29.零時の会話
「すー……すー……」
「……寝たかな」
翔奏はそっと、目を閉じ眠った少女をベッドに寝かせる。
首と膝裏に手を入れて運ぶ……世間一般で言う「お姫様抱っこ」をしたせいで少し腕が痺れてはいたが、なんとか少女を再び起こして勘違いされる羽目にならなくてよかった。
枕から頭を揺らさないように手を抜き、翔奏はようやく自由になった両手を軽く動かす。
少女を見る。
「相変わらず……だな」
——少女が埃と煤がついた服でこの部屋に飛び込んできた後——正確にはその更に後に翔奏の胸に飛び込み大声を出して泣いた後——、翔奏は少女からなにがあったのかを聞いた。
すると少女が言うには、いつの間にか暗い空間にいたと言うのだ。
その暗い空間——すなわち暗闇とは、もう使われなくなった病棟長室らしく、少女がいる病棟の一番奥にあるらしい。そこまで行くのには曲がり角を何か所か曲がらないといけなく、しかも電気も非常口を示す緑ランプしかついていないので本当になにも見えない暗闇だと言っていた。圧縮されているような気持ちだったのだろうか。
そしてそこに少女がいた理由は、少女が謝りながら説明してくれた。
「俺の部屋が見えた……だっけ」
どうやら、翔奏の自室に行けたらしいのだ。なぜ行けたのかは分からないと言っていたが、気がついたら翔奏の部屋にいて、気がついたらドアからリビングに出ていて、目が覚めたら暗闇にいた、と翔奏に説明していた。
おそらく玄関の鍵が閉まっていなかったのも、至る部屋の電気が点いていたのも、翔奏の自室が開いていたのも。すべて、少女がやったことなのだろう。怒られると思ったのか少女は身を小さくしていたが、正直安心の方が勝って怒る余裕がなかった。ましてや記憶がないと言われれば、なおさらだろう。
だがそうすると、少女は自分が知らない間に鍵を開けて外に出ていたということになる。とんでもなく危険なことな上に、おそらくはその状態でまた病院に戻ったということだろう。このマンションと病院の位置関係がどんなことになっているのかはさっぱり分からないが、少女は最悪死ぬかもしれない綱渡りをしていたのだ。
そう思えば、むしろ「よく頑張った」と褒めたくすらなってくる。
なにしろ命からがら逃げてきたような雰囲気で部屋に入ってくるのだ。暗闇にそれ以上の恐怖があったのかもしれないが、少女は相当の根気を振り絞ってここまで来たのだろう。そこまで考えるともはや、翔奏にはかける言葉すらないのだ。
だがなぜだろうか。その時の少女は頑張った自分を褒めてほしいと言うような顔ではなかった。ただ自分を受け止めて、なでてほしい——「あなたしかいない」と、そう言わないばかりの表情だった。
その時の少女の目には、もはや翔奏しか映っていなかったよう見えたのだ。
「……さすがに服も着替えたほうがいいか」
翔奏の外に来ていった服には、もはや大きな水たまりかなにかができた跡のような大きなしみがついていた。すべて少女の涙の痕で、泣いても、泣いても、少女はまだ泣き止まなかった。
ようやく泣き止んだかと思えばいつかの翔奏のように顔を拭きもしないで肩を震わせているので、今度は翔奏が少女の顔を拭いたのだ。とても洗面所に行かせられるような状況ではなかったため翔奏がタオルを濡らして拭ってあげたのだが、少女の頬がもちもちとしていて柔らかかったことだけは覚えている。
……と、そんなくだらない感想は置いておいて。少女はその後、安心して翔奏に笑顔を向けたのかと思えば、すぐに翔奏の膝の上で眠ってしまった。だから翔奏はどうしようもなく、少女をベッドの上に運んだのだ。決して不埒なことをしようと思ったわけではない。
しかし少女の服を見ると、埃やら煤やらをつけたまま寝てしまっていいのだろうかと心配にはなったが、しかし起こすこともできないためこのままにしておこうと翔奏は決める。
「着替えに行くか」
翔奏はタンスから着替えを出し、少女の方をもう一度だけ見て洗面所へと行く。今の少女をここに放置するのは危険とも言えるが、だがこのままでいるわけにもいかない。それにあそこから帰って来てからシャワーも浴びていないのだ。さすがに気持ち悪い。
洗面所で着替えを済ませてからいつもより入念にシャワーを浴びる。やはり固定観念のせいだろうか、そういうところに行くと、なにか呪われたような、憑いたような感覚がするのだ。それがシャワーで落とせるわけもないのだが、ましにはなるだろうと思い翔奏は水圧を強める。
シャワーが終わり改めて着替え、夕食を適当に作ろうと思いキッチンに立つ。あの状態で少女にご飯を作らせることはできないので、今日は自炊だ。
なにがあるかと思い、冷蔵庫の中を開けてみると。
「……まじでなにもないな」
水と麦茶。先日買った卵とパック米が少々、いつもあるベーコンに調味料が色々。これでは火を使った料理の一つもできまい。さらには油が切れていると来て、翔奏はさすがに諦める。
できれば暖かくて塩っ気のあるものがいいと思ったのだが……それも、夢のまた夢らしい。
(この前瑞葉さんが作ってくれたサバの塩焼きみたいな……)
翔奏は妄想の中心にいる鯖の塩焼きをなんとか奥に引っ込め、現実を見ようと頑張る。が、そう簡単にもいかなく。
(生姜焼きでもいいな。さっぱりはしてないかもしれないけど、少し刺激があるものの方が腹に溜まるっていうし)
翔奏の食欲は、一層強まっていく。だがそうすると、あとの落胆が大きいのが怖いのだ。
そして、まあ予想通りというべきか。
「……俺、本当になにができるんだろ」
言わないことではない。冷蔵庫を早々に閉め、だが作るものがやはり思いつかないので再び開ける。電気代の無駄なんて知ったことではない。
……こうしてみるといつもそうだが、少女の家事力の高さに驚かざるを得ない。きっと料理の腕前が高いのではなく、アイデアが出やすいのだろう。だから学食よりも、引いては近くの飲食店よりも完成度が高く、それでいて頬が落ちるほど美味しい料理ができるのだ。作っているところを直接見たことはないが、独創は時に天才に化けることもあるという。きっと彼女ならば、この冷蔵庫の中身を見てもなにか料理が浮かび上がってくることだろう。
つまりそれは特別—―この一言で、すべてが説明できてしまう。
それに比べて、翔奏はこの食材たちを見てもなにも思いつかない。ただ絶望の文字だけが頭の中にあり、まるで美味しい料理になる想像ができない。
つまりは普通。ただ普通の人間で、普通すぎる。
少女とは違う人間。特別ではない人間。それが翔奏で、それだけが翔奏なのだ。
(……本当に絶望してどうするんだ)
だがそれは今考えるべきことではないと首を振って、結局翔奏は卵とパック米、そして醤油を手に取った。食材という食材は一つしか見当たらない。
これを見たら分かるだろう。そう、卵かけご飯だ。
「ついでにその上にベーコン……いや」
洗い物が増えるだけだ、と翔奏は諦める。ベーコンが乗っているか乗っていないかなんて、栄養に意味はないだろう。所詮は同じタンパク質、それを二乗したところで、脂が増えるだけだ。
「……こういうところも悪いんだろうな、俺は」
パック米を電子レンジで温めている間、翔奏は情報収集のためテレビをつける。世界史担当の教師が毎時間最初に、昨日あった世間での出来事をランダムな生徒に訊くので、その対策のためだ。長期休暇中であっても、集めておくに越したことはない。
ニュースを放映しているチャンネルを探していると。
『今回は日本三大心霊極地スペシャル! 最恐地と呼ばれるあの伝説の場所を、あの大物芸能人と有名霊媒師で探索します!』
とあるバラエティ番組が、そんな内容の放送をしていた。
ニュースを探すのに夢中になっていた翔奏の手が止まり、視線がその番組に注げられる。
『その中でも今回紹介するのは、過去数多のソーシャルメディアでその暗さと不気味さが万バズした栃木県N市の森林にある市道三五九二線、そして最恐地の中の最恐地と呼ばれる激ヤバスポット零牡寺! 霊媒師との相談の結果、零牡寺は上空ドローンで録った映像の実況のみとさせていただきますが、それもこの後スタジオで生対談! お楽しみに!』
「上空ドローンで録った映像の実況……。…………テレビが?」
翔奏の背中に悪寒が走る。テレビがそこまでして拒むようなところに、翔奏たちは足を踏み入れてしまったのだろうか。
いやもともと零牡寺は冗談で行っていいところではないし、実際に亡くなった事例があるので危険を知らない素人が行くべき場所ではないとも理解もしていた。だから凛が提案した時は意味が分からなかったし、死ぬために行こうとしているのではないとばかり思っていた。
だがこうして公的機関が拒んでいるのを見ると、どうしてもそう思ってしまうのだ。どうしようもなく、恐怖に襲われる。
そんなことを考えていると、いつの間にだろうか、画面に映し出されていたのは二つ目の最恐地のドローン映像である零牡寺だった。
確かに……零牡寺だった。最近撮影されたのだろうか今日の記憶の通りの零牡寺で、屋根は崩れ中が剝き出しになっており、周りも森林に覆われていてよさような雰囲気は一切しなかった。
内容はまるで頭に入ってこない。霊媒師らしい女性が口をやたらに動かしているが、なに一つとして理解できなかった。スタジオのタレントはその一言一言に一喜一憂しているが、翔奏にはそんな余裕はなかった。
——そしてちょうど、電子レンジが音を立てたころだろうか。画面の下に、《幽霊を発見?》というテロップが張り出された。
映像が、映る。
「ッ⁉」
画面に、ドローンでたまたま映り込んでいたらしい零牡寺の周りをうろつく一人の女性が現れた。
スタジオは一斉に騒がしくなり、「うわあ、これ人間ですか?」とか「幽霊って初めて見たかもしれない……」とかなんとか言っているが、翔奏にはそれが寺内を探索している——言えば物色している人間にしか見えなかった。
ドローンが近づいていく。虚像かと疑ったそれは、翔奏の中で確信を帯びていく。
数十メートル上の映像だった。しかしそこでも、判別するのには十分な映像だった。
(あれは間違いなく——いや、絶対に)
すっかり電子レンジのことを忘れ、翔奏は近くにあったスマートフォンを手に取る。
そしてメッセージアプリを開き、とある人に連絡をする。おそらくその人はまだ起きていて、きっと同じものを見ているはずだ。
(なんで、あなたが)
トークルームを開く。メッセージを書き込み、送る。
《夜分遅くにすみません。少し、お聞きしたいことがあるのですが》
すぐに返信が来た。まるで、待っていたかのような速度で。
《なんですか?》
たった一言。だがそれは、ある意味それを訊く許可が出た合図で。
翔奏は慎重に、言葉を選びながら入力をする。
《なんでもう、いたんですか》
沈黙。
沈黙。
沈黙。
やがて、意を決したように文章が送られてきた。
《桐宮さん。もしよければ、来週のどこかの放課後など空いていませんか?》
少しの沈黙。
翔奏は即座に返事を返す。
なぜ彼女がそれを選択してきたのかは分からない。けれどきっと、そうしないといけない理由があったのだ。ここではできない話が、きっと。
それに誘うなら翔奏ではなくもっと適任の人がいるはずだ。もっと近くにいる人もいるだろうに、わざわざ翔奏に頼んだ理由は、つまり。
《ええ、大丈夫です
水曜日とかどうでしょうか?》
《いいですね、そうしましょう
桐宮さんの近くのファミレスでいいですか? たまたまそこまで行く用事があるので》
《分かりました、お願いします》
《それじゃあ、おやすみなさい》
《おやすみなさい
一度打って、しかし翔奏はそれを消す。
そして違う文に書き換えて、送信をした。
改めてテレビを見てみるとすでにその番組はエンドロールに入っていて、もう見れそうにもないので今度こそニュースを放映しているチャンネルに回す。ちょうど深夜ニュース番組が始まろうとしていたので、それを表示した。
時刻はもうすぐで零時。きっと誰もが寝静まり、目を閉じるとき。
翔奏は立ちながら——その画面を睨んで、小さく、小さく、呟いた。
「《行かないでください》——凛さん」
29.零時の会話




