔奏に対する心配が増えてきたのはそのせいだろうし、さらに罪悪感を持たせてしまっているということに翔奏も罪悪感を感じていた。かといって布団を買うにもインターネット通販を使わない翔奏には苦行そのもので、その問題は長い間先延ばしにしていたのだ。
これは一朝一夕では解決しない問題。そう思っていたのだが。
「あんなに、あっさり……」
少女が約束してきたことはかつて少女自身が提案したことであり、だがそれを翔奏は拒んでいた。さすがに当時初対面の人と同じ布団に入るのはだいぶ気が引けたし、なによりも異性と同じベッドで過ごすことには抵抗があったからだと思う。はっきりとは覚えていないが、多分そんなところだろう。
しかし今なら、ある程度少女と一緒に過ごしてきた今なら、まだ抵抗は少ない気がする。というよりも、これ以上双方に罪悪感という名前の変な意識をさせたくないがゆえで、翔奏の思考は賛成寄りに傾き始めていた。
これが、特別の力なのだろうか。特別は、人の考え方まで変えてしまうのだろうか。
すごいな、と改めて実感する。少女はやはり、そちら側の人だ。
対して翔奏は、
「……臆病で消極的な、普通の人間」
なんの力もない、普通の人間だ。一般の模範、もはや取り柄の一つもない、器用でも不器用でもないやつ。それが翔奏で、もう自分でも認めてしまっていた。認めざるを得ないほどに、その事実は眼前まで迫っていた。
普通と特別は、なにが違うのか。なぜ普通の人と特別の人がいるのか。その差は? 理由は? 決める根拠は? 一体なんなの?
そんなことを訊いても、誰もなにも答えてくれやしない。それは当然、その感覚がほかの人にはないから。
翔奏だけが、こんなくだらないようなことで悩んでいるのか。
なにも分からない。段々と分からなくなっていく。意識が目の前の虚空に落ちていき、この部屋にいるのかどうかも判断できなくなる。
なにがしたかったのか。望みは、なんだったのか。分からないまま、ただ分からないまま思考が堕ちて、堕ちて、堕ちて——、
「翔奏さん、お待たせしました」
刹那、もはや毎日聴いている透明で透き通った声が、底なし沼に一筋の光をさすようにして響き渡った。
瞬間、思考が覚醒されて声のした方向を見てみると。
「私から提案したことなのにすみません。その……今日買ったパジャマを探していたら、思ったよりも時間がかかってしまって」
「まだそんなに遅くないから平気。ていうか、今日買ったパジャマ?」
「ええ。今着ているやつです」
どうですか? と言われて、翔奏はようやく少女の服装に目を向ける。
そして数秒それをじっくりと見て、翔奏は気づく。
「……半袖か」
「そうです。夏先駆けキャンペーンみたいなので半額だったので、買ってきたんですよ。結構安かったです」
「それはまた、いい時期に行ったものだな……。色は一緒なのか?」
「まあピンク基調なのと襟があるのも同じですし、長袖のものと大差ないですね。強いて言うなら、生地が薄くなったことですけれど」
「へえ……」
やはり少女と話していると、黒い泥沼のような思考が一掃される。もはや一帯を見回してもその影はどこにもなく、跡形もなくなっているのだ。それは他の誰でもなく、少女の鈴を転がすような声のおかげだろう。
しかし新調した半袖のパジャマを着た少女は、いつの間にか翔奏の顔を覗き込んでいた。忍者のように気配を消せるなとも思ったが、いや単純に翔奏が疲れているだけだろう。
そしてまたもや、少女は心配そうに眉を顰める。
「……やっぱり、顔色悪いですね」
「カルボナーラばっかり食べてたときよりはまだいいと思うけど」
「いいえ、疲れてます。休んだほうがいいです」
「……だから、言うほどでは」
「疲れている人は大抵そう言うんです。自分がどんな顔をしているのか、見たことありますか?」
「……ない、です」
「だったら客観的にあなたのことを見えている私に任せてください。そのままじゃいつか壊れるって目をしてますので」
「は、はあ……」
もはやそこにプライドはいらないような気がした。今まで地味に拒否権を行使してきたのは少女が翔奏よりも年下であるという確証があったからなのだが、そう言われてしまうと返す言葉がなくなってしまう。それに少女の意見はほぼ的を得ているので、従わないわけにもいかないのだ。
と、少女は控えめに口を開く。
「……誰かと一緒に寝たほうが、疲れがとれるって言いますし」
「え、まさか瑞葉さん、そういう……」
翔奏がいつか少女も言っていたようなことを言うと、
「断じて違います。勘違いしないでください」
「す……すみません」
感情のない返しである。精神的にダメージは来た。しかしこれで少女がなにかをしてくる……なんてことは、少女に限ってないだろうが、一応の確認は取れたわけだ。相応の報酬というものだろう。
少女は部屋の照明スイッチの前に立つ。
「先にベッドに入っていてください。電気消しますので」
「……分かりました」
「よろしいです。あ、あと」
気づいたように、少女は言う。
そして次の瞬間——少女の周りから冷気を感じた。
「そちらこそもしなにか変なことをしたら、あなたが私の前に裸で現れたときのように、首を絞めますので」
「く、首……」
「再起不能になるまでやってもいいんですけど、どっちがいいですか?」
「ど、どっちも嫌だ。ていうかまずまずそんなことはしない!」
「ならいいです。もともと、翔奏さんがそういうことに手を染めるとは思ってませんし」
「はあ……さようで」
少女の性格にしてはやけに無警戒だとは思うが、それも例の武術が少女の中にあってこそからだろう。どこかで合気道でもやっていたのかは知らないが、やけに洗練された動きだったことは覚えている。
それに少女が言った通り、翔奏にはそういうことをする趣味はない。そもそも疲れ切っている人間がどうしてその発想に至れるのかというほうが疑問だが……。少女のあの目には、若干の悪戯心が含まれている気もした。だがその感じだと少女のほうも翔奏をあまり警戒していないようにも見えて、少しうれしかった。
翔奏は少女に言われた通り、先にベッドに敷いてある毛布をめくり、中に入る。
と、その刹那に電気も消された。
「…………」
やけに静かな暗闇の中に、少女のするような足音が聴こえる。
段々と、それは近づいてくる。一歩、二歩、三歩と、小さな時計の針の音よりも鮮明に、その音は翔奏の耳へと届く。
ゆっくりと、永遠のように感じる時間を経て、ようやくその音はベッドのもとへとたどり着いた。
毛布の端が、若干めくられる。
「…………入りますね」
「…………ああ」
柔らかな衣擦れの音と、体から毛布が離れたような感覚。その離れに呼応するかのような形で、心拍の音が翔奏の耳に聴こえる。
そして直後——生暖かいものが、背中に触れた。
「……っ!」
久しく人の身体に触れていなかったせいか、少し驚く。翔奏よりも少し低い体温、そして軽く身じろぎをするたびに触れる背中。神経を無駄に研ぎ澄ませていた状況下で触れ合ったそれは、翔奏の鼓動をどうしようもなく早くさせる。
とくん、とくん。一定のリズムの心臓の音が、やけに現実的に背中から伝わってくる。
それは紛れもなく、少女の心拍そのもの。小さな体躯な中の心の臓が、鼓動を鳴らしているのだ。
それが鮮明に理解できる。今まで、空間も違えば済んでいるところも違う、言わば壁の向こうの存在のように思えていた少女が、生きているんだ、と。得も言われない感覚が、翔奏の全身を包み込む。
それは安心できて、どこか危なっかしくて。その儚さすらにも嫉妬してしまうほどだった。
ふと、少女は囁くように言う。
「……緊張、してますか?」
嘘を吐く理由もないので、正直に答える。
「……ある程度は」
「……そうですか」
意識を暗闇から、まさに今真後ろで声帯を震わしている少女へと持っていく。
「私も……まあ、緊張してます。誰かと一緒に寝るのなんて、久しぶりなので」
「記憶に残ってるのか?」
「朧気には。感覚もなにも、残ってないし思い出せないですけど」
少女はそう告白すると、小さく息を吐く。
思い出したことを、忘れるように。
少女は暗闇に紅い視線を彷徨わせるようにしてから、口を開いた。
「翔奏さんって、本当にいるんですね」
「……まだ変質者とでも?」
「違いますよ。その節は……すみませんでしたけれど」
「いいよ。もう気にしてないし、あのときは瑞葉さんも驚いてたと思うから」
「ええ。あの時は本当に、なんていうか……。怖かったよりも、びっくりしたっていう表現のほうが合ってる気がします」
「思ってみればそうかもな。いきなり殴られたときはさすがに怖かったけど」
「……その節も、すみませんでした」
もはや返せる言葉がないのか、少女は背中を丸める。その度にベッドから、背中から振動が伝わってくるのがなぜか新鮮で、永く感じていなかった感覚のようで、それでいて——心地よい。
「でも、翔奏さんも大概ですよ。見ず知らずの人の前で急に泣き出したり、私を襲おうとしたり」
「前者は合ってるけど、後者は誤解だっ! そんなことをしようとも思わなかったし」
「なっ……⁉ つ、つまり、私が大人っぽくはない、と?」
「え、そうでしょ。どう見ても中学生の風貌だし」
「だだだ、誰がそれを……」
「あれ、適当に言っただけだったんだけど」
「……っ!」
「それとも、今更訂正する?」
「~~! 翔奏さん、さすがにそれはずるいですよ……」
がくり、と諦めたようにベッドが揺れる。どうやら今回は、翔奏のほうが一枚上手だったようだ。
だが身長からしてそのくらいだろうと、だいぶ前から予想はついていた。ただその口調があまりにも大人びていたため、少し迷ってしまっていたのだ。
だってあいつは、そんなことはなかった。身長はまあ認めるが、性格や口調がその理論を拒む。絶対にあいつだけは、大人と認めてはいけないだろう。
(…………?)
急になにを思っているんだろうと翔奏は思う。だがそれを探っている暇もなく、寝なければいけないという使命感が翔奏を襲う。
眠るように、ゆっくりと瞬きをする。——けれどすぐにその目は開けてしまい、どうしようもなく白い壁を映す。
……思えば、いつの間にか眠くなくなっていた。伝わってくる鼓動も、触れた壁の感触も、まだ寝るべきではないと言っているような気がして、翔奏は無理矢理にでも寝ようとする。
だって、もう深夜だ。明日も学務があるし、年度初めに誰かの本好きのせいで図書委員会なるものに入ってしまったがために、通常の始業よりも早く行かなければいけない。ならば、もう瞼を閉じるのが得策だ。こんなに疲れているのに、起きようとするほうがどうかしている。
「じゃあ、また明日。瑞葉さん」
「ええ、また明日。しっかりと寝てくださいね」
短い言葉を交わし、翔奏と少女はそれぞれベッドに深く身を預ける。ベッドが軋んだ音がして、だがそれすらも気にならないほどに鼓動は高鳴っていた。
疲れているとはいえ、久しぶりに人と同じベッドで眠るのだ。緊張しないわけがない。
それに別の意味でも——主に少女の寝相が悪いことに関してだが——緊張していて、その二つの攻撃で眠れなくなっているのではないのか、と考える。
もしそうならば、どうしようもない。どうせなにも起きないのなら緊張なんてしても無駄なので、翔奏は小さく深呼吸をする。
心拍を確認すると、少しはましになっていた。
(……俺ってやつは、本当に単純だな)
たくさんのところで痛感させられる、それ。翔奏への凶器となりうるそれを今度は自分で生み出してしまったことに後悔しながらも、翔奏はぎゅっと目を瞑った。
——そうして、何分が過ぎたころくらいだろうか。
まだ寝つけておらず、抵抗する意識を押さえつけて、闇に沈めようとしていた時だった。
「……翔奏さん」
「…………」
優しく包み込むような声が、翔奏の後ろで囁かれる。
さすがに寝ようと念じていた矢先に飛ばされた言葉なので、翔奏は思わず寝たふりをしてしまう。なるべく呼吸の音を目立たせて、鼓動が一定のリズムになるように息で拍を取る。
じっと見られている気がする。本当に寝ているのか、はたまた嘘を吐いていて起きているだけなのかを見定められているような、先ほどとは違う緊張感に襲われる。
「……寝てしまった、みたいですね。よかったです」
「…………」
いや、どうやら寝ていてほしかったようだ。だからあんなに長い間見られていたのだろう。
なにを話し出すのかは分からないが、目を瞑ったのならすぐに意識が飛ぶだろうと思い、そのままベッドに身を預け——
——ようとした、瞬間だった。
「すー……っと」
「っ⁉ っ、…………っ、…………」
背中を、細い指でなぞられた感覚がした。
あとは意識を沈めるだけだと思っていて油断していたせいか、翔奏の身体は普通の人間らしく、びくりと跳ね上がった。まだ本当に寝ているのかを確認する作業は、終わっていなかったというわけか。
だが、そうされても翔奏は寝ているふりをする。声も限界のところで出なかったし、目もなんとか開けていない。ならば、人間の生理反応だと思ってくれるかもしれない。
ゆっくりと、まるで処刑内容が言い渡される前の囚人のような気持ちで判決を待つ。
またもや、こちらをじっと見られている感覚がする。それはさっきよりもずっと鋭く、突き刺すような視線で、見定めるかのように見られる。
待って、待って。
そして、次に聴こえてきたのは。
「……ふふっ、やっぱり、そうなんですね」
「…………?」
納得したような、含みのある笑い声だった。まるで相手の真意を見極めたときのような、自身のある声。けれどそれを妬んで、羨んで、欲しているような、裏を返せば黒で埋め尽くされたような声色。そのどれもが未知で、怖くて、ひゅっ、と翔奏の首が風が通り過ぎたような冷たさを負う。
少女の次の言葉を、待つ。
「寝ているから言いますけど……。この間、変なことを言ってすみませんでした。その…………。……お嫁さんがどうたらこうたら、とか」
「…………」
翔奏はすぐに少女が言っていることに思い当たる。
きっと少女が言っているのは、雀と海に行った日——兼、零牡寺へと行った日の前日の少女の言葉のことだろう。確かあの時少女は、頬を赤らめながら「まるでお嫁さんみたいですね」みたいなことを言っていた。ずっと少女の大人さを見ていたゆえ、印象には残っている。
どうやらそんなとんでもない爆弾発言をしてしまったことを、少女自身も気づいていたらしい。いや逆に気づかなかったら怖いのだが。
「あの時の私、どうかしてたみたいで……。後になって、自分がなにを言ったのかに気づきました。本当にごめんなさい」
「…………」
「あれで嫌いになられてなければいいんですけど……。まあ、翔奏さんの様子を見るに、そんなことはなさそうですね。安心しました」
嫌いになるわけがない、というより、なれるわけがないだろう。少女には色々と与えてもらっていて、それを少女の失言一つで水の泡に帰させるなんて、薄情なことはできない。
(まあそもそも、あの言葉自体嫌ではなかったし)
少女の息を吸う音が聞こえる。
「翔奏さん、これは初めて口に出しますけど」
「…………」
「私——」
突然に、意を決したような口調だった。翔奏が寝ていると思っているのにも関わらず、声は少し震えていて、静寂に聴こえる心臓の音はせわしない。だから、そんなに勇気を出しているのならば聞いてあげなければいけない、と。そう思っていた。
だが——またもや、間違えてしまったみたいだ。
そう。聞かなかったほうが、よかったのかもしれない。
こんなこと。
「——普通になりたいんです」
(…………………………………………は?)
言っている意味が理解できず、翔奏は思わず目を見開く。
普通になりたい? なにを言っているのだろうか、少女は。普通なんてなりたくてなるものではない、一種の呪い。そこから脱出できない、永遠の牢屋なのだ。
そんな中に入ってなにになる? なにか分かりでもするのか? いいや、なににもならないし、なにも分からない。であればそんな沼、入らなくて正解だ。自ら入りたいなんて、それは自殺志願となんら変わりない。自ずから、生き地獄に足を運んでいるようなものなのだから。
「覚えてもいない頃から通院していて、悪化したからこそこうして長期入院もして。私の周りにはなにも残らなくて、私自身しか残らなくて。……特別の自分だけが、残って」
それは少女の回顧録。少女自身が語る、少女の言葉で紡ぐ物語。
「諦めた。けれど、どうしても特別ではない存在を欲するなにかが、私の中には蠢いていた。そういうことを何日も考え続けて、ようやく気づいた。その欲する存在が、普通、そういう名前なことに」
けれどそれはあまりにも歪で、不確かで、まとまっていない。言葉を断片的に切り取って、なんとか文章にしているような感じ。
つたない。けれどその意志は、伝わってくる。
あまりにも汚れてしまった、その羨望が。
「けれど私はその存在になれない。だってもう、特別っていうレッテルが貼られているんだもの。だから私は諦めた。その存在に気づいて、足掻いても、手を伸ばしても届かないと知った、その日に」
もはや聞けなかった。聞きたくなかった。そんなぐちゃぐちゃな単語の集まりなんて、諦観なんて、まるで逆の考え方なんて。
けれど暗闇はどちらの意味でも、それを引き立てる。
「もう割り切ったと思ったその矢先に——あなたが、出てきた。普通を持った、あなたが」
指をさされているかのような感覚。お前だ、と決めつけるように、少女は言い放つ。
なぜだろうか。もう次の言葉も、分かるような気がした。
「どこまでも普通で、どこまでも私がずっと欲しかったものを持っている人で。やっと見つけた、と思った」
翔奏もそうだった。どこまでも特別で、どこまでも自分の欲していたものを持っている人に出会って。やっと見つけたと、本当はどこかでそう思っていた。
それなのに。いなくなってしまったから。
「だから私、あんなこと言ったんだと思う。お嫁さんって、特別な人はなれないから。普通じゃないと……せめて、特別の路線から外れてないと、なれないから」
今すぐにでも耳を塞ぎたいのに。もう寝たふりだって分かられてもいいから、耳を抑えたかったのに。
どうしても、それができなかった。
「私は……なれない、そんなふうには」
潰されるような声は、確かに聴こえた。
けれどそれは、翔奏の禁忌に触れるには容易な力を持っていて。もろく崩れやすい殻は、みるみる砕け散っていく。
もう、瞼を持ち上がらせる気力すら、残っていなかった。
「……まあ、こんな話を翔奏さんにしたって、寝てるから意味ないんだけど」
「…………」
「じゃあ、おやすみなさい。……翔奏さん」
毛布を掛けなおす衣擦れの音が聴こえて、それきり部屋は静寂に包まれる。
時計の秒針の音と、たまに耳に届く衣擦れの音。少女が唸る声。
だから、それだけが、聴こえていた。
なんで少女はあんな話をしたのか。あの話は本当なのか。それともやはり、本当なのか。
けれど、それだけは、聴こえなかった。
じゃあ、なにが?
なにが、残った?
どこに、あるの?
その中に、残ったのは。
「……………………」
嫉妬だけだった。
もはや翔奏の鼓動の意味は、人の体温に触れた驚きから、恐怖による戦慄へと変わっていた。心臓が、張り裂けそうなほどに悲鳴を上げていた。
そして結局、その日は一睡もできなかった。
34.小さな鼓動




