↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/35

30.心配と生温い風

 数日が経ち、ゴールデンウィークという名の長期休暇も終わりを迎えた。

 学生の大半が絶望する、学校への登校が再開する朝。翔奏は——少し冷静でいられた。


「おはよう、瑞葉さん」

「ふにゅう……」

「いや”ふにゅう”じゃなくて……。朝だよ、瑞葉さん」


 ベッドで気持ちよさそうに寝ている少女の肩を揺するようにして、翔奏は少女を起こそうと試みる。

 珍しく朝早くに起きられたので少し自慢でもしようと思っていたのだが……。そんなことはさせてくれないらしい。代わりに陽の光に照らされた少女の寝顔だけが、翔奏の目には映る。

 その無防備な姿を見て、内心でため息を吐く。


「……起こさない方がいいか」


 あまりにも起きないものだから辟易した気持ちがあるものの、これだけ熟睡している所を無理やり叩き起こす意味も見当たらず、翔奏は観念して学校へ行く支度を始める。

 時刻は七時半、制服にも着替えて身なりは整えた。別に気合を入れる必要もないが、しかしこうでもしないと雀に笑われそうなので、一応しっかりとしておく。

 と、翔奏がリュックサックを背負ったタイミングで。


「ん、んん……。あれ、翔奏さん? おはようございます……」

「おはよう、今起きた?」

「ええ、まあ……。……え、翔奏さん? なんか今日早くないですか?」


 上半身を飛び上がらせた少女は、すでに制服に着替えて出掛けようとしている翔奏を見て驚愕する。まるで珍しい生き物を見たかのような目でこちらを見てくるが……。しかし翔奏が先に起きると言うのは稀なこと限りないので、仕方ないかもしれない。


「なんか早く起きちゃって。今日くらいは余裕をもって登校しようかなって思っただけ」

「そうなんですか……。なんか悔しいですけど、よかったです」

「……一体なにと戦ってるの、瑞葉さんは」

「いつも寝坊しているあなたと、ですよ。今日は特別に認めてあげますが……」

「それはどうも」

「褒めているんじゃありませんっ!」


 むう、と少女は頬を膨らませる。

 が、少女は仕方ないと言うように吐息し、眠そうに眼(まなこ)を擦りながら少し動いてベッドに座る。


「ですが、間に合いそうでよかったです。いっつもとんでもないスピードで部屋を出て行ってこっちが心配になるので」

「ま、まあ。あれくらいじゃなきゃ間に合わないし……」

「明日もお願いしますよ、翔奏さん。私の手間が省けるように」

「……そうだな。頑張るとするか」


 自分の情けなさに苦笑し、不安を覚えつつもだが改めて気合を入れる。

 そして相も変わらず翔奏のベッドにいる少女に向かって、言う。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 微笑む少女はやはり、天使のように美しく見えた。


  *** ***


「お、翔奏! 珍しいな、お前がこんな時間に来るなんて。早起きできたのか?」

「ああ、まあ……なんとかな」


 早々に昇降口でバカみたいに大きな声で雀に話しかけられ、翔奏は若干辟易したような声を出す。

 だがこれもいつものことなので雀は気にしなく、先に進んでいた翔奏の隣に並ぶ。


「お隣さんに起こしてもらったとか?」

「だから違うって。しっかりと自力で起きたわ、お前は母親か」

「ああそうだ。オレはお前の母親だ! 望むんだったらモーニングコールもするし、家にまで迎えに行くぞ?」

「やめてくれ、雀みたいなクソデカボイスのやつがうちのマンションにいたら隣の人とかから苦情が来るから」

「ハハッ、存外にひどい言いようだな。そういえばお(・)上(・)さ(・)ん(・)は最近騒がしくないのか? 前随分悩んでたけど」

「お上さん……ああ」


 翔奏の頭の中に、茶髪でドラマーな女性の顔が思い浮かぶ。おそらくあの人のことを言っているのだろうが。


「だいぶ前に解決したな。レーベル所属のドラマーらしくて、そのドラムの音が防音材を張っていないせいで下まで響いていたんだと。……雀に話さなかったっけ」

「いや、初耳だな。しかしそうか、ドラマーだったのか。道理でうるさいわけで」

「最近もたまに耳に入るけど前ほどじゃないし。まあいいかなって」


 踊り場の窓から、朝陽が差し込む。それは今の気候にちょうどよい温度で、しかし会談の先を見てもう一度足を上がらせなければいけないという現実を押し付けてくる。

 階段の影を見ながら進んでいると、雀は訊くべきことを思いついたのか、少し声のトーンを落として翔奏に肩を寄せる。


「翔奏」

「ん?」

「あ(・)の(・)日(・)から、大丈夫だったか?」

「…………」


 周りの生徒の話声とは対照的に、雀は言い放つ。


「……うん。特に変わったことはなかったから大丈夫」

「本当に? なにか変化したことはなかったのか?」

「本当に。ありがとう、心配してくれて」


 あの日とは無論、零牡寺(れいぼでら)に行った日のことだろう。雀は翔奏が死地に行こうとしているのを間近で見ているわけで、当然帰った後も気が気でならなかったはずだ。

 しかしこちらからすれば、変わったことはないか、と言った雀の方が心配だった。

 零牡寺から帰った後に一通、次の日の朝、夜に二通ずつ、そしてさらに次の日は朝と夕方に四通ずつメッセージが来ていた。さすがに心配になり電話をしたが至極いつも通りの声で、しかし心なしかその声は若干震えているようにも聞こえた。

 そんなことがあったものだから相当心配されているのが伝わる反面、罪悪感も芽生え始めていた。


「なにかあったらいつでも言えよ。お前の家に行くから」

「いやそんな大丈夫……って、冗談なわけないよな」

「当たり前だろ。オレは、そういうことができない自分が一番嫌なんだ」


 自身めいた主張はどこか狂気をはらんでいて、翔奏は少しの畏怖を覚える。いざとなったら、相手を守るために、あるいは想うばかりに自分自身を犠牲にしそうで——そんな未来が勝手に見えてしまって、怖かった。

 そしてそんな空気に耐えかねて、口を開こうとしたその時だった。

 ふと翔奏は、階段の下から視線を感じた。


「…………」


 横目で見やると、階段目下で複数人の女子生徒が集まってこちらをじっと見ていた。正確には雀だけを、陶酔したような目で見ていが、階段を封鎖してしまっているらしく、奥で後から来た生徒が困っている様子が覗える。

 その視線は、まるで翔奏は邪魔だと言わないばかりのようで。


「……雀、見られてるらしいけど」

「…………。気にすんな、いつものことだ。こっちがとやかく言えることでもないだろ」


 だがこれも日常茶飯事。雀は気に留める素振りすら見せず、階段を一段、また一段と上がっていく。踊り場で方向転換をしたので、もうその生徒たちの視線はなくなった。

 がしかし、唯一気がかりなのは階段を封鎖してしまっていることだった。あれを払わなくていいのかと思ったが、今更引き返すわけにもいかなく、雀もその光景を実際に見てはいないので、そのまま進んでいく。

 どうしようかと階段下を見つめながら足を止めかけていた、次の瞬間。


「どきなさい。後から来た人たちの邪魔でしょう?」


 凛々しい声が、集まりの後ろから聴こえた。

 そこにいた全員が、一斉に声のした方向を振り返る。


「ふ、藤月さん……」

「溜まるなら通路ではなくて他の人の邪魔にならないところでお願いできる? 私も、早く行きたいのだけれど」

「ご、ごめん桜歌ちゃん。今どくから」

「ええ。分かったのならよろしい」


 たった一声で、それまで執着深く通路を封鎖していた女子生徒たちは散り散りに去っていく。そして数秒で、階段は元のように通れるようになっていた。

 通れなかった人たちが感謝の言葉を述べているが、こちらに詳細なことまでは聴こえない。だがその声だけできっと動かなかったであろう人たちを動かしたことに、翔奏は圧倒される感覚を覚える。

 と、翔奏が止まっていることに気づいたのか雀が階段を下りてくる。


「どうした? 止まって……ああ、桜歌か。さっきの人たち散らしてくれたみたいだな」

「そうみたい。……本当にすごい」


 それだけ言うと、翔奏は半分雀に連れられるような形で階段を上がっていく。

 去り際に桜歌が一瞬だけこちらを見たような気がするのは、きっと気のせいだろう。


  *** ***


 昼休み。昨日早く寝たおかげかいつもよりかは授業に集中できていて、翔奏は久々に勉強に対する手応えを感じていた。これも、早く寝ろと急かしてくれた少女のおかげか。


(帰ったら瑞葉さんにお礼言わないと)


 教科書の整理をしながら、脳内でそんなことを考え始めていた時だった。

 机の上に手が置かれた。


「翔奏さんや。授業中に起きてるとは、また珍しいことで」

「くっ、否定できない……。まあ、今日は頭がクリアになってるって言うか、そんな感じで」

「……お前、薬(やく)キメてきたか?」

「誰が違法ドラッグに手を染めるか。お前の方がよっぽど危なっかしいわ」

「ううっ、お母さんは悲しいよ……」

「まじでお前ぶっつぶすぞ」


 そんな軽口を言い合って、今日は気怠そうにしていない翔奏とまだ驚き気味の雀は、いつものように学食に行こうと決める。途中他の男子生徒が雀を教室眼下にある中庭に誘っていたが、断ってくれていた。


(たまには他の奴らと食べてもいいのに……)


 そう申し訳なくなりながらも、その気づかいに感謝していることも事実だ。それがなければ、そもそも住んでいる世界が違う翔奏と雀は、こんなふうに交わることもなかったであろうに。

 本人曰く入学して間もない頃に翔奏に話しかけてきた理由は「面白そうなやつがいたから話しかけてみた☆」ということだが、きっとそれも、教室の隅に一人でいる、なんか暗そうな生徒を一人にしないための気づかいだったのだろう。

 思えば思うほど悲しくなってくるが、翔奏はそれを善意として受け取ることにする。

 さて財布も取ってその足を学食へと向かわせようとした、その時。


「木蔦くんと桐宮くん。ちょっといいかしら」

「ん?」

「え?」


 今朝聞いたばかりの——引いてはさきほどもちらちらと耳に入ってきていたその凛々しい声に、翔奏と雀は振り向く。


「同行願いたいわ。私の後についてきてもらえる?」

「悪いがオレたち、今から学食に行くんだ。その後でもいいか?」


 雀が凛々しい声の持ち主——桜歌に応対をすると、クラスの視線が一気にこちらへ向く。

 それもそうだ。桜歌は容姿端麗、才色兼備、おまけに定期考査万年一位の超優等生。雀は学年で最も人気のあるカリスマ的存在かつクラスのムードメーカー。その二人が同じクラスだと言うだけでも奇跡なのに、まさかしゃべるなんて。傍からみたら、王子様とお姫様の談話とでも言うべきだろうか。


 だが、きっとそんな夢を見ているクラスの奴らは知らない。本当の桜歌と雀は険悪で、決してしゃべる仲ではなくて。むしろ互いが互いを避けているなんて、知らないのだ。

 いや——もしくは、黙(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)の(・)か(・)。


「ごめんなさい、今じゃなきゃいけないの。奢るから、来てくれないかしら?」

「……翔奏、どうする?」

「いや俺に訊かれても……」


 そんな二人の間に挟まれている翔奏は、一体クラスメイトからどんなふうに見えているのだろうか。邪魔なもの、本来今の視界の中にはいらないもの。あるいは、いないもの。

 窮屈ではない。そんなの、普通である翔奏にとっては当たり前のことだから。

 けれど、どこか寂しい気持ちもあって。二人の本当を知っているからこそ、思うところも積もるようにあるのは事実だ。

 だから翔奏は——一刻も早くここから逃げたく、雀に耳打ちする。


「いいんじゃないか? 雀も呼ぶってことは、結構重要な話だと思うし」

「……ああ。そうする」


 少し咳払いをして、


「分かった。行こうか」

「ええ。行きましょう」


 きっとクラスの奴らからすれば、デートイベントかなんかに見えてしまっているのだろう。

 だがそんなことはない。二人の間に流れる空気が、翔奏だけに感じ取れた雰囲気が、それを物語っていた。

 そして桜歌が翔奏と雀を先導すべく前に行こうと、翔奏の隣を横切った時。


「ありがとう、翔奏」


 たった一言、翔奏にしか聞き取れない声量でそう言った。


  *** ***


「で……同行ってこと話がしたいんだろ。なんなんだ?」


 桜歌に連れてこられた屋上、その電力設備室の裏で、雀はそう切り出した。

 雀が自ら桜歌に切り出すとは、つい最近までは考えられなかったが……。おそらくこの間のことで少し警戒心が薄れたのだろうか、声の調子は教室の時とはまるで違うものの、翔奏にしてみればいつも通りにしゃべることができているように見えた。

 それは桜歌も同じようで、若干呆れているような口調で雀に言う。だがそれは嫌悪とは違っていた。


「あんたはいいとして、翔奏に用があるのよ」

「おい、オレが連れてこられた意味は」

「おまけ。本命は翔奏だから」

「お前なあ……」


 雀が呆れたような顔をするのも、翔奏にとっては日常的だ。しかしその顔は決して他には見せない、裏(・)の(・)顔(・)でもあって。


「……俺に用が?」

「そう。渡したいもの……っていうか、まあ凛から頼まれたものがあって」


 凛とは明日、近くのファミレスで会う約束をしている。その時に渡してくれればいいのに、わざわざ桜歌に渡す理由があるほどのものとは、一体なんなのだろう。

 しかし「だけどその前に」と桜歌は言い放つ。


「翔奏、あの日帰ってから変わったことはなかった? 大丈夫だった?」

「……まあ、大丈夫だったよ。具合悪くなったりとかも特になかったし。心配してくれてありがとう」

「そう……。それならよかった」


 明らかに安心したように、桜歌は胸をなでおろす。

 桜歌からも、定期的に心配を意味する連絡は来ていた。さすがに雀ほどではなかったが、ある程度気にかけてくれていたみたいだ。

 そして今の桜歌の訊き方に、翔奏は既視感を覚える。


(……雀と同じ訊き方だな)


 実際に会って話さないとその人の状態は分からないものだ。だから人はひとりでいると不安になったりするのだが。

 しかしあまりにも雀と同じ訊き方なもので、翔奏はこみ上げてきた笑いを寸でのところで抑える。

 雀の方をちらと見るとなにやら不満そうな顔をしているが……。今は見るのをやめておこう。気を抜くと笑ってしまいそうになる。


「あんたの家に行ってもいいって凛が言ってたんだけど、さすがにやめておいたわ。迷惑でしょう?」

「まあ迷惑ではないけど、そこまでされると逆に心配になるかもな」

「そうよね。まあなにかあったら言って。できることはするから」

「うん、ありがとう」


 さて、雀の表情が時間が経つにつれて怪訝になっていることは置いておいて。

 桜歌はなにやら右手をブレザーの裏側に入れて、そこに用意していたものを、翔奏にはっきりと見えるように掌の上に乗せる。


「で、凛から頼まれたものなんだけど」

「……っ!」


 刹那、翔奏は目を見開く。


「なんで、それが……」

「零牡寺に落ちてたって……凛が言っていたのよ」


 桜歌の掌に載せられていたのは、日陰でも紅く光り輝く——いつも翔奏が肌身離さず持っていたはずの、小さなペンダントだった。

 思い出して確認してみると、確かに首にかけられていない。この学校は華美ではない装飾品なら着用していいという校則があり、周りからは見えないようにずっと首にかけていたつもりだったのだが……。まさか、忘れていたとは。

 雀はぽつりと言葉を零す。


「きれいなネックレスだな、それ」

「ええ……。おそらく翔奏のものなんじゃないかって、凛が言っていて。あんたので間違いない?」

「……ああ。俺ので間違いはない」


 なら、と桜歌はペンダントを翔奏に差し出してきて、翔奏は半放心状態でそれを受け取る。

 なにも見えなかったとき、諦めてしまおうかと思ったとき、いつも道標になってくれていたそれは、翔奏にとってなくてはならないものだ。

 失くすなんて、ないと思っていたのに。しかも失くしたことすらを忘れていたなんて。そんなこと、ありえるのだろうか。

 しかもその間、このペンダントがない中で生活していたなんて。考えるだけでも恐ろしくて——きっともうすでに、翔奏はそれに依存してしまっていて——翔奏はただそのペンダントを見つめる。


「……どうしたの? なにか私、まずいこと言っちゃった?」

「いや、そういうわけじゃなくて……。ごめん、届けてくれてありがとう」


 ごめんなのかありがとうなのかはっきりしろ、と自分でも思う。ただ今は困惑していて、まともな返事が出来なかった。だから翔奏は首にもかけずに、それをただ握り締めたのだろう。


「……零牡寺の、どのあたりに?」

「祠近くって言っていたかしら。翔奏が通った後の道にそれが落ちてたって」

「オレがある程度確認していたはずだけどな……。まあ、それだけ小さいと、な」

「…………」


 五月の生温(なまぬる)い風が、屋上裏に吹きつける。

 暖かかったものは冷めていく。それと同じように、記憶も擦れて行っていつか完全に消える、曖昧で不完全なものなのかもしれない。


 けれど。

 そう分かっていても。

 見つかってよかったとは、到底思えなかった。


「用事はそれだけ。行くわよ」

「……これだけのために、オレたちをここまで?」

「だって見つかったら大変じゃない、こんな姿。どこに耳があるか分からないんだから、なるべく人目は避けないと変な誤解を生みかねないわよ?」

「……それはそうだが」

「それにあんたらも……翔奏も、雀も。なるべく平穏な生活を送りたいでしょう? だからそれを配慮して、ここにしたのよ」

「なるほどな……」


 桜歌と雀も、翔奏が放心なことくらいすぐに想像つく。だって生気のないその瞳を見れば、一目瞭然なのだから。

 けれどお構いなしに話しているということは、ある意味優しさなのかもしれない。自分たちは気にしていないと、そう翔奏を安心させるために。だって普段こんなにしゃべることはないのだから。

 だが——それも、翔奏は分かっていた。分かっていながら、ごめんの一言も口に出せずに黙っていた。

 そんな翔奏の様子を察したのか、桜歌と雀は軽くアイコンタクトをし、歩き出す。


「ほら翔奏。私が奢ってあげるから、早く学食に行くわよ。もちろん席は別で」

「行くぞー翔奏。腹が減ってしかたがねえんだ、お前もそうだろう?」


 そんな二人の様子に顔を上げて、翔奏は握り締めた手にさらに力を籠め、そして脱力をする。

 すると存外に、自分に対する嫌悪感はあまりなくなっていた。


「……ああ、ごめん。行こう」


 けれど決してその表情は明るいとは言えず。むしろなにかを押し殺したような、潰してなくしてしまったような表情で。


 明日は凛との約束の日だ。こんな気の持ちようで果たして大丈夫なのだろうかと心配になると同時に、しかし凛もきっと同じ気持ちだと気づく。

 傷の舐め合いをするつもりなんか到底ない。そんなことをしてもただ苦しくなるだけだから。互いの苦しさは、互いにしか分からないのだから。


 しかし翔奏を呼んだということは、翔奏にしか分からない——話せないことがあるということ。桜歌でもなく、きっといるだろう大学の友達でもなく、なぜつい先日知り合ったばかりの翔奏なのか。

 それはすべて、明日分かる。


「…………」


 翔奏はひしと、紅いペンダントの縁を指でなぞった。




30.心配と生温い風

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。