32.失う恐怖
せっかく注文したのに一口も手を付けないのは悪いと思って、お互いにプリンとパフェを少しずつ食べながら、凛はパソコンを起動する。
まだ若干の疑念——言わば恐怖があるものの、翔奏は凛の言葉に納得しかけていた。
だって考えてみれば、自分勝手極まりないのだから。人を連れて心霊極地へと勝手に赴き、言い方を選ばなければ人を危険にさらして、それでいて危険にさらした人にそこでの成果物を一緒に見てくれと頼んで。翔奏がこれまで意識していたことをすべて塗り替えるように、凛は翔奏の中の常識を壊していっていた。
この自分勝手さを桜歌の前でいつも見せているのかと考えたが、しかし思い出してみれば零牡寺に行ったあの日、桜歌は「自分勝手な凛を始めて見た」と言っていたのだ。とどのつまり、凛がこの姿を見せるのは翔奏の前だけ、ということで。
それも全部、翔奏が凛の禁忌に触れてしまったせい——なのだろうか。
「質問に答えていませんでしたね」
その声でいつのまにかプリンを凝視してしまっていたことに気づき、翔奏はパソコンを操作している凛の顔を見る。
「あたしの幼馴染——結兎が亡くなったのは、二年前の冬でした」
ブルーライトカットのためだろうか、縁の細い眼鏡を掛けた凛はどこか様になっていて、まるで美人だと認めざるを得ないくらいに端麗な表情だった。
しかしその口から語られる言葉はどこかさめざめとしていて、すでに感情など置いてきてしまったかのような雰囲気を感じる。
「高校生三年生の冬だったので、絶賛受験期だったというわけです。そんな中彼の事故が起きてしまい。……でも、人間ってやっぱり残酷ですよね。そんなことがあった次の日には、もう問題集が目の前で開かれていたんですから」
凛の幼馴染、結兎は亡くなる当日、レストランに凛を呼び出したと聞いた。しかし今聞けばそのころは受験期だと言っていて、凛も結兎も、互いのことを一番に大切に思っていたのだと、翔奏は初めて知った。
だが事故のすぐ後には、いつも通りの日常に戻ってしまっていたという。それは性格なのか、緊迫なのか、それとも。
だがいずれにしても、凛は自分が非情な人間だという事実に苦しめられているように見える。
いや——もしくは、自己暗示か。
「数か月が過ぎて、受験も終わって大学生活が始まりました。そのころになってようやく、彼の事故のことを詳しく調べ始めたんです」
ドラマやアニメーションのような、目の前のやるべきことを放り出して人を救いに行く、なんてきれいな展開が起きるわけがない。
だってこの世界はどこまでも現実なのだから。枷に縛られて、動けなくさせられるのだから。妄想でも空想でもない——どこまでも自分から離れていってしまう、世界なのだから。
翔奏の鼓動がひどく脈打つ。
「そうしてトラックの出所が零牡寺と分かったころ——一年半前くらいからでしょうか。そこから頻繁に、零牡寺に通うようにしたんです」
「通うようにって……。まるで、習い事みたいな感じで言うんですね」
「ええ。そのころから怖さとか自分がなにを考えているのかとか、よく分からなくなっちゃって。気づけば毎日のように、行き来していました」
言った瞬間、カチリ、とUSBメモリーがパソコンの端子に刺さった音がした。
嘘なく語ったという雰囲気はしないが、それもまた当たり前だ。いつだって人間は自分を守るために嘘を吐く。だから言えば、それもまた自らの禁忌を人に触れさせないための、殻なのだ。
だからそれを無理にこじ開けようとはしない。
詮索しない——それは翔奏が、いつも意識していることなのだから。
「つながりましたね」
「……そうみたいですね」
凛はノートパソコンを九十度回し、翔奏にも画面が見えるように動かしてくれる。
「私は結兎のことを知るために、絶対に中身を見なければいけません。……いえ、いらない責任感を勝手に背負ってるのかもしれませんが」
凛は俯き加減に、言葉をこぼす。
「ですが桐宮さんも、これを見なければいけません。きっとあなたの、大きな選択に関わってくることだと思うので」
「……凛さん。その大きな選択って」
意味深な言葉とは裏腹に、凛の翡翠色の瞳は翔奏の眼球を射抜いていた。有無を言わせない、そんな圧を感じて、翔奏は出かけていた言葉を無理やり空気と一緒に飲み込む。
固唾をのむ状況とはこのことかと、翔奏は知る。とても重要なことを見る前、あるいは人生の分岐点となるような瞬間。そういう時にしかこない感覚だと思っていたのだが。
(いや……あるいは、これが)
緊張した雰囲気が流れる。凛のマウスを握る白い手が、若干小刻みに震える。
「では——開きます」
しかし凛はそれには負けずに——無名のフォルダにカーソルを合わせ、クリックをした。
その瞬間。
「ッ⁉ なに、この光……?」
「見えな……っ!」
翔奏と凛は、意識を失った。
*** ***
「……んん」
いつから寝ていたのだろうか。もしくは意識を失っていたのか、だいぶ久しぶりに思考が自分のものになった感覚がして、翔奏はゆっくりと眼を開ける。
「…………。……うわっ⁉」
しかし直後、咄嗟に飛び起き、翔奏は立ち上がって数歩後ろへと下がる。
人がいたのではない。ものがあったのではない。
その場所に、翔奏は絶句していた。
「…………零牡寺」
つい先日行って、もう二度と行かないと誓った日本三大心霊極地に指定されているうちの一角——零牡寺の祠で、寝かされていたからだ。
頭にはまだ石の硬い感触が残っていて、手や袖には落ち葉や土がついていた。
翔奏はなんとか、記憶を取り戻そうとする。
しかし頭を捻ってもなにも思い出せず、周囲を見渡してみると。
「ッ! 凛さん!」
零牡寺の入口に、凛が寝かせられていたのだ。
そしてそれを見た瞬間、翔奏の頭の中に一気に記憶がなだれ込む。
(そうだ……俺は、凛さんとファミレスに来て、USBメモリーの中身を覗こうとして。それで気づいたら……)
「凛さん! 起きてください、凛さん!」
駆け寄って肩をゆすってみるも、一向に起きる気配はない。むしろどんどんと眠りが深くなっていっているような感覚がして、翔奏はゆするのをやめ、その場に寝かす。
未だに零牡寺の辺り一面には、瘴気のような白い霧が立ち込めている。空から降り注ぐ太陽もなんだか変な色だし、だが霧がかかっているのにも拘らず先が鮮明に見えるのは、いったいどうしてなのだろうか。
翔奏は立ち上がり、自分が寝ていた祠へと戻ってみる。
(外壁から守られるようにしてある小さな祠、賽銭箱、取り外された鐘、鈴緒……。あれ、なんで寺なのに祠があるんだ?)
以前来たときはあまり見れていなかったが、よく考えると零牡寺なのに祠があるのは、どう考えてもおかしい。祠は神道——つまり神社の配列にあり、寺の大本となる仏教とは根本的に違う立場にあるのだ。
それに鐘といい鈴緒といい、どれも神社にあるものばかりで、とても寺とは信じがたい光景がそこには広がっていた。むろん、どれも翔奏が通っている高校の歴史科教諭の無駄話のおかげで判断できたことなのだが。
いつぞやの凛のように触りはしないものの、少し寺内部に入って辺りを見回してみる。
と、翔奏はなにかを見つけたかのように怪訝な顔をする。
(……あれ、待って。この間来た時って、こんなに——)
刹那。
ぐしゃ。
落ち葉を踏む音が、翔奏の後ろ——つまりは零牡寺の入口のほうから聞こえた。
「……ッ‼」
思考するよりも先に足が動き、翔奏は咄嗟にすでに崩れた壁の影へと身を潜める。
こんなところに来る人は、大抵の場合常人ではない。翡翠色の瞳をした女子大学生に言っているわけではなくて、だがすでに危険性が分かっているところに自ら赴くなど、有名な火に飛び込む夏の虫よりも質が悪いだろう。
だがともかく、この足音はおそらく人だ。一定のリズムで落ち葉を踏みながら、歩いている。
ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ。その足音は段々と近づいてくる。
「…………」
息を殺す。心臓の音すら立てないようにと、恐怖で染まりそうな精神をなんとかなだめようとする。
ぐしゃ、ぐしゃぐしゃ、ぐしゃ。歩幅が乱れたのだろうか、躓きそうな音を立てながらもなお、その足音は翔奏へと刻一刻と迫り続けている。
「……っ、っ…………!」
今になって、この場所がやけに寒いことに気がつく。朽ち果てた壁から吹き抜ける風がやけに冷たくて、まるで真冬のような風が肌に当たる。
身震いをするのすら我慢しながら、翔奏は全神経を研ぎ澄ませる。
そしてついに——その足音が、壁越しに翔奏の真後ろへと来る。
「……………………ッ」
止まる。
叫びそうになる口を手で覆う。
こちらを向く。
視線は前。見たいという好奇心を本能的に押さえつけて、反対側の壁をただ一身に見つめる。
じっとこちらを見る。
見る。
見る。
見る。
見る。
見て、
『………………………………あ、あ』
掠れた囁くような声を残して、その足音は遠ざかっていった。
ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ。と、ただそこに虚無だけを残して。
充分に離れただろうと判断してから、翔奏はほぼ止めていた息を口から一気に吐き出す。
「ッはぁは、はぁは、はぁは、はぁ、は、あはぁ、はぁは、はぁ…………はあ」
その場に両膝をつき、全身から滝のような冷や汗が流れ出す。
さっきの足音の主を、翔奏は見なかった。見られている感覚はあったのだが、どうやら襲う気はなかったらしい、そのまま去っていったのだ。今見ても、おそらく立っていただろうその場所には誰もいなかった。遠くでかすかに、歩く音が聞こえるくらいには遠ざかっているらしい。
いやそもそも誰かも分からないのに警戒するなど無礼かもしれないが、しかし雰囲気がその人が正気ではないということを示していた。言わば自らの命を絶ちに来た救いを求める人——とにかく、まるで次元の違うような圧が、翔奏に押し寄せてきたのだ。反射的に隠れるのも、無理はないだろう。
そして間違いなく、ここは厳寒地帯だ。雪こそ降っていないものの、周囲に流れる冷気がここが尋常な場所ではないことをひしと物語っている。
(冬でもないのに、どうして……)
そもそもが零牡寺ということもあるが、しかしそれだけでは説明のつかないほどに、翔奏は疲弊しきっていた。
ほとんど動かない足を無理やり引きずって、零牡寺の入口を目指す。ファミレスからここまでどうやって来たのかは分からないが、少なくとも参道を下れば駅には出られるはずだ。とりあえず、そこを目指せばいいだろう。
目的地を決めて、翔奏は近くの木材を支えに立ち上がる。
耳を澄まして近くに誰かがいないことを確認し——ゆっくりと、祠から外に出る。
そのまま入口に行こう、
と思ったのだが。
「……凛さん?」
ついさっきまでそこで寝ていたはずの凛が、いなくなっていた。
周りを見渡す。しかし翡翠色の瞳をした黒髪の女性などいるはずもなく、翔奏は足をそこへと進めながら考える。
無事に参道を降りているのなら、それでいい。翔奏が気をかける必要もないだろうし、なにより凛は零牡寺に通うように来ているのだ。迷うはずがないだろう。
だがそうではなく、もし参道を転がり落ちていったのだとしたら大変だ。今すぐにでも、探さなければいけない。
あるいは。
(凛さんが、さっきの正気を失っていた人……。いや、まさかあの人に限って)
確かに凛はおかしな人だ。けれどあそこまで正気を失っているようだとも思えなかったし、それならば翔奏のことを呼ぶはずだ。だからきっとあの人は、凛ではない。
しかしあの人が入ってきたのは零牡寺の入口、つまりは凛が横たわっていたところ。ならば、もしかしたら、凛は——
——ガサッ
刹那、近くの木の陰で草が揺れ動く音がして、翔奏は瞬時に警戒態勢を取る。
確かに、今あの木の後ろから音がした。動物なのか、人なのか、あるいは霊なのか。
翔奏は警戒しながらも、慎重に参道へと足を進めようとする。
(音を立てなければ、大丈夫なはず……)
横目で木の影と地面の両方を見ながら、参道を進んでいく。
だがその時、また音が鳴る。
——グシャ、ドゴッ
「っ⁉」
明らかになにかをぶつけた音、あるいは殴った音だったので、翔奏は思わずそちらを凝視する。
そしてだめだとは分かっていたのだが、翔奏は一歩、また一歩と、今度はそちらへ歩みを進める。そこに人がいるのは明確だったため、なるべく驚かせないように、静かに、けれど段々と存在感を増していくような感じで近づいた。
するとどうだろう。草の奥からなにかが動いた気配がして、一瞬歩みを止めたものの危険ではないと判断し、翔奏はゆっくりと近づいていく。
そして、実にほんの数メートルの距離となり、翔奏はやけに小さいその背中に、控えめに声をかける。
「ねえ、大丈夫?」
びくりと肩を跳ねさせ、その人は恐る恐るといったように首をこちらへと向ける。
その時間がやけに長く感じられて、なかなか顔が見えなくて。
だがそれも時間の問題、徐々にその顔が見えていく。
そして見えていくたびに——翔奏は目を見開いていった。
「……………………おま、え………………は」
顔がはっきりと見える寸前。
「————あ」
意識が、ぷつりと途切れた。
*** ***
「…………や……ん」
外から、なにか聞こえる。声だとは思うが、それが誰なのか判断するのにはまだ試行が微睡んでいて。
「……き……やさん」
徐々に思考がはっきりしていくと同時に、声も鮮明になる。聞こえやすくなり、まるで膜を破ったかのような感覚に、刹那襲われる。
「桐宮さん!」
「ひゃいっ⁉」
耳元で叫ばれた声に鼓膜を痛めながら、翔奏は思考を覚醒させて勢いよく頭を上げる。
瞬間、喧騒の入り混じった声が無数に聞こえてきて、何事かと辺りを見回す。
「ここは、えっと……」
「ファミレスです」
「おうわっ⁉」
すぐ隣から声がして、思わず反対に身を反らす。
そこにいたのは——いなくなったはずの凛だった。
「凛さんっ⁉ 大丈夫なんですか?」
「ええ、大丈夫ですけれど……。私が、どうかしましたか?」
「だって凛さん、探したのにどこかに行っちゃって」
「私はどこにも行ってませんよ。……それに、私目線どこかに行ってしまったのは桐宮さんのほうなんですが」
「え? どういう、こと……」
状況を整理したくて、翔奏は視線を彷徨わせる。
まず今日翔奏は、凛に呼び出されてこのファミレスに来た。内容は雑談と——目の前のパソコンにつながれている、零牡寺で拾ったというUSBメモリーのことだった。
凛の幼馴染が結兎という名前の人だということを知って、震える手を無視しながらフォルダを選択した——はずだった。
だがその瞬間に光が視界を覆い、気づけば——零牡寺に、再びいたのだ。
翔奏はその後のことを、凛に話した。冬だと思われるような零牡寺にいて、寺なのに神社の置物があって。途中で正気を失ったような人が来たもののなんとかやり過ごし、参道へと足を進めたのだ、と。
「……なるほど。だから桐宮さん、驚いてたんですね」
「ええ。夢だとは思ってなくて、てっきり帰っちゃったのかと」
だが凛に言わせてみれば、それはすべて夢——あるいはなにかしらの記憶だそうだ。やけに現実味があって、感覚も肌触りも鮮明に覚えているのだが……。怪奇現象なんて言葉では到底、説明がつかないだろう。
それに凛も似たようなものを光に覆われた後に見たらしく、しかし凛の場合は翔奏と違い、見覚えのある状況だったという。
「結兎が轢かれる寸前の、道路だったんです」
「……っ? 轢かれる寸前?」
「ええ。結兎が反対車線から歩いてきていて、交差点へと向かっていきました。何度も話しかけたんですけど、まったく返事がなくて……。まあ当然ですよね、夢の中なんだから」
「夢の中、だから……」
凛の話が本当だとするのならば、では翔奏が見つめられたと思ったあの視線はいったい何だったのだろうか。違うところを見ていたのか、あるいはただそう錯覚してしまっていただけなのか。
それに醒める前になにかを見た気もするけれど、それがどうしても思い出せない。
「轢かれる直前に意識が戻って、桐宮さんがまだ寝てたんです」
「ああ、だから隣に……」
「ええ。あの光のせいで眠っているのなら、私と同じように取り込まれた可能性が高いですからね」
ため息を吐き、凛は項垂れたように頭を下げる。凛もなのだろうか、もはや実際に零牡寺に行ったときの衝撃がどの経験よりも度を越していて、別に今たいそう驚いているという様子は双方にない。
だがこれは日常ではありえない……いや、普通ではない状況だ。裏になにかを隠しながらも、少なからず困惑はしていた。
「このUSBメモリーのせい……ですよね」
「多分、そうだと思います」
USBメモリーが翔奏と凛に夢を見させている——。変な話だが、しかし元凶は間違いなく、この小さな情報記憶装置だ。データが現実に干渉することなど可能なのかとも思うが、だがそう疑わざるを得ない。
凛は元の椅子に戻りながら、話を続ける。
「すみません、桐宮さん。私、ただ一緒に見てもらいたかっただけなんですけど、こんなことにまた巻き込んでしまって」
「……いいですよ。だって見た夢が違かったってことは、きっとそれぞれがそれぞれに関係のある夢だったんでしょう?」
「…………ええ、多分」
「だったら、それが凛さんの言っていた、俺にも関わってくることだと思いますし。少しの恐怖くらい、慣れていますから」
「そう言ってもらえると、安心します」
だがこれで、この件に関して翔奏は、無関係ではいられなくなったわけだ。なにかしらの因果があってあの夢を見させられたのだと推測できるし、それがなにか分からなくても——例えそれが、翔奏という人間を根本から覆してしまうような大きなことだとしても、凛が巻き込んだのだ。責任は半分くらい、凛に取ってもらうとしよう。
「桐宮さん。それで……USBメモリーのこと、なんですけど」
「……ええ。見る限り、まだファイルやらフォルダがありそうですね」
言われて、翔奏はさっきの夢の原因となったパソコンの画面を見る。
どうやらさっきのフォルダの中身は空ではなかったらしく、三つの番号が書かれたフォルダと、一つのただのフォルダに分かれていた。
凛はそのフォルダたちを、まじまじと見つめる。
「これまたさっきみたいにならないですよね……。異次元空間に飛ばされたり」
「さっきのと言い、ノーベル賞とれちゃいますよ、そんな技術が現実にあったんなら」
「ですよね、本当に」
だが瞬間、なにがあったのか凛はバッとパソコンの画面から顔をそむける。
「ふっ、ノーベル賞……。た、確かに、そうですね」
「……なにか面白いものでもありましたか?」
「い、いえ。特には……。……ふふっ、の、ノーベル賞……」
何気に言った言葉が凛の笑いのツボに入ったらしく、凛は口元を手で抑えて——笑っていてもあくまできれいな顔を崩さず、肩を小刻みに震わしていた。変なところで笑うのは、果たしていつものことなのか。明日桜歌に訊こう。
困惑するのもさながら、「どこで笑ってるんですか、まったく」と言いながら、ぬるいコーラを一口飲み、翔奏は口を湿らせる。妙に喉が渇いていたのは、夢の中が寒かったせいだろうか。
凛の笑いが収まってきたところで、翔奏はパソコンに表示されている、三つの番号のフォルダを指さす。
「《1215》、《0505》、《1122》……ですか」
「つなげてみても、なにもなりませんね」
「ええ。それに——」
翔奏は一番端のフォルダから順に、一つずつ指で数字をなぞっていく。
「これ、並び順がおかしいですよね」
「……言われてみれば、確かにそうですね。不自然というか、既定の配列ではないというか」
データ内のフォルダやファイルの名前は、基本的に数えるのが早いほうから並べられる。だからこそ見やすくて、整理がつきやすいのだ。
しかしこのフォルダはその法則を無視している。無理やりと言わないばかりに並び順が正規のフォルダと矛盾していて、直そうとしても、なぜだかこの並び順が本来の形がして、直そうという気力すら湧いてこないのだ。
だからきっと、この順番がここでの正規の並べ方——なんだろう。無理やり自分を納得させる。
「数字のフォルダのほうに、なにか覚えはありますか?」
「いえ、特には……」
だがすぐに「あ」と凛は気づいたように返す。
「《0505》は、月日に直すと結兎の命日と一緒の日です」
「…………っ!」
突然ぶっこんできた凛に、翔奏は思わず言葉を失う。
まるで流れるように言う幼馴染の命日。この言動も凛が言っていた、自分が薄情者だと思う理由の一つなのだろうか。
いや——もしかしたら、それすらも。
「……五月五日、ですか」
「ええ。だからこの間も、たまたま桜歌とあったんです。墓地で」
「墓地……。…………っ! そういうことですか」
凛はこくりと頷く。
この前、雀と海に行って途中で桜歌と凛にあったあの日。日付はちょうど五月五日だと言っていた。
そしてその時に、一緒に住んでいるはずの桜歌と凛が会った場所は墓地。桜歌は両親の命日だからという理由で訪れていたが、まさか——。
「だから凛さんは……あの日に無理やりにでも零牡寺に行こうと、したんですね」
「不謹慎ですが、命日に行ったらなにかあるかと思いまして」
まったくもってその通り、不謹慎極まりない言葉だ。それならなおさら、翔奏たちを連れていく必要もなかったのではないかと思うが。
だがもしかすると、その時の凛はすでに、この出来事が翔奏にも関係しているのではないかと感づいていたのかもしれない。
「けど……本当に俺は、なんで関係してるんだ」
「…………」
無視しているわけではないのだろうが、返す言葉がないのか凛は黙ってフォルダを見つめる。
答えてほしいわけではない。明確な解答を求めているわけでもない。だがそうすると自然に、頭のどこかに疑問が積まれていく。
(なぜ俺なんだ。普通の、ただ普通の俺が、なんでこのことに関係あるんだ)
その裏に、ひとりでは抱えきれないほど大きな高揚を抱えているとは露ほど知らないわけもなく——口からこぼれそうになる笑みを、感情を殺す勢いで沼の奥深くに沈めていく。
なにか考えないと——そう反射的に思ったとき、凛がマウスを握った。
見ると、カーソルを《0505》と書かれた上のフォルダに合わせている。
「見るんですか?」
「ええ。フォルダのアイコン的に、ここにしかファイルは入ってなさそうですし。無駄なところを開けて、さっきみたいなことになっても困りますので……」
凛は一度目を閉じ、今度こそと覚悟を決めたように、ゆっくりと目を開ける。
その翡翠色の瞳に、白いパソコンの画面が反射する。今度はもう、マウスを持つ手は震えていなかった。
——カチカチ。
周りの喧騒が嘘のように消えてからクリック音が二回響き、そのフォルダの中身が露になる。
そして——翔奏と凛は同時に声を上げた。
「……っ? これは、なに……?」
「…………は?」
並べられていたのは、百枚を優に超える写真の数々。どれも背景が白黒で、どうやら同じ場所で連続に写真を撮影したものらしい。
だがその多さと明らかに正気ではないファイルに、翔奏と凛は絶句する。
思わずといったように、凛の手が一枚のファイルを開く。
するとすぐに画像が出てくる。全体的に画質は荒く、まるでドライブレコーダーで撮影された写真にも思えてくるが。
場所はどうやら交差点。住宅街で、人は翔奏の見る限り翔奏と同い年くらいの男子一人しか映っていない。服はしっかりと外出用で、手はまるで大事なものをなくさないようにするかのように左ポケットに入れられている。
しかもその顔の向きは横。ただいつも通りに交差点を横断しているようにしか見えないのだが……。
翔奏は凛を見る。
軽く、「この人、誰ですか?」と訊こうと思っていただけなのに。
その横顔は、まるで。
「————————————————ゆい————————と?」
分かっていたはずなのに。予測できた、未来だったはずなのに。想定していた出来事のはずだったのに。
その横顔は、まるで——写真の中の男子の次の表情を、模倣しているかのようだった。
凛は無意識に、次へと写真を送っていく。
どうやら一秒間の間に数十枚取られているようで、写真の中の男子の表情の変化はあくまで微々たるもの。違いになんて気づきやしない。
だが凛は確かに、一枚ごとに変化する本当に微妙な表情を、まるで頭に焼き付けるかのように見る。
徐々にそのカメラ——トラックは、横断途中の男子のもとへと近づいていく。
少しずつ、ゆっくりと進んでいき、まるでかわいそうと言わないばかりにそれは見せつけてくる。人の死という、計り知れない恐怖を。
そしてなにより、凛の横顔を見て分かる。
それは、以前凛の発していた言葉。
自分がこんな形で知るとは思ってもみなかったであろう、お呪いの言葉。
——大切な人を失うという恐怖を、なにより現実味を帯びて分からせてきた。
それは凛の禁忌。そして翔奏にとっての禁忌。とどまるところを知らないような勢いで、思考がそれに染め上がっていく。
いつの間にか動悸が激しくなっている。手の感覚もなくなってきて、周りの喧騒もまったく聴こえなくなって。それでいて——見ているものだけは、はっきりと頭の中に入ってきていた。
もはや違う。これはお呪いではない。
これは、そう。
のろいだ。
「————————」
「————————」
いつしか凛の手が止まり、その写真たちは終点へと到着する。
最後に映ったのは、きっとトラックが横転する直前の写真。端に、おそらく男子だったなにかが映っている。
周りの喧騒も、じきに元に戻ってくる。学生の談話、社会人の食事、接客する声。窓から差し込んでいたはずの夕日はいつの間にかすっかり沈んでいて、外は闇夜と化していた。
まるで対照の狭間で、そしてそことはまったくの違うところで。
暗くなったディスプレイを、眺め続けていた。
32.失う恐怖




