28.綺麗事
真っ暗だった。
視界にはなにも映らなくて、なにも光らなくて。まるで黒く塗りつぶしてしまったかのような空間の中に、少女はいた。
目を開ける。
地面に倒れていた身体を起こして、少女は辺りを見渡す。だが、その紅い瞳にはなにも映らない。
「……ここ、どこ?」
微妙に声が反響する。ということは、ここはある程度の広さを持った、際限のある空間だということだ。
つまりは——あの時みたいじゃない。
自らの服装を確かめると、いつもの部屋着に少し煤のような汚れのついていた。一体どこでつけたのか、少女も知らない。
と、そこでなにか違和感を感じ、少女は自分の右手を見る。
「…………ぬいぐるみ?」
その小さな右手には、先月翔奏が少女の誕生日プレゼントと称して買ってきてくれた少女が両手で抱えられるほどの大きさのカワウソのぬいぐるみの、左手のような部分が掴まれていた。
なぜこれを持ってきたのかは分からないし、これを手に取った記憶もないが——。だが、ここに来た理由ならなんとなく思い出せる。
「翔奏さんの、部屋に……行こうと思って」
独り言に、少女は自分の声が反響する音を聴く。
如月から二つの予定を言い渡された後だった。少女は片付いた床を見て感慨にふけり、いつものようにベッドの上で小説を読もうとしていた。ちょうど懐かしいと思ったものがあったので、それをもう一度読み直そうと思ったのだ。
だが刹那、少女はいつの間にか、部屋のドアの方を向いていたのだ。
そこからはまるで自分の意志で動いているのではないかのように、身体が勝手に動いていた。気づいたら目を瞑っていて、目を開けたと思ったら意思に反したように体がドアノブに吸い込まれて、開けて、勝手に電気を点けて、途中から諦めたように見えない引力に身を任せてしまっていた。そこからの記憶は……あまり、覚えていない。
だからカワウソのぬいぐるみを少女が持っていたのは、最後の抵抗のようなものだったのだろう。視覚で覚えているわけではないが、なんとなく指先が柔らかいものに触れたような感覚が過去の記憶として残っている。
「最後の、抵抗……?」
待て。なぜ今、最後の抵抗などと思ったのだろう。翔奏の部屋には一度来たことがあり、玄関に通じる廊下のところからなら自室に戻ることなど容易だ。
それなのに「最後の抵抗」と判断してしまっているということは、もしかして——。
「…………」
少女はなにも言わず、ゆっくりと立ち上がる。
地面は冷たく、裸足では五月とはいえ辛いものがあった。
一歩進む。ぺた、ぺた。
二歩進む。ぺた、ぺた。
まるで翔奏の部屋の廊下とは違う、言えばコンクリートのような感触がする。
「……そうだ」
この感覚に、少女は覚えがある。
何千、何万回と踏んできたところだ。外に出ない少女にとって、唯一自分以外とつながれる手段になってくれた、何度も少女の足を地とつないでくれた場所。
ここは——まさか。
「五階の……最奥部?」
特別病棟五階の最奥部。名前の通り、少女が入院している特別病棟五階の最も奥にある、永らく誰も入っていない空の元病棟長の部屋のこと。不謹慎な物音が夜な夜な起きるということと単純な利便性を考慮して今は一階の総合ナースステーションの奥にあるが、三、四年前まではここが病棟長室だった。
そして少女は病棟長室がここにあった期間中、何度もここに来ていた。看護師長でいつもここにいた如月に会いに来ていたと言う方が正しいのかもしれないが、だからこそ少女は音の反響具合だけで、そこがどこの部屋なのか分かってしまったのだ。
記憶が正しければ、病棟長室には窓がない。なので月の光も差し込まない上に、今は物の一つもないのだ。若干埃臭い気はするが、それだけではどこがドアなのかは判断しかねる。
足が地面に張り付いてしまったように固まって動けない。それが恐怖によるものなのか、戦慄によるものなのか、分からない。
とりあえず少女は震えそうになる身体を無理やり捩り、暗闇に目を凝らしてみる。
「…………?」
しかしその紅の瞳にはなにも映らない。映らないどころか脳のキャンパスすらも黒いせいでなにも考えられなくなり、焦燥だけがどんどんと膨れ上がる。
その反動なのだろうか。少女は持っていたぬいぐるみをぎゅっと抱き、それだけは絶対に話さないようにと口元に持って行く。すると動かなかった足も、少しは自由が利くようになっていた。
なぜだろうか、このぬいぐるみを持っていると安心する。不安や焦りが一気に吹き飛んでいくのだ。これはぬいぐるみ自体のおかげなのか、それともくれた翔奏の影響なのか。守ってくれているような感覚が、少女の全身を包み込む。
だがどちらにしても今考えるべきことは違う。少女は再び動きの利くようになった足を動かし、部屋の中を探索する。どこかにドアはあるはずなのだ。
そうして探し始めて数分。少女はようやく銀色のドアノブを見つけた。
「あった……っ!」
瞬間、少女の顔がよろこびの色に染まる。
少女は慎重にドアノブを手に取り、ゆっくりと回す。
するとどうだろうか。その先に広がっていた光景は。
「…………っ」
また、暗い廊下だった。思い出してみれば病棟長室は廊下を何度か曲がった先にあり、だからこそ遠すぎると言う理由で部屋も移動することになったのだ。
それを今、少女は忘れていた。完全にナースステーションに続く一本道に出るばかりだと、そう思っていた。
どこにも如月の姿は見えない。当然、翔奏の出ていく背中も、ベッドから落ちて寝てしまった膝の上も、なにもない。あるのは、暗闇だけ。
それがどうしようもないほど、少女を怯えさせた。
誰も自分を待っていてくれない。扉の先で少女を待ってくれる人は誰一人としていないんだ、と嫌でも分かってしまうから。
少女の中で、嫌な記憶が段々と鮮明になっていく。
——恐くて、仕方がなかった。
——寒くて、凍りそうで、吹き抜ける冬の風だけが私に当たる。
——足はもう動かなくて、手の感覚もすでになくなっていて。目の前にある冷たくなったものだけが、私にとっての唯一の希望だった。
——希望はなくなった。とっくの昔に、そんなものはなかったはずなのに。
——期待した。けれど、だめだった。
——だから、私は。
だから少女は、暗闇に侵食されていく。
「…………こわ、い」
誰にも聞こえないか細い声は、しかし廊下に小さく反響していた。
その反響に反比例するかのように、少女の恐怖心は増大していく。
あの時のような気持ちが、膨れ上がっていく。それは限界を知らない風船のようで、少し触れば爆発してしまいそうなもので。とっくに少女は、傷つけられていた。
——もう、誰にも止めることはできなかった。
「ごめん、なさい」
震えた唇で、震え手指で。
「ご、めん、なさい」
息が途切れる。涙は出ない。のに、焦点が合わない。
「ご、め、ん、なさ、い」
なんて言っているのだろう。自分は、今どこにいるのだろう。
「ご、え、ん、あ、さ、い……っ!」
ついさっきまでは平気だったのに。どうしてしまったのだろう。こんなに、取り乱してしまうなんて。
少女らしく、ない。
「ごえんなあい、ごめんっ、なさい、ごめん、ん、な、あい……」
優しくなでてよ。それだけでいいんだよ。それだけで、私は、十分なのに。
なんで誰も言ってくれない。なんで誰も私のことを気にしない。私を、もっとかわいがって。なぐさめて。近くにいて。
特別じゃない私にさせて。ひとりじゃない、誰かと一緒にいる普通の幸せを、感じさせて。
それなのに。
少女は、ひとりだった。
こういう時、小説やドラマなら主人公が助けに来てくれるのだ。雨の中だったら傘を持って、雪の中だったらコートを着て、暗い中にいるのだったら明かりを携えて。
けれど、そんなご都合主義な世界ではない。それが現実、それが人間。誰しもが求めるものを持っている人は誰しもが持っているものを欲しているように、完璧なことなんて、なに一つとしてないんだ。
少女が持っているものを、翔奏は持っていない。
翔奏が携えているものを、少女は欲している。
そういうふうに、世界は回っている。
欠けているものを補い合って人間は生きていくなんて、ただの綺麗事だ。それが本当なら、じゃあなんで今少女はこんなにも震えている?
もはや生きているのか死んでいるのかすらも分からなくなっていく。境界線があいまいになっていき、いつしか一つになる。
少女一人では、無理な話だった。
抱えきれなかったのだ。
溢れだしてしまったのだ。
すべて諦めてしまおうかと。
そう考えていた時だった。
——大丈夫だから。
声が聴こえた。
きっと少女にだけ届いた、その一言が。少女の耳には確かに聴こえた。
それはずっと少女が欲していた言葉。たった一つ、少女を救い出してくれる魔法のような言葉。
翔奏もあの時に言ってくれた。少女がサイレンの音で怯えていた時に、同じ言葉をかけてくれた。
(……そうなのかな)
少女にとって、翔奏は少し変わった男子高校生だ。如月を見てきて年上だからといって敬う必要がないことを少女は知っているし、少女にとっていかに翔奏が変わり者なのかということも他の誰でもない少女自身がよく知っている。だって、初対面の人の前で突然に泣き出すところとか、なぜか少女の見ている前で着替えようとしたことも、「変わっている」と言わなければどんな言葉で表せるだろうか。
翔奏が泣いたときも、なぜかは分からないが少女の中に母性本能のようなものが……この先を言うのはやめておこう。
だが——そんな気持ちは、この間のことで一瞬にして消えてしまった。
無関心から嫉妬へと、少女の翔奏に対する感情は変貌してしまったのだ。
翔奏が洗面所で嘔吐をしているのを目撃した時。少女の耳に聞こえたのは、「自分は普通じゃない」と虚無に言い張る、いや自分に言い聞かせる言葉だった。
つまり、翔奏は「特別になりたい」と思っているということ。それは今の翔奏が普通の状況にあるということの暗示で。
それに対して少女は、普通になりたいのだ。これがどうして、嫉妬しない理由になるであろうか。
だからといって翔奏に対する態度が変わるわけではない。しかし少女の中には確かに、翔奏に対する嫉妬、羨望のようなものがあったのだろう。
だが。
苦みを打ち消せるのは甘いものだけ。
黒を塗りつぶせるのは白だけ。
もしかしたらそんなふうに、特別な人を安心させることができる人は、普通の人だけなのではないのだろうか。
だから今少女は、こんなにも落ち着いているのであり。だから段々と、頭がクリアになってきているのではないのだろうか。
今さっきの言葉は、翔奏が言ってくれたものとは限らないし、おそらく幻聴だろうと少女は思う。しかしそれは、翔奏が初めて言ってくれた言葉であって。
少女は今度こそ前を向く。
「……もう、怖くない」
言霊のように、その一言は体中に浸透していく。
先程までの震えが嘘のように収まっている。帰るために——あるべきところに行くために、少女は足を進める。
欲を言えばあの時のように背中をさすってほしかったが、言葉一つだけで、少女にとっては十分だった。
十分すぎるほどに、その言葉に依存してしまっていた。
だから、少女は走れる。息を切らしながらも、本当は怖いことを隠しながらも、前を見られるのだ。
走る。怖くないと自分に言い聞かせながら走る。あの時のような冷たい地面を、けれど今はそんなことは気にせず、ただ走る。
もしかしたら少女は追いかけられているのかもしれない。少女にしか分からないなにかから——あるいは恐怖から、必死に逃げているのかもしれない。誰もそれを止めはしない。けれどそのまま走るのも、また危険を顧みていない。
少女はもはや自室となった病室までのルートを必死に思い出す。
(確か全部の角を右に……それを三回繰り返すんだったっけ)
思い出しているうちに、一つ目の角に当たる。まずここを右に曲がる。すると、次の廊下が見えてくる。
非常用出口の緑色のライトだけが天井に見える。それがまた妖しく光り、少女の乱れた黒髪を照らす。
そうして二つ目の角。これも右に曲がっていく。その廊下の奥には消化器が設置されていて、永らく使われていないであろう病室が左右にずらりと並んでいた。
記憶よりもたくさんの病室があるな、と思っていた時だった。
油断、していた。
「ふぐっ⁉」
廊下の途中にあった小さな石に足が当たり、その驚きで足が縺れて肩から地面に倒れこんでしまった。
石は前へ吹き飛び、遅れて肩から足にかけての痛みが少女を襲う。
「ったあ……⁉」
息を切らしながら、朦朧とした頭で少女は立ち上がろうとする。
だが不思議と力が入らない。なぜか、立ち上がろうと手をついても肘が折れてしまうのだ。
「なん、で!」
はあ、はあ、と肺に酸素を届けながらも、少女はなんとか足を立てようとする。だが、やっぱり無理で。
その代わりに、視線が少女の今来た方向に向けられる。
「っ……!」
なにもない暗闇。その奥から、まるで襲うかのように少女を追いかけてくる本当の黒い空間。それが少女にとってはどうしようもなく怖くて、恐ろしくて。
怖くないと自分に言い聞かせても、また震えが止まらなくなる。
と、その時。
「っ、かわうそ‼」
少女が両手で抱えていたはずのぬいぐるみが、いつの間にか少女の手を離れて廊下の先へと転がっていた。
それはなにも言わずに、じっとこちらを見てきていて。
「……こんなんじゃ、だめだよね」
少女は小さくそう呟き、ぬいぐるみへと手を身を捩りながら伸ばし、その左手を掴む。
そうして引き寄せたかと思えば、少女はそれをぎゅっと両手で抱く。
「私は怖くなんかない。……怖くなんか、ない!」
刹那、手を床に突いて少女は勢いよく走りだす。その反動で、目前へと迫っていた暗闇は遠ざかっていく。
そうして走り、最後の壁が少女を迎える。
(ここも……右!)
最後の角を右へと曲がると、見慣れた明かりが少女の瞳に映る。
そう——ナースステーションだ。
「はやく、はやくっ!」
だがそこが目的地ではない。少女が目指している場所は、そこではないのだ。
ぺた、た、た、ぺた、と走る音が空間に響く。その音を聞いても誰もナースステーションから出てこなかったのは、ちょうど今、誰もいなかったからだろう。
そうしてナースステーションを左手に、少女は左に曲がる。
喉が吐く息と吸う息で焼き切れそうだった。傷つけられて、治すことなんてできないと少女は思った。
——たった一人を除いては。
「っはあ、はあ、はあ、はあ……!」
走って、足が縺れて、でも走って——少女はようやくたどり着いた。
勢いよく、扉を開ける。
バタンッ
「っうわあ⁉ 誰‼」
そこにいたのは、未だ着替えていない、少女がひたすらに想い続けていた人の姿だった。
「…………っ」
思わず少女は、言葉に詰まる。
「瑞葉さん⁉ 大丈夫だった? どこかに行ってたりとかして……待って、大丈夫? 埃とか煤とか、服に付いちゃってるけど」
なぜか焦っているその人を、少女は呆然と見やる。
ずっと、ただひたすらに想い続けてきた人が、今目の前にいる。
「…………翔奏、さん」
「翔奏……だけど」
少女は一歩、翔奏へ歩み寄る。
心臓の高鳴りが、収まっていく。
「翔奏、さん、なんですか?」
「……? そう、だけど」
もう一歩、翔奏に近づく。
顔を歪まして、食いしばって、けれど、無理で。
「私、生きてます、よね?」
「…………。……大丈夫だよ。瑞葉さんはちゃんと、生きてる」
その一言で、今まで張りつめていた少女の糸が、ぷつん、と切れた。
少女は事切れたように、翔奏へと抱き着く。
「翔奏さん、翔奏、さん、かあた、さ……っ!」
求めていなかったのに。あなただけがいれば十分だと思ったのに。
翔奏は、こんな姿でも。
「……大丈夫だよ」
優しく背中をなでてくれて。乱れた髪を直してくれて。
こんなときでも。
「っ……ぅ、ぅう、ひぐっ、うぅ……っ」
あなたは。
「うぅうああああああああああああああああああああああああっ!」
少女を嫉妬させる。
28.綺麗事




